日本銀行の黒田東彦総裁による前例のない金融緩和でも景気回復とデフレからの完全脱却を果たせない中、安倍晋三内閣と日銀の経済活性化策が「ヘリコプターマネー」的な色彩を強めていくのではないかとの懸念が市場で浮上している。

  政府の景気刺激策の財源を中央銀行の紙幣増刷で賄うヘリコプターマネーは、ノーベル経済学賞受賞者のミルトン・フリードマン氏が1969年に提唱した。20カ国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議は第2次世界大戦の遠因にもなった通貨安競争をけん制し、金融緩和効果の限界に言及。有望視される財政拡張の資金源として、ヘリコプターマネーをめぐる議論が世界的に広がっている。

  JPモルガン・チェース銀行の佐々木融市場調査本部長は、日本政府がヘリコプターマネーに踏み切る「環境が完全に整った」とみる。円安要因となる金融緩和の強化とは異なり、財政拡張は「基本的に国内政策であり、他国から批判されにくい」と説明。ただ、ひとたびヘリコプターマネーの領域に踏み入れば、日本経済、とりわけ国民は最終的に「大惨事」に見舞われる恐れが強いと懸念する。

  ヘリコプターマネーには、米連邦準備制度理事会(FRB)の議長に就任する前のベン・バーナンキ氏も2002年の講演で言及。金融不安とデフレ下の日本に対して提案した経緯があり、市場では「ヘリコプター・ベン」とも呼ばれる。中銀による財政ファイナンスは日米欧とも法律で原則禁止されているが、英銀スタンダードチャータードは日本が早ければ年内にも国債の日銀引き受けに踏み切る可能性があると読む。

  BNPパリバ証券の河野龍太郎チーフエコノミストは「財政が拡張方向にあり、追加的な赤字が国債増発でファイナンスされればヘリコプターマネーだ」と言う。日本は13年に10兆円規模の補正予算と異次元緩和の導入で「アベノミクスの初期段階からヘリコプターマネーに手を染めていた」と指摘。今年度も日銀の国債保有増が財政赤字の2倍超に上るため、「追加財政を打つ分だけヘリコプターマネー的になる状況だ」とみている。

  今月15日のワシントンG20会合後の記者会見で、ルー米財務長官は日本の為替介入をけん制し、財政出動や構造改革による内需主導の成長押し上げを要望。増税の時期にも配慮を求めた。国際通貨基金(IMF)は最新の世界経済見通しで、広範囲な長期停滞局面に陥るリスクが高まっていると警告。今年の成長率を3.2%、来年は3.5%に引き下げた。特に日本は16年が0.5%に半減、17年は円高や消費増税を背景に0.3%からマイナス0.1%に下方修正した。

事実上の財政ファイナンス

  自民党の山本幸三衆院議員は熊本地震前の13日、10兆円規模の国費を投入する財政拡大策を主張。来年4月の消費増税も延期が当然だと述べた。14日付の日本経済新聞朝刊は、政府・与党がインフラ整備に使う資金をほぼゼロ%の金利で民間企業に融資する仕組みを検討すると伝えた。日銀のマイナス金利政策で発行コストが大幅に低下した国債を増発し、政府系金融機関を通じて最大3兆円を貸し出すとしている。

  日銀は2%の物価目標の達成に向けて13年4月にマネタリーベースを積み増す量的・質的金融緩和を導入し、翌年10月末には国債保有増を年80兆円に拡大する追加緩和を実施した。今年1月末には金融機関の当座預金の一部に0.1%のマイナス金利を適用することを決定。金利低下を促し、結果的に債務残高や利払い負担の増加を抑えてきた。

  スタンダードチャータードでグローバルマクロ戦略・為替調査の責任者を務めるエリック・ロバートセン氏(シンガポール在勤)は「世界中の先進国に必要なのは財政支出、インフラ投資だ」とみる。日銀は物価目標を達成できず、景気低迷や円高・株安などが続けば、究極の選択を迫られると分析。「日本はすでに事実上の財政ファイナンス状態にあると多くの人々が考えている」と言う。

  財政ファイナンスとは、厳しい財政状況にある国の政府が多額の国債を発行して中銀に引き受けさせ、紙幣の増刷で財政赤字を穴埋めする状況を指す。財政破綻の懸念から国債相場の暴落リスクにつながるほか、通貨の信認低下で為替相場が下落し、輸入物価の急騰などを通じた高インフレが国民生活に深刻な打撃をもたらす恐れがある。

日本は「炭鉱のカナリヤ」

  財政法の第5条は公債の日銀引き受けを禁止。ただ、「特別の事由がある場合に、国会の議決を経た金額の範囲内」なら例外としており、日銀法にも第34条に同様の規定がある。日銀法は第43条で同法が規定していない業務を禁じているが、日銀の「目的達成上必要がある場合に、財務相及び首相の認可を受けた時」は例外扱いだ。

  黒田総裁はウォールストリート・ジャーナルが今週報じたインタビューで、インフレ率を2%に押し上げる上でヘリコプターマネーのような政策の活用は意図していないと言明。一方、欧州中央銀行(ECB)のドラギ総裁は同政策について「興味深い」と発言しているが、第1次大戦後に極度のインフレに苦しんだドイツのバイトマン連邦銀行総裁は政府と納税者がツケを払うことになるだろうと猛反対している。

  ドイツ銀行で外国為替調査の共同責任者を務めるジョージ・サラベロス氏らは15日付のリポートで、日本は既存の経済活性化策が限界に近づいており、次の世界的な政策の革新をめぐって「炭鉱のカナリヤ」的な位置付けにあると指摘。財政ファイナンスの確率は大方の予想より高そうだとみる。

  世界経済は1929年10月に発生した米国株の暴落をきっかけに恐慌に陥った。日本では31年に発足した犬養毅内閣の高橋是清蔵相が金本位制からの離脱や円の切り下げ、国債の日銀引き受けによる財政拡張というリフレ政策を断行。英国の経済学者ジョン・メイナード・ケインズが「雇用・利子及び貨幣に関する一般理論」を発表する数年前に、他の主要国に先駆けて景気回復とデフレ脱却を果たした。

  サラベロス氏らはヘリコプターマネーを分析したリポートで、高橋蔵相が「日本のケインズ」と呼ばれていると紹介した。麻生太郎財務相は第2次安倍内閣発足から間もない2013年2月にNHKのインタビューで、デフレ脱却については「歴史に学ぶ以外に方法はない」と発言。高橋蔵相の対応策を「いろいろ工夫しながら模倣している」と明かし、日本経済を数年で健全な状態に戻せるとの自信を示していた。

  高橋蔵相は前例のないリフレ政策で成功を収めた後、インフレを抑えるため軍事予算など財政の膨張抑制に転じた。これが遠因の一つとなり、1936年の2・26事件で落命。日本は財政面でも軍部の暴走を抑えきれなくなり、翌年からの対中全面戦争を経て第2次世界大戦に突き進み、45年に敗戦を迎えた。