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猫の現象学

ほら、だから猫に文章を描かせるとこうなるんだ

続・読書感想文が書けないという苦悩

阿呆科
前略
 
「嵐」の件でアツさをチャージされたようで何よりでございます。こちらはやっと吉行の『原色の街』を読んでいます。かれの眼差しは女性に優しいですから白ポストに入れてはいけませんね。

ブログなのに書簡のようになってしまいますが、言及ありがとうございます。

寡聞につき、totoは先日まで洗面所周りのアレしか存じ上げませんでした。名曲でした。

メルヴィル『白鯨』についても、お厚いのでまだ読んだことがありません。文章を読むのが苦手なのです。あるいは教育学部の人に「名作」とお勧めされたことがあって、でも、だから、敬遠していたのかもしれません。イシュメイル(イシュマエル)が生き残るとのことですが、するってえと、なかなかに異端なお話じゃございませんか*1
 
ひと昔以上前、古書店で『老人と海』を仕入れまして、手もとにあるのは平成3年に刷られ昭和58年の福田氏の解説付きのものです。実は中学生の頃に一度読んでずっと持っていたのです。ヘミングウェイカミュの両方を読む中学生というのは、少々変わっているのかもしれませんが…もし「アメリカ文学」と「中学生」の親和はどこにあるのか尋ねられれば「ある種のストイシズム」ではないか、などと答えたいと思う所存です。
当方、文学は概ね知らないので…アメリカ文学もわかりません。しかし『老人と海』のリアリティに満ちた文と「死ぬまで闘うぞ」という意志とも筋力ともとれるような力は、いわゆる西洋の“complicated”な「精神」とでも申すべきものとは明らかに異なる位相に輝いているように感じられます。
 
ほとんど文化のない唯唯広い土地で育った私にとって、アメリカの思想(これは文学ではなく、心理学や工学、経済学の分野でしたが)に親近感がわくのは当然の結果だったのかも知れません。私は学生の頃、西洋の思想を「ミクロな視点」、欧米の思想を「マクロな視点」と勝手に呼んで区別していました。
東京のように人口密度の高く文化のある街に来てやっと、なんとなく西洋思想を理解しはじめ案の定20世紀前半のドイツフランスあたりでドツボにはまり、竹田青嗣に救いを求めた学生生活を送った私は、結局卒業間際にアメリカのなぜか航空工学(!)に触れることになるとは予想しておりませんでした。
 
みずみずしい袖の下(袖に入りきらない?)付「ヘミングウェイ論」は、きっと、牧野先生もよーーく覚えていらっしゃることでしょう。
 
そうです、読書感想文の件で一筆書こうと思っていたのです。
 
読書感想文は義務教育以来やっておらず、誤字脱字以外の親身な赤入れはいっぺんもいただいておりません。小学2年生くらいで、たまたまジャングルジムから落下して運悪くコンクリートに頭をしたたか打ったところ*2、読書感想文コンクールで何か受賞したことがありました。養老孟司が脳裏をかすめました。これが「うってかわって」というやつでしょうか。わたしは表彰状と、表紙のつるつるした全受賞作品(感想画含む)の掲載された冊子を貰いました。
こんなものが、世の中に、あったとは。
最優秀賞優秀賞佳作など作品にひと通り目を通して、よくわからない明るさのようなものに(きっと確信犯も素直な人も混在しているのでしょう)、「世界の違う人が受賞してしかるべきもの」という違和感を抱き、眩暈をおぼえました。
 
しかし例の読書感想画の『むしばがすっぽん』!*3、あれはきっと私の好みの不条理文学なのだと思います。ふふふ。もし今も残っているなら感想画を拝見したいところです。だけどやっぱり、歯医者、こわい……(だからまんじゅうもこわい)
 
 
小学校5年生の頃でした。
竜の出てくる話を読んで、頭に浮かんだ恐ろしくも美しい生き物を描きました。画用紙が足りなくて竜がはみ出してしまいました。この子はヘラジカのような立派な角とまさに村山富市的なふさふさの眉、長い髭の生えた頭、胴体には軽く薄いチタンのような鱗が敷き詰められ、猛禽類よろしく鋭い爪の生えた前脚はドラゴンボールではなく鈍色に光る玉を掴んでいました。触れたら手が血塗れになってしまうくらい、強いんだ。わたしは、ティラノサウルスの胴体が蛇のように均等に長く伸びたような不思議な生き物を書きました。尾をみる頃には頭を忘れてしまうくらい長い。と思いながら、鱗の一枚一枚に光と影をつけるように色を塗りました。初めて砥石で研いだ包丁みたいな竜になりました。我ながら力作だと思いました。
 
すると後日、竜がいなくなっていました。はて、目を入れたからだろうか。
 
後日「海外の学校に寄付した」と、担任に言われました。まさか。もう日本には戻ってこないとのことでした。代わりにその国で買ったというぬいぐるみをもらいましたが、自分の分身が外国に行ってしまったような寂しい気持ちになりました。
 
このさき一生、表彰なんかされないだろう。私は「コンクール」向きの人間ではないのだろうとなんとなく悟りました。いつの間にか身の回りのものが海外逃亡してしまう。そんなに日本が嫌か。これでは日本の「審査員」のお眼鏡には一生かなわないだろう。それにしても、どちらがイシュマエルなのだろう。もはや惰性で読書感想文を書くしかありません。この頃はまだ惰性で生きるだけの体力がありました。アルジャーノンに想いを馳せつつ、ひきつった微笑をたたえ、ムルソーに共感する私を、審査員たちは毎回非難しました。仕事だから仕方がないのでしょうけれど「健全なる精神は健全なる身体に宿る」とのことでした。
 
英文科は『こころ』が書ける。
仏文科は『斜陽』。
それでは、哲学科は…
 
哲学科の先輩「白ポストの中には。」
わたし「誤解である」

 

*1:『異邦人』ではアラビア人が銃殺されますよね。当のムルソーも死刑になりますが

*2:左の頭頂葉〜側頭葉あたりでした。レントゲンは撮りましたが色々手遅れだったかもしれません

*3:階乗ではありません