青春真っ只中と、青春を終えた後にもう一度読んでほしい。
春にして君を離れ
春にして君を離れ
ミステリーの女王として名高い、アガサ・クリスティー。
この「春に君を離れ」は、彼女の唯一書いた、普通の小説といわれている。
青春とはなんだろうか。
本は好きだ、だから青春を連想する本はたくさんある。青春というものをどう定義するかによってかわってしまう。
青春、青春・・・とふけってみたところで思いだした、寺山修司さんの表現です。
青春というのは、幻滅の甘やかさを知るために準備された一つの暗い橋なのだ。
幻滅の甘やかさ・・・青春の時は自分の力が及ばないことにも、夢を見てしまう。
それは、志半ばにするとか、人生を諦めてしまうのとは違っていて。自分と他人の区別がつかない、だから恋愛でいえば過度に束縛してしまったり、相手の長所や短所を理解してあげられなかったり・・・というような状態。
イニシエーション・ラブ以前・・・とでもいうか。
青春とは諦めることを選択しきれない、ある種、暗い期間なのかもしれない。そう、ストンと胸に落ちたのを思い出した。
そして、「春に君を離れ」は、わたしに、疑いと諦めの甘やかさが足りないと笑う本だ。
アガサ・クリスティーが残した、唯一「普通な小説」
主人公である主婦・ジェーンは、以下のように思っていた。
- いろいろあったが、自分の人生はうまくいっている
- いつだって子どもや夫に最善のアドバイスをしてきた
- わたしこそ、まさに良妻賢母!
- あいつのような惨めな境遇ではない
ずいぶんと尖った言い方。この表現を通して、妻の黒い部分が浮き彫りになる。自己肯定の罠だ。
読者が受け取る彼女の印象は、かぎりなく悪で、同情に値しない。
読み進めていくにつれ、疑うことになれ、確信し、読者の中では悪のイメージができあがる。憂鬱な最後を、誰もが想像する。
でも、実際はこれ以上にないほどまでに曖昧だ。虚勢をはっているのは、彼女なのか、それとも・・・。ミステリー界の女王が残した「普通の小説」は、人間の黒い部分にせまる、大きな謎を孕んでいる。
限りなく深い、グレー。
この本を読んだ時、わたしは青春の入り口付近だった。
衝撃的なラストではあったけれど、中二病もこじらせていたから「ほら、やっぱりそんなもの」という、ささくれ立った受け取り方をした。可愛くない。
今思い返せば、フィクションと現実を重ねるのにはコツがいるし、人生は小説より奇なりです。全力で頬をつねってやりたい。
ただ、青春の一歩手前でこの本に出会ったことは褒めたい。
青春の入り口で出会い、謳歌し、また今日このごろに読むまでの期間は10年あまりの時がたっています。青春の入り口では「そんなもの」と卑下する受け取り方をしましたが、今の私が読み返すと、そう悪いラストではありません。
あれれおかしいぞ、そんな波乱万丈な人生ではなかったはず・・・。
なぜ夫はこの行動に出たのか、なぜ子ども達はそうしたのか、なぜ妻はそのままでいるのか。初めて読んだ時はかぎりなく深いグレーだったのに、10年後のわたしが読むと、限りなく白に近いグレーだと感じました。
きっと青春時代より疑うのがうまくなったのでしょう。疑うべきは主人公以外にもあり、真実は人の数だけある。
とはいえ、まだまだ24才独身OLは青春のさなか。
これから多くを知り、挫折し、成功し、想像しえないものがうまくなる予定なのです。
その時に楽しく振り返るためにも、「春にして君を離れ」のように一味も二味も楽しめてる本。時間がたった後に、無知だった自分を笑ってくれる本を、読み重ねていきたい。
わたしの青春の一冊は、アガサ・クリスティーの「春にして君を離れ」
青春の入り口付近のわたしが出会い、「幻滅の甘やかさを知るために準備された一つの暗い橋」を共に渡り、疑うことがうまくなったと暖かく教えてくれました。
この本を読むたびに、疑いと諦めの甘やかさと、青春以前の青さをかみしめます。いや、本っていいね!