熊本の大地震で、熊本城の石垣が崩落してしまいました!かつて西南戦争で西郷隆盛でも落とせなかった名城です。そのお城の歴史や特徴を紹介します。
築城の名手「加藤清正」
豊臣秀吉子飼の大名が加藤清正です。この人物は築城の名手と言われている人物です。加藤清正が築城した城には特徴があって、石垣が急勾配になっているのです。
そのため、攻め手の兵は石垣を登りづらいところが名城と言われるゆえんです。その加藤清正が千葉城や隈本城があった茶臼山・丘陵一帯に築城したお城が熊本城になります。
加藤清正は戦の時に水不足で苦しんだ経験があった為に、このお城には水不足に備えるために、井戸が作られているのです。
維新の大英傑「西郷隆盛」を撃退!
加藤清正が生きた戦国時代も過ぎ去ってから、明治の時代に熊本が戦場となる時が来ました。
それは、新政府の政治に納得できない維新の大英傑西郷隆盛が士族を率いて起きた内戦です。
西郷隆盛が率いる士族には、屈強な薩摩隼人も数多く含まれていました。西郷隆盛は熊本城に攻めかかりましたが、それでも熊本城は落ちませんでした。
その後、西郷隆盛は「わしは官軍に負けたのではない。清正公に負けたのだ。」と嘆いたと言われています。
数多くの伝説
熊本城にはいくつか伝説めいた言葉が残っています。このお城には立派な銀杏の木があって、別名銀杏城ともよばれていたほどです。ある時、加藤清正は「この銀杏の木が天守と同じ高さになれば兵乱(戦争)が起こるだろう」とつぶやいた話があります。
その銀杏の木はすくすくと育ち、銀杏の木が天守とほぼ同じ高さになった時に西南戦争が起こり、熊本の地で兵乱が起こったのです。
東日本大震災で起きた誤解
平成の時代になり、熊本の地に震度7の大地震が起きて熊本城の石垣が崩れたというニュースには驚きました。
加藤清正が築城した石垣が崩落したというのは、信じられなかったのと同時に震度7の恐ろしさがよく分かったのです。
東日本大震災のインパクトが強すぎて、津波さえこなければ地震大国日本の建築技術であれば、被害は大きくならないという誤解が生まれてしまいました。
国宝となるお城や寺社仏閣はもちろん、民家である家も出来る限りは耐震機能を向上させる必要があるでしょう。
日本にいる限りはどこにいても地震が起きてもおかしくないので、早急になんとかしなければいけないはずです。なぜなら、国民の命は国宝に負けないほど重いからです。