特に小説はいけない。
文章のつぎつぎ織りなす情景に呑まれてしまって、読み終わった後しばらく何もできないままぼんやりする。
ともすれば、帰ってきた浦島太郎のようにうっかり玉手箱を開けてしまって
タチマチ シラガノ オバアサン
になっているかもしれない。
怖くなって洗面台の鏡をのぞき込むと一応顔と呼ばれる部分に目が2つ、鼻が1つ(鼻の穴は2つ)、口が1つ付いている。白髪になっているわけでも急に170歳くらいのお婆さんになって長寿記録を更新しているわけでもない。
本の内容をインプットし→自分なりの適当に媚びた感想を添え→わかりやすくアウトプットする
この至極当たり前のことが私にはできないのである。技術や読書量が足りていないか、或いは頭の毛が3本足りていないのか。
そもそも自分の思いなど、わかってもらえるわけがない。というのが私のスタンスであり、だからこそ感想文を書いてコミュニケーションの訓練をせねばならないのだろう。それは恐らく唯脳論を以てしても火を見るより明らかだ。
目の前のリンゴの赤が、全員に「同じ赤に見えてる」なんて馬鹿げたことは、養老孟司なら絶対言わない。ただ場を進めるために「同じ赤だ」または「同じ赤じゃないかもしれないけれど、私にはこう見えた」と決めつけていくことが大切だ。それを、1200字~2000字程度で実演してみせろという宿題が、読書感想文なのだと思う(個人的な見解)。
しからば、読者の立場も踏まえろということだ。猫に説明するには、原稿用紙はいまいち物足りないだろう。またたび、猫じゃらし、その他うってつけのおもちゃで説明するのが適当かも知れない。火星人が相手だったら、感想文の成立条件あるいは読書という文化の存在から確認すべきかも知れない。
また西洋方面の哲学者になると、古代ギリシアから脈々と連なる哲学のメンツを潰すな、わかりにくいようにわざわざ悪文を書けという圧力がかかるのだ。
「どうだ、わからねえだろう、愚民ども。ほら難しいだろう!恐れ入ったか!」と書くのである。
実はこれにはからくりがある。
さもなくば、全世界哲学研究者連合会の闇の会長みたいな人が合図をするのである。すぐに対象者はタイムマシンにのせられ、処刑されんとするソクラテスの傍に連行されるのである。そして一緒に毒杯を勧められる。
こういったわけで、哲学書には悪文が多いという話でした
嘘です
*1:καὶ σὺ τέκνον