前回はイギリス・ウェールズの歴史の概要をお話いたしました。
簡単におさらいしますと、
・1世紀~5世紀まではローマ帝国の支配下
・ローマ帝国がグレートブリテン島から撤退した後、しばらくはウェールズ人の祖先であるブリトン人が統治
・ウェールズ人同士の領土争いの内乱やアングロ・サクソン人(現在のイングランドの原形となる国々)との戦い
・更にフランスからやって来てイングランドを征服したノルマン人の侵略に合いやがてウェールズも征服
つまり古代から中世にかけて戦乱続きの時代だったのです。今回はローマ帝国の支配下にあったローマ時代について、この3人に話し合ってもらいます。
ローマが去ってウェールズに国が戻った
ローマ時代ってどんな時代だったのですか?
簡単に言うと当時のイギリスはローマ帝国支配下で、ローマ帝国の高級軍人が司令官として任命されていて、この司令官のもとブリトン人の首長たちは領土の自治を行ったり、ピクト族やスコット族などの外敵から守る辺境警備をした、という時代だよ。(※ブリトン人は当時イギリス一帯に住んでいたケルト系民族でウェールズ人の祖先)
はぁぁぁ
ん~分かりやすく例えて言うと、、、日本の平安時代では朝廷が国司である〇〇守を派遣して豪族たちを支配していた例えを用いると、ウェールズではローマ朝廷がウェールズの守を派遣して各首長たちを支配していました。という感じだね。
何となく~イメージがわいてきました。
ウェールズを含むブリタニアでは、ローマ朝廷の力が弱まって来ると地方豪族の各首長の力が強くなり各国を自治するようになったんだ。ローマ朝廷が去った後はコエル・ヘンなどの影響力を持った首長たちが王となって、ローマの代わりにブリタニアやウェールズを治めるようになったんだよ。
そうすると、ブリタニアやウェールズがまた元のブリトン人に戻った
ということですか?
その通り。少しウェールズの歴史に慣れてきたようだな。
ローマ支配の時にウェールズの人々は自分たちの国を取り戻そうとしなかったのですか?
おっ、良い質問だな。
拡大より安定、戦いより友好の考え
首長たちは、お互いけん制し合うことはあったものの、国を取り戻そうとローマに戦いを挑んだり、首長同士で自治権を争ったりはしなかったんだ。むしろローマに従いピクト族の侵略を許すことなく辺境警備に従事しながら着実に自国を強くしてことに力を注いだようなんだ。
何というか地道というか・・・
そう見えるかもしれないが、君と違って弱気だったりしたわけじゃないんだよ
・・・・・
確かにローマに支配され始めたころは反乱が起きていたけれど、ブリトン人の人々は、自分たちのアイデンティティを認めてもらえればむやみに戦いはせず友好的な関係をつくろうという民族性があったようです。そのためか、ブリトン人の末裔が住むウェールズやスコットランドの南部は領土はあまり広げることはせず自分たちの領土はしっかり守っていくという姿勢でかなり長く国が存続したんだよ。
今の世界で十分通用しますし逆に学べる考え方ですね。この時代で活躍した王にまつわる話など教えてください~
英雄が多く生まれたウェールズ
4世紀初め、コンスタンチン一世がローマ皇帝の時、さほど位の高くないローマ地方総督がブリタニア司令官に任命されました。
ブリトン人は誇り高い人々で、低級軍人がブリタニア司令官であるということは、自分達が見下され軽く扱われている!植民地扱いでないか!!とひどく腹を立てます。
当時のブリトン人の有力な首長の中で現在の北部ウェールズに住んでいたエウダフ・ヘンは兵を上げブリタニア司令官に反旗を翻しました。エウダフはローマ軍に一度は勝利するものの敗れてノルウェーに逃げ計画はいったんは失敗に終わりました。
エウダフを支持する人々が再度兵を挙げ、エウダフはローマ軍に勝利して司令官の座を奪取しました。ローマ軍に勝利したもののエウダフはローマ軍が本気になって攻めてくることを恐れローマ軍ナンバー2の軍人、マグヌス・マキシムスを自分の娘と結婚させ後継に選んでブリタニア司令官の座を譲り、両国の間に出来た溝を平和的に解決しました。
しかし、この後継が問題となりウェールズ内で争いとなりました。エウダフの甥にコナン・メリアドクという男がおり、密かに「将来はブリタニアを支配するぞ!」と野望に燃え、子供が居ないエウダフ・ヘン王の後継を狙っていました。
マグヌスに後継の座を譲られては自分の野望計画が大幅に狂ってしまう!!コナンは大いに腹を立て、マグヌスを倒し後継者の座を奪い取ろうと戦いをしかけました。しかし、マグヌスはローマ軍のナンバー2の強者、コナンが敵う相手ではなく負けてしまいました。コナンは態度を大きく変えマグヌスと和解し、右腕として共に戦うことになりました。
4世紀後半380年頃の西ローマ皇帝はグラティヌスで、ローマ軍人達への待遇を軽んじたため大きな不評を買っていました。マグヌスは軍人たちの支持をバックに反乱を起こしグラティヌスを倒して西ローマ皇帝になりました。コナンは報酬として現在のブルゴーニュー地方の領土を譲り受け、ケルト系のブリトン人を大勢連れて移住しました。このため今もブルターニュ地方には多くのケルト系民族が多く住んでいると言われています。
一方、西ローマ皇帝に上り詰めたマグヌスは勢力範囲を広げることを止めなかったため、とうとう東ローマ皇帝テオドシウスに破れマグヌス・マキシムスの乱は終止符を打ちました。
その後ブリタニア司令官には、コエル・ヘンが務め、特に北部のブリタニアで広く勢力を持ちました。コエル・ヘンの一族はメン・オブ・ノースと呼ばれローマ支配時代以降、アングロサクソン族に占領されるまで広く北部ブリタニアの地を統治しました。
ローマ帝国自体がバンダル族やゴート族に攻撃されブリタニアに兵を置いておくことが困難となり、イギリスでのローマ帝国の影響力が低下していきました。410年のホノリウス帝の時にローマ軍はブリタニアから撤退して、事実上ローマ帝国支配が終焉しました。
最後に
最後まで読んでくださり有難うございました。
※ローマ軍が撤退する前後のブリタニア司令官はコンスタンティン三世やコンスタンス二世であり、アーサー王物語によりますと、コンスタンス二世はアーサー王の叔父、コンスタンティン三世は西ローマ皇帝でアーサー王の祖父とされています。
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