このひとの言っている価値のある人間の定義はほんの個々最近のいまどきな価値観の中でしか成立しない価値観だと思った。つまり今の社会に生きて居る私達、不特定多数の人間にグッとくることを言ってなんかカッコよく見えるブログを書くことだ(あくまでかっこいいのはブログだ)、10000のアクセスと10の読者、本人はブログ最後に10の読者を大事にしたいと締めくくっているけど、その最後の1文以外で言っていることは全部「10000のアクセスが欲しい」だ。すごく矛盾していた。
そもそも時々はてなぶろぐにはブログが評価される=価値のある人間と信じている人がいるみたいだ。もちろん、それこそ人の価値観はいろいろなので否定しようとしているわけじゃないけど。ネットの人気者って価値があるのかわからない、はたしてどんな価値なのか、こういう人たちはわかっていってるんだろうか、価値と、人気は違う。その意味をまちがっていないかな。
ヒカキンは人気者だし価値がある、しかし価値があるのは彼が素敵な人気者でみんなが彼の人格を崇拝してるとかそういうことじゃない、人気だしyoutubeというメディアの力が相まってとんでもなく使えるCMの道具になるからだ。彼は一つの広告塔として価値があった。そういう社会的価値だ。
Twitterでカッコいい記事をRTしてて情報収集能力がある、RTにちょっと良い言葉をつけられるってことのどこに価値があるのかはよくわからない。だってこの人が実践しているようにそんなこと誰にだって出来るからだ。オンリーワンなことだけに価値がやどるのかというとそうではない。でもこの人はなんだかフォロワー数=価値と思ってしまっているようで怖い。
ゲームをしていると、ゲームの世界ではハイスコアをたたき出せる、敵を倒せる、ランキングも上位、そういう感覚が自分の全能感になるらしい。現実の世界で、どんなにうまくいってなくても「俺は本当はできるんだ」と思い込んでしまうんだって。
もちろんネットの界隈で人気になってそれで仕事がもらえるひとも居るだろう、お金がもらえるというのはたしかに一つの価値の証明でもある。でもこの人のいうように、フォローすること=その人に価値をかんじているということにはならないと思う。「この人価値ある!」なんて思ってフォローしてる人なんていない。
価値って一言にいっても意味がありすぎる。誰かにとって価値ある人になるのか、社会的な価値なのか、存在価値なのか。この人はネットをつかって存在価値を手に入れたいみたいだけどそれは多分難しい。だってネットの向こう側の人は本人のソンザイなんて気にしてないから。社会的価値とはイコールお金に近い。それなら手に入れられると思う、アクセス数だ。アクセス数があって広告を貼る価値があるということになればブログに広告を張るとお金がもらえる。広告を張る場所としての社会的価値を見事得ることができる。
情報を流しているだけなんて、たしかに便利だ。だってこの人をフォローしてるとおもしろい記事が流れてくるから暇つぶしになるんだよねーって、でもそれだけ。それだけのこと価値と呼ぶのか?人が書いた記事をボタン一つ押して流すだけのことに?