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日本映画のこの先の話

 某まとめが話題となっている。→http://togetter.com/li/960956

 彼が本当に言いたかったのは個別の事例を無視した頭ごなしの「今の日本映画は糞」という意見に対して「神の目線で馬鹿にするのはやめろ」だったのに、結果的に「現場の苦労を知らない人間が作品をゴミとか言って貶すな!」という精神論の部分が燃え上がってしまった。「お金がなくて僕は味噌汁を作らなきゃならない。そんなのは僕の仕事じゃないのでせめて自分の仕事に専念できるくらいの予算をくれ」とか言っとけばよかったのに、そりゃ「いい映画は予算じゃない。だけどどんな映画でもそれを批評するなら現場を盛り上げようと味噌汁作ってる僕を知らずにボロクソ言うな!」と読み取れちゃう意見は一笑に付されるのも仕方がない。本当に彼が言いたかったのは「予算に関係なくいい映画はいい、悪い映画は悪い。だがどうなるにしても現場の矜持は大事にしていきたい」という意見だったのだがね(言葉の端々に滲み出る感情的な部分が炎上の原因だと思う)。

 それから彼の「予算が沢山ある映画はいいモノができて当たり前だから出来が悪かったら貶す」という発言、「 で、これは充分「偏見」だと思いますが、俺が貶してる映画の制作さんはしょぼい弁当をリカバーするためにミソ汁作ったりしないで済んでるじゃないかとw」という部分が蛇足だったと思う(ただの嫉妬なんだよなぁ……)。

 ぶっちゃけ見る側からすれば制作側の苦闘など関係ないのである。「苦労してこんないいものができた!」という話なら素直に褒めるが、言葉の端から滲み出る「いいものはできなかったけど僕の苦労を褒めて!」なんてのはどこにも通じない。それは見る側が言うことであり、作る側が言ってはならないのだ。映画という完成された作品において上映時間内に伝わらなかった苦労は存在しないのと同じだ。観客が作品内で受容できなかった苦労は内心誇ってもいいが、それを表に出して積極的に宣伝するのは興覚めである。パンフレットに苦労話が載るのは裏話としては面白いし、映画の出来が良ければそれも楽しく読めるだろう。しかし映画が酷い出来でどうしてこんなに酷いのかと開いたパンフレットに「僕は現場のスタッフの味噌汁を毎日作って鼓舞しました、なぜなら映画は出来よりもまずスタッフの気分が盛り上がっていないとうまくいかないからです(精神論)」なんて書かれてたらどうか。お前が作るべきは味噌汁じゃなくて映画なんだ、と誰もが思う。だから彼が書くべきは「僕は毎日現場のスタッフの味噌汁を作らないといけなかった。予算がないからだ。みんなが仕事に専念できる状況ならもっといい映画になったはずだ」なのだ。

 さて、散々書いたが彼の気持ちは分からないでもない。というか、映画史を少しでも学べば分かるようにほとんどの映画制作現場は予算との戦いだ。映画というのはあらゆる芸術の中で最もお金がかかるハイリスクハイリターンの商業作品であり、失敗すればデカい会社でも普通に潰れる(例:僕の大好きなマイケル・チミノ監督は『天国の門』(80)の大失敗により某大手会社を潰した)。そういうリスクを分散するために何社かが共同で予算を出す製作委員会方式というものがあり、現在はそれが主流だ(クレジットで○○製作委員会、と流れるだろう)。

 映画は上映からソフト化、グッズ化など成功すれば収入も膨大なため大作ほど宣伝費をたくさん使う。日本の映画資本は海外に比べて規模が小さく制作現場まで十分な予算が回らない場合が多いのは確かに憂うべき現状だ。だが、それは今に始まったことではなく、同時に世界中でそういう現場は数えきれないほどある。インディペンデント映画(自主製作映画)出身の有名監督もたくさんいる(例えば『指輪物語』(01~03)『ホビット』(12~14)のピーター・ジャクソン監督とか)ので一概に「予算がなければいい映画はできない」とは言えない(確認)。

 低予算であればあるほど『ブレアウィッチプロジェクト』(99)や『パラノーマルアクティビティ』(07)のようにアイデアが重要になってくる。僕が大学で研究している専門がその種の低予算映画ということもあり、強く感じるのは、こういう現場では確かに「情熱」が重要視されているということだ。だが同時に「作品の出来」も重視されており、「情熱だけはあった」と見て思うことはあっても、作る側が「情熱だけは評価して!」なんて言わない。言ってしまったら最後、唯一の魅力であった溢れ出る程の情熱が霞んでしまい本当の意味で糞映画になってしまう。

 そもそも糞映画好きに限って糞映画を愛しており、糞映画に対して彼らの言う「糞だったなwww」は褒め言葉なのだ。大抵その後で「だけど脚本はよかった」だの「女優のおっぱいたまらん」だの「鮫っていいよな」など褒め言葉が続く。考えてもみてくれ。例えば『バットマンvsスーパーマン』(16)を見る時、あの半端ではない予算のかかり方に圧倒された僕たちは見る前から当然面白いものとして期待し、どちらかと言えば粗末な部分を無意識に探す(もちろん某氏のように「たくさん予算かけやがって! 羨ましいから貶してやる!」なんて恨み言は言いませんが。というかそれが一番炎上の引き金な気もする)。それに比べて低予算映画はどうか。期待値が低いからすぐに満足できる上、低予算でも頑張っていた部分を無意識に探してしまう。楽しませてもらいに行く大作映画と違って、低予算映画は積極的に楽しもうとする姿勢が大切だ。

 さて、発言の発端となった記事(http://www.sankei.com/premium/news/160409/prm1604090022-n3.html)を読んでみると分かるのだが、この記事には賛同できる部分もあるが酷い発言に思えるものも多い(レベルが低いと言っておいていい作品もあるとダブスタで発言するところとかね、業界というデカい主語と個別作品を一緒に書くとか記事作った人は端折り過ぎなんだよ)。

「日本では映画は製作委員会のもので監督のじゃない。例えば、誰が監督したかみんなほとんど知らないでしょ。監督の名前を宣伝しない。英国などでは出演者には興味がない。『この映画はマイク・リーの新作』などと監督を重視する。」と発言者は言う。これは一部当たっているにしても偏見である。確かに日本映画は「監督よりもどんな作品か(ジャンル)」を重視する。だが例えばアメリカでも監督が重要だった作家主義の時代は過ぎ去り、一部の監督を除いては監督名より作品ジャンルが重要になってくる(尤も、アメリカの場合その一部の監督が日本の100倍くらいいるのだけど)。ものすごく簡単に言うなら、1970年代の作家主義が終わり、1980年代のプレイヤー(製作者)時代を経て1990年代のリヴァイバル作家主義、そしてゼロ年代になったアメリカ映画界は再びブロックバスター方式(上映映画館を増やしていく低予算映画の方式とは違う、大作映画に主流な一気に全国の映画館で公開する方式)を核とする商業大作が猛威を振るっている(アメコミ作品などのリメイク、合作が2010年代の注目すべき部分だと個人的には思う)。だからこれは世界中で起こっている問題なのだ。

 さらに、批評家がはっきり言わないという問題。映画に限らずあらゆるジャンルにおいて日本は欧米諸国に比べて批評の文化が弱いし、批評家の地位も低い。はっきり言う批評家は存在するが、活動場所は主にネットだ。雑誌じゃ無難なことしか書けないということなのか。そうだとするならそもそも映画だけではなく、あらゆるジャンルで批評家の質と地位の向上は果たされるべきではないか。いずれにせよ批評、という文化の輸入に失敗している現状があるのは確かだ。この問題についてはこっちにちょっと書いた→(http://suohwintergore.tumblr.com/post/142618355380/%E6%89%B9%E8%A9%95%E5%AE%B6%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6

 さて、話を戻すが、そもそも映画を見る際に何を重視するかというのはお国柄の問題ではないかとも思える。映画好きは周囲に自然と映画好きが集まるため監督名を重視するのが大事だとか考えるが(少なくとも見る映画の監督名くらい知っている)、日本の大衆のほとんどは好きなジャンルの映画が見たいだけであり監督は二の次だ。その状況を僕は憂うべきものとは一概に言えないと思う(発言者がイギリスの物差しで一方的に殴ってくるような印象を受けるから映画制作の現場の人たちはムカつくんだろうな)。ぶっちゃけ監督が良ければヒット作になるとも限らないし、製作委員会の言いなりなのは世界中で起こっている現象だ。それを考慮した上で、現在の日本は映画館行くという文化が弱くなりソフト化、データ化したものを買う人が多いというのは業界人も頭を悩ませている問題であるように思う。欧米型の娯楽装置である映画を日本式に変化させなければこのまま現状がズルズルと続き、映画産業は衰退してしまうだろう。

 監督名を宣伝するのは「この人が監督なら面白いだろう」という期待を持たせる意味があり、そういう所謂巨匠の作品は集客が見込めるため会社側も積極的に宣伝すべきだとは思う。また、あるジャンルの巨匠なら一定水準以上の話を仕上げてくる可能性が高いため同じジャンルのファンを何度も集めることができる(スコセッシのバイオレンス映画ならとりあえず行く、みたいな感じ)。だが、現在の日本で大衆を呼び込むならやはり作品内容の宣伝は一定量重視されるべきであると思う(なぜなら有名監督が少ないから)。だからむしろ「感動!」を前面に押し出すのをこそやめてほしい。映画好きほど口を開けば「感動!」しか言わない映画宣伝には辟易しているのではないか。

 そもそも大衆は感動を求めているのか。これは難しい問題だ。ツイッターや映画サークル、あるいは映画好きの人は必然的に交流する人間がみな映画好きなことが多い。少なくとも映画について全くの無知ではない。だが、主観的に見ると交流する人間=世界の全てであるにしても、第三者から見れば彼らはごく一部なのだ。映画会社は所謂姿のない大衆に向けてありもしない感動を前面に押す(それが一番"無難"なのだ)。ファンは放っておいてもくると踏んでいるかのようで腹立たしいが、それが現状だ。『マッドマックス』(15)のようにコアなファンが何度も見に言った映画はまれであり、同時にツイッターだけ見ていれば圧倒的興行収入に感じても実際はそんなでもなかった(もちろん興行収入はよかったけど1位ではなかったという意味)。映画宣伝の担当者は「ほれ見ろ、サイレントマジョリティに負けたではないか」とか思っただろう。輸血袋にしてしまいたい。

 どうやったらこの「感動の押し売り」を乗り越えて1990年代のアメリカのような作家主義時代、あるいは黒澤明や小津安二郎が映画を撮っていたあの時代の輝きを日本映画界は取り戻せるのだろうか。ここで重要なのは「現在の日本映画は昔に比べて糞」ではないということだ。名作は現在進行形で生まれ続けている。『地獄でなぜ悪い』(13)は最高だったし、最近では『残穢』(16)も原作の良さを残しつつ頑張っていたなぁと思った。だが、やはり商業主義の蔓延と金回りの見直しがなされない限り、現在の「感動」を前面に押し出した紋切り型の宣伝と中身のない大作の連発は続くだろう。中身がなくてもジャンルが好みならサイレントマジョリティは見に来るしある程度成功するので会社側はリスクを回避できる。

 ここで「そんなに言うなら解決策を提示しろよ」と言われると「必死に考えているんだけどねぇ」としか言えない。哀しき哉、僕は力不足だ。だからみんなも暇な時にでも考えてほしい。どうすればいいんだろうな。何が目指すべきところなんだろう。僕は松竹と東映が強かった昔の日本に戻れなんて思わないし、海外の方式で成功しようぜとも思わない。僕はただいい映画が見たい。感動するにしてもしないにしても、予算があってもなくても、見終えた時に「よかった」と言える映画が見たい。

 映画は娯楽と芸術のキメラだ。芸術性が高くてもダメ、商業性のみでもダメ、難しい。だが映画は確実にその国の文化になり得る。会社が利益のみを求めるのは当然だ。制作現場はもちろん完成度を求める。完成度の高い「いい映画」が量産されれば観客も来て会社も儲かってWin-Winだ。解決策の一つとして、現状よりもっと積極的に国が予算を出すべきだと思う。ただし出すのは予算だけであり、口は出さない。その予算の行く先は「制作者たちの育成現場」と「撮影現場」に対してである。特に後者。結局お金がなければ人は生きられず、良い人材もよそへ流れてしまうため業界は盛り上がらない。

 だからせめて現場のスタッフが味噌汁を作らなくてもいいくらいの予算を確保できるよう国には動いて欲しい。クールジャパンとか言ってるんだからよぉ、頼むわジャパン。このままじゃ氷河期並に凍りつくぜ。

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