アウト、セーフ!?お釈迦さまが性愛について教えてくれる経典『律蔵』
わたし達日本人にとって一番身近な宗教、仏教はもともと性には大変厳しい宗教でした。ありがたくもお釈迦さまが性愛について「これはアウト!」「これはセーフ!」と事細かに判定をくだしてくださったお経があります。『律蔵』というもので、お釈迦さまは成文主義的なやり方ではなく、判例主義的なやり方で戒律を作りました。
そのため、このお経には、弟子たちの行動の具体例と、それに対するお釈迦さまの判断が数多く記されています。最初の例をあげるとこんな感じです。
カランダ村のスディンナ・カランダプッタは、資産家の息子。お釈迦さまの教えを聞いて一念発起すると、反対する親を押し切って出家しました。しかし、両親は家が絶えるのを憂え、教団が故郷の村の近くを訪れたのを機に、もとの妻に言い含めて息子のもとに送ります。スディンナは妻の懇願を聞くと、月経の日を計算して、3回セックス。その結果妻は赤ちゃんを得ることが出来ました。しかし、スディンナは自分が戒律を犯したのではないかと思い悩み、お釈迦さまに告白します。お釈迦さまは激怒して言いました。
「アウトだ!これからは、すべての出家修行者は女とセックスしたら教団追放とする」
しかし、若くて血気盛んな僧たちは、これに懲りず、次々と色んなものに突っ込んでは、お釈迦さまに判断をあおいできました。その様は、人類の性に対するイマジネーションの限界への挑戦であるかのようです。
猿を食べ物で釣って獣姦とか、木のうろや、女性の彫像で興奮なんていうのは序の口で、
「僕のって長いでしょ。こないだ寂しかったんで、そいつを自分のお尻に突っ込んでしまったんです。いけなかったでしょうか?」
「……気持ちよかったんならアウト」
他にもひどいのが、
「好きな女性が死んでしまって。それで、彼女の骨を集めてあそこの形にして」
「アウト、アウト、アウトォォォォ!」
こんなに変態さんが次々にあらわれるのなら、仏教の修行って精神衛生によくないんじゃないのという気もしてきますが、お釈迦さまも疲れてしまったようで、
「だからぁ、交わるとは、ペニスを以てヴァギナに入ることであって、たとえゴマ一粒分であっても入っていたら、アウト。相手は人であろうが、動物であろうが、女だろうが、男だろうが、去勢者だろうが、アウト。穴も、大便道でも、小便道でも、口でもアウト。たとえば、去勢した動物の大便道や口に入れてもアウトだ。念のため言うと、相手が眠っていても、酔っていても、狂っていても、死んでいても、死んで鳥獣に食われていても、口、大便道、小便道で交わればアウトだ。分かったな!」
と若干切れ気味な言葉も残しています。
もちろん、男色関係の判例もたくさんあり、
「托鉢で訪れた家に、可愛い男の子が寝てて、しかもあそこがたっていたもので、思わずパックンしてしまいました。僕、何も間違ってないですよね」
「駄目に決まってるだろうが。アウト!」
どストレートなのもあって、
「男の僧とやっちゃったんですけど、まずかったですかね?」
「気持ちよかったか?」
「最高でした」
「二人ともアウトだ」
さらに、
「ひどいやつがいて、僕を口とお尻で犯したんです。本当にひどい。僕は悪くないですよね?」
「それで、具合はどうだった?」
「まんざらでもなかったです」
「アウトォォォォ!」
紹介するほうも疲れてきたので、このくらいにしときますが、この戒律は中国では「四分律」として整理されました。そして、この「四分律」を754年日本に初めて持ち込んだのが、有名な鑑真です。東大寺には「四分律」をもとに戒壇が築かれ、これでわざわざ中国にまで行かなくても、戒律を授かり、東アジア全域で公認される僧侶になれるようになりました。
すこし時代が下って、日本仏教界に最澄という天才が現れると、彼は限られた人間しか授戒できない東大寺の戒壇に不満を抱き、自分の延暦寺に勝手に戒壇を築いてしまいます。最澄は朝廷からの承認が得られないまま、822年死去するのですが、彼の怨霊を恐れた朝廷はその死の7日後に大慌てでという感じで、勅許を出し延暦寺の戒壇を公的に承認しました。
こうして、鑑真が失明しながら日本に持ち込み、最澄によってより多くの人が加護を受けることが出来るようになった、お釈迦さまの教え「律蔵」ですが、これが「和を以て曖昧にする」日本の風土なのでしょうか、しばらくすると、一切合財なかったことになり、特に男色の面で仏の顔も一度で切れる光景があちこちの寺社で展開することになりました。
日本仏教に男色を持ち込んだのは空海?
言い伝えによると、日本に男色を持ち込んだのは最澄のライバル空海だったとされています。彼が留学した頃の中国の寺院は、同性愛が蔓延しており、密教の秘儀や最先端の技術とともに、男色の風も身に着けてしまったというのです。
江戸時代に、薩摩の満尾貞友が空海の霊示を受けて著した『弘法大師一巻之書』では「きやたつがえし」という、稚児の両足を肩に乗せ前からつくアクロバティックな体位は空海が中国から持ち帰ったものと書かれています。また大きな穴を持つお尻のことを「文殊尻」というのですが、これも、空海が文殊という年増の地若衆にもまれた故事にちなんでのことだそうです。
まあ、空海は平仮名から温泉、果ては讃岐うどんまで、何でもかんでも開祖にされてしまう人なので、話半分に聞いた方がよいですが、彼や最澄の後裔たちが男色大好きになってしまったのは間違いないようです。
985年、天台宗の僧侶、源信は「往生要集」を著しましたが、このなかで源信は、「よそさまの子供をつかまえ、みだらなことを無理強いして、泣き叫ばせた者」と「邪悪な男色をした者」は地獄に落ちると書いています。
逆に言えば、もうこの時期から、わざわざ言あげして禁止しなくてはならないほど、少年相手の男色がはびこっていたということになります。
一応、男色家の落ちる地獄も「正法念処経」というお経に規定されていたのですが、「燃え盛る炎の男に抱きしめられて焼き尽くされる」という地獄でした。男色家に「燃え盛る炎の男」をあてがったところで、ただのご褒美にしかならないような気がするのですが、案の定、何の抑止力もなく、寺院のそちこちで男色が燃え盛ることになります。
彼らが男色に走った理由は、寺院が女人禁制の男だけの社会であり、仏教の根幹に女性を卑しむ思想が埋め込まれていたためでした。女性との性交渉は問答無用の悪ですが、少年への愛は「まぁいいか」と許容できるものとみなされていたのです。
寺院に囲われた童子たちの正体とは?
僧たちの性愛の対象となった童子と呼ばれる少年たちでした。
718年に発布された僧尼令には「およそ僧というものは、近親郷里に信心ある童子を選んで供とすることを許す」とあり、僧は古くから侍童を持つことを許されていました。
童子は髪を、女性のように後ろに垂らすか、頭のてっぺんで髷を2つ結わえる稚児髷にして、衣装は鮮やかな色彩の水干でした。あどけない顔にうっすら紅を差すこともあり、むしゃぶりつきたくなるような色気があったと言います。
普段は師僧に仕え、食事の準備をしたり、舞・笛によって無聊を慰めます。夜は添い寝して、男色の相手をつとめました。他にも、法会の際、着飾って、童舞を舞い、音楽を奏すのも彼らの役目でした。
また、身分の差があり、上から、上童子、中童子、大童子の3階級でした。このうち、特に上童子のことを、お馴染みの稚児という呼び名で呼んだのですが、時代が下るうちに曖昧になり、寺社の童子全部を総称する言葉になりました。
3つの階級は出自によって区別されました。1番上の上童子は六位以上の公家の子弟が選ばれ、1番下の大童子は里在家、百姓クラスの出身でした。真ん中の中童子は明確ではないのですが、上童子と大童子の間の階層の家の出であったようです。上童子と中童子には官僧となるキャリアが開かれていたのですが、大童子にはそれは許されず、大人になっても童形のまま寺に仕え続けました。
彼らの魅力は蠱惑的なもので、断とうとしても断つことが出来なかった高僧の記録が残っています。
次回は、その稚児の色香に思い惑い続けた高僧のお話から始めたいと思います。
参考文献:『男色の日本史——なぜ世界有数の同性愛文化が栄えたのか』(ゲイリー・P・リュープ著、松原國師監修、藤田真利子訳、作品社)/『男色の景色―いはねばこそあれ』(丹尾安典著、新潮社)/『江戸男色考〈若衆篇〉』(柴山肇著、批評社)/ 『江戸男色考〈悪所篇〉』(柴山肇著、批評社)/『少年愛の美学』(稲垣足穂著、河出文庫)/『破戒と男色の仏教史』(松尾剛次著、平凡社)/『仏教が好き!』 (河合隼雄・中沢新一著、朝日文庫)
イラスト:富士篤美