初めてベイリーを読んだのは、〈季刊NW‐SF〉14号(78年8月号)に訳載された「災厄の船」(大和田始訳)だった。意外にもこれがベイリーの初邦訳。その媒体が〈NW‐SF〉というのは、今となっては不思議な気もするが、当時はベイリーも立派な〈ニュー・ワールズ〉作家だった。というか、60年代から70年代にかけて、英国SF界のめぼしい作家は、作風に関係なく、マイクル・ムアコック率いる〈ニュー・ワールズ〉に集っていた。J・G・バラード、ブライアン・オールディスから、キース・ロバーツ、ヒラリー・ベイリー、M・ジョン・ハリスン、ジェイムズ・サリス、クリストファー・プリースト、イアン・ワトスン……。〈NW‐SF〉編集人の山田和子は掲載号の編集後記でベイリーをこんな風に紹介している。
本誌初登場(および本邦初紹介)のバーリントン・J・ベイリーは一九三三年生まれ。十五歳の時から様々なペン・ネームで創作をつづけているというイギリスの作家で、六〇年代から「ニュー・ワールズ」誌に定期的に寄稿し、「季刊ニュー・ワールズ」となってからもほぼ毎号、作品を発表しています。イギリス作家らしい重厚な文体で展開される幻想的な観念性は独特のもので、SFの新しい傾向の一端を示しているといえるでしょう。
この紹介文にふさわしく、訳載された「災厄の船」(初出 New Worlds, 1965/06)は、滅びゆく種族エルフの操る船があてどなく海をさまよう重厚なファンタジー(人類文明の勃興以前に存在したエルフ文明がその歴史ごと消えてゆくさまを描く多世界SFとも読める)。しかしもちろん、ベイリーがそういう小説ばかり〈ニュー・ワールズ〉に書いていたわけではない。
ベイリーは、2歳下のムアコック(1939年生まれ)とまだ十代の頃に出会って親友となり、短篇を合作したり、同じ家に同居したりする仲だった。ムアコックが〈ニュー・ワールズ〉の編集長となってからは、P・F・ウッズ名義も含めて同誌や姉妹誌に短篇を書きまくり、主力作家に名を連ねる。ムアコック編の同誌傑作選の最終巻となった Best SF Stories from New Worlds 8 には、ひとりで4篇も作品が載っているほど。いずれも六二年発表の短篇で、「地底戦艦〈インタースティス〉」、「大きな音」、「空間の大海に帆をかける船」、“Double Time”と題名を挙げれば、ベイリーが昔からバカSF作家だったことは一目瞭然だろう。
おっと、話が先走った。「災厄の船」が訳された段階では、日本におけるベイリー評価は、まだ、“無数にいる未紹介英国作家のひとり”でしかない。それが一変するのは、本誌80年1月号に安田均訳の「オリヴァー・ネイラーの内世界」(ハヤカワ文庫SF『シティ5からの脱出』所収)が掲載されたとき。
〈ネイランドの世界は雨の降る世界だった〉という書き出しはいまもまざまざと覚えている。舞台は殺風景な私立探偵事務所。古い白黒テレビに、黒い車を運転するハンフリイ・ボガートとバーバラ・スタンウィックが映っている。そのとき、電話が鳴る。
「仕事をたのみたい、ミスター・ネイランド。きみの世界を調べてくれる人が欲しいんだ。あの黒い車の二人連れを追ってくれ。二人はどこへ逃げるのか? 何から逃げているのか? そして、いったい雨はやむのか?」
すばらしくかっこいい書き出しだが、大学一年生のSFマニアをノックアウトしたのは、すぐあとに出てくるこの一節。
〈ネイラーはぶらぶらとリビング・ルームの窓へと向かい、それから外をのぞいた。何百万という銀河系がC186(光速の186乗)という速度で、無限に向かって宇宙を飛び去っていた。〉
これを読んだ瞬間、ベイリーに惚れた。ネイラーの住まいは“特殊推進住宅”で、最高速度は光速の300乗近い。なぜもっと速度を上げないかというと、「186以上だと目的地を見過ごして、通り越してしまうおそれがある」から。いやだからそういう問題じゃなくて──というツッコミを無視して、話は同一性をめぐる哲学的な議論に突入する。どうやら特殊推進というのは一種の思想エンジンらしい……。このへんのネタは、おそらく山田正紀の『エイダ』などにも影響を与えている気がするが、それもまた別の話。
同じ80年7月、《久保書店SFノベルズ》から、ついにベイリーの長篇が邦訳される(“バリントン・J・ベイリイ”表記)。『時間帝国の崩壊』(The Fall of Chronopolis, 1974)である。この叢書には珍しく、版権切れの旧作ではなく、きちんと翻訳権を取得した新作だった。ベイリー初の邦訳長篇の媒体が、エドモンド・ハミルトンやジョージ・H・スミスを出していた四六判ソフトカバーの娯楽SF叢書だったことは、今となっては不思議な気もするが、長篇に関する限り、70年代のベイリーは、エース・ダブルなどにペーパーバック・オリジナルの娯楽SFを書きまくるスペース・オペラ作家のひとりだった。訳書巻末の解説、宮田洋介(鎌田三平)の「タイム・トラブル」によれば、
本書『時間帝国の崩壊』は、強いて言えば『航時軍団』や『ビッグ・タイム』の系列に入る作品。時間線の独占を目論む二つの時間帝国の争いに、ある秘密の宗教組織をからませて巧妙なプロットが楽しませる。……良い意味でのエンターテインメントSFの特色が残らず出ている。(中略)
長篇はアメリカで先に出版されることが多く、宇宙植民地を描いた Empire of Two Worlds や、魂を求める放浪のロボットを主人公にした The Soul of the Robot などが有名である。本書もエンターテインメントSFの(ママ)専らにするアメリカのDAWブックス・オリジナルである。
帯には「数世紀の時間帯を支配する時間帝国と覇権大国の領土争奪!!」と大書され、壮大な娯楽作として刊行されたが、圧倒的なかっこよさは、冒頭から明らかだ。
鈍い反響音とともに、第三航時艦隊は吹きさらしの原野に姿を現わした。時間都市の巨大な造船所で建造された帝国ご自慢の五十隻の航時船は、あっという間に湿った草原に勢ぞろいした。まるで一つの小さな町が忽然と荒野に出現したかのようだ。船内を照らす灯りが薄暗がりの中に四角い窓の列を浮かび上がらせているため、一層その印象が強まった。そこへぱらぱらと大粒の雨が落ちてくる。怪し気な天気で、空にはみるみる雲がひろがり、嵐を呼ぶ雰囲気である。
訳者は中上守(川村哲郎)。もっとも、実際に訳したのは、弟子の東江一紀氏だったらしい。師匠の中上さんは原稿に赤字も入れず、右から左へ本になった──と、むかし東江さんに聞いた覚えがある。
このあとも、〈ヘイトは垂直時間軸を横切って過去方向へ進むよう指示した。歴史領域を百五十年遡ったところで彼は艦隊に待機を命じた。旗艦はほどなく直交時間に同調した〉など、のっけからベイリー節は全開。すばらしくでたらめな小説だ。
これで一挙に高まったベイリー熱にとどめの一撃を与えたのが、〈奇想天外〉80年12月号の安田均「新・クレージー・プラネット」。“超SF作家バリントン・ベイリイ”と銘打って、『カエアンの聖衣』を大々的に特集。その枕として、十行ほどで短く紹介されていたのが、他ならぬ『時間衝突』だった。安田さんいわく、
数万年未来に、順行時間と逆行時間が正面衝突するさまと、宇宙の深淵を航行する巨大砂時計型宇宙船の謎とを非常にひねった構成で書いてあり(というよりあふれでるアイデアのために構成が犠牲になっており)何が何やらよくわからぬがとうてい通常のSFではないことだけは感じとれたのだ。
これは読むしかないとベイリーのペーパーバックを買えるだけ買い込んで、片っ端から読みはじめたのがこの頃だった。
ベイリー熱は京大SF研全体に蔓延し、82年夏には、機関誌〈中間子〉の復刊3号を鈴木博也編集のベイリー特集とすることが決定。編集チームは翻訳作品選定作業に入る(四回生だった私は、〈中間子〉から足を洗い、かわりに第一回京都SFフェスティバルの準備をはじめていた)。
SF研内で“Gさん”と呼ばれていた鈴木編集長は大森の一年後輩。重度のニュー・ウェーヴSFおたくで(渾名はJ・G・バラードのGと“爺”をかけたもの)、普通のSFにまったく興味がなく、ジョン・スラデックやラングドン・ジョーンズをこよなく愛する変人だった。下宿にこもって黙々とひたすら本を読みつづけるタイプで、編集には驚くべき完全主義者ぶりを発揮。商業誌レベルの企画になったが、その分、時間もかかり、この号が完成したのはスタートから3年後の85年8月だった。
その間、邦訳を予定していた「王様の家来がみんな寄っても」はSFマガジンに訳載され、翻訳が終わっていた「空間の海に帆をかける船」はファンジン〈タンスターフル〉に先を越され、ハヤカワ文庫SFからは『カエアンの聖衣』と『禅〈ゼン・ガン〉銃』が出て絶賛を集め、ともに星雲賞を受賞。編集人は大学を卒業したため、デザインと仕上げは、一年後輩の小浜徹也が担当した。
特集の内容は、ベイリーの短篇3篇(「大きな音」「ブレイン・レース」“The God-Gun”)のほか、Foundation誌掲載のSF論、Arena誌掲載のインタビュー、ブライアン・ステイブルフォードのベイリー論に、未訳長篇全レビュウおよびビブリオグラフィという、きわめて本格的なもの。いま見ても、学生ファンジンとは思えないほどしっかりしている。
翌1986年、東京創元社に入社した小浜徹也は、SF部門の編集者となり、やがてベイリー長篇の邦訳を五冊手がけることになる。その最初の一冊が、1989年12月に出た『時間衝突』(Collision with Chronos, 1973)だった。
記憶に残る訳書を一冊だけ選ぶなら、たぶん、この『時間衝突』だろう。初めて自分から売り込んだ企画ということもあって、(小川隆氏を通じ)ブルース・スターリング氏に序文を依頼し、解説を大野万紀氏に頼み、盤石の体制を整えた。『時間衝突』はさいわい好評をもって迎えられ、星雲賞も受賞、ついでに長門有希にも読まれている。現在11刷。拙訳書では(部数は別にして)もっとも増刷を重ねた本だと思う。これを訳させてもらっただけでも、私にとってベイリーは大恩人なのである。
待望の新訳版、登場!
『カエアンの聖衣〔新訳版〕』バリントン・J・ベイリー/大森望訳(ハヤカワ文庫SF)
服は人なり、という衣装哲学を具現したカエアン製の衣装は、敵対しているザイオード人らをも魅了し、高額で闇取引されていた。衣装を満載したカエアンの宇宙船が難破したという情報をつかんだザイオードの密貿易業者の一団は衣装奪取に向かう。しかし、彼らが回収した衣装には、想像を超える能力を秘めたスーツが含まれていた……後世のクリエイターに多くの影響を遺した英SF界の奇才による傑作の新訳版。星雲賞受賞作。解説/中島かずき