はかま満緒—さんまへ継承されたギャグの作法

テレビ草創期の放送作家として、現在にも通じるお笑いの仕組みに携わったはかま満緒。林家三平、クレージーキャッツや萩本欽一などと深く関わった、このテレビの源流に位置する人物を今回の「一故人」は取り上げます。


テレビが生んだ“定番ギャグ”第1号は?

芸人、コメディアンにはお約束のように披露するギャグで人気を集めるケースが少なくない。「ゲッツ!」「安心してください、穿いてますよ」などは一過性の流行語のようでいて、案外飽きられることなく使われ続けている。最近では一発屋を売りにする芸人さえいる。

この手の定番ギャグは娯楽の主役が映画・舞台だったころからあり、高勢実乗の「アノネ、オッサン、ワシャカーナワンヨ」、伴淳三郎の「アジャパー」、トニー谷の「サイザンス」などいくつもあげられる。

では、テレビが生んだ最初の定番ギャグとは何だろうか。管見によれば、落語家・林家三平(初代。1925~80)の「どーもスイマセン」こそ第1号と呼ぶにもっともふさわしいのではないか。三平は草創期のテレビで人気に火がついた芸人だからだ。アドリブやギャグを連発し、客にも平気で話しかける三平のスタイルは落語家としては異端だったが、テレビという新興メディアにはぴったり合ったのだろう。「どーもスイマセン」もまさにテレビ発のフレーズで、額に拳を当てるポーズとともに三平のトレードマークとなった。

とはいえ、三平は「どーもスイマセン」をギャグのつもりで言い出したわけではないらしい。三平が人気者となったのは、1957年にラジオ東京テレビ(現・TBS)の『今日の演芸』という番組の司会に抜擢されたのがきっかけだった。同番組の終わりがけ、その回の出演者を三平が紹介していき、最後に締めくくりをするのだが、出演者によっては紹介が早く終わってしまい、ラストまで時間をつながなければならなかった。しかし、それが2分も3分も空くとネタも尽きる。いよいよしゃべることがなくなったとき、三平は「どーもスイマセン。どーも、もう大変なんスから。どーもスイマセン」を連発、これがウケたため、ギャグとして定着したのだった。

と、これは放送作家のはかま満緒(2016年2月16日没、78歳)がその著書『また黙って書いちゃった』で明かしたものである。この手の流行語の由来というと、とかく尾鰭がつきがちだ。それでも、はかまは売り出し中の三平にギャグを提供していた一人だけに、この話には信憑性がある。

林家三平はテレビ・ラジオにたくさんのレギュラー番組を抱え、一人だけでギャグを考えていてはとても追いつかなくなる。そこで複数のライターとともにギャグをつくるシステムを採ったのだった。アメリカの映画界には当時すでにギャグライターなる仕事が存在したが、日本のタレントでそれを採用したのは三平が初めてだといわれる(『プライム10 笑いの革命児 林家三平~こぶ平が読む 父のネタ帳~』NHK総合、1993年)。

はかまによれば、東京・根岸にある三平宅へ週に2回赴いては、自分と芸能作家の相良順、そして三平と3人でギャグを徹夜しながら考えていたという。テレビで三平はギャグのあと「もう大変なんスから、夕べ寝ないで考えたんですから」と言って笑わせたが、はかまいわく、それは事実を言っていたのだ(はかま、前掲書)。

若き日の萩本欽一も通った「はかま道場」

1937年、東京に生まれたはかま満緒は、慶應義塾大学在学中(のち中退)にラジオ東京に入社し、放送の世界に一歩を踏み出す。駆け出しのころには、広告代理店の依頼で、商品の宣伝を交えたコント(コントコマーシャル)などを書いていたという。1959年には退社してフリーランスとなった。

売れっ子となったはかまの自宅(新宿にほど近い新大久保にあった)には、コメディアンや放送作家、芸能事務所のマネージャーなど大勢の人たちが出入りしていた。三波伸介・伊東四朗・戸塚睦夫の「てんぷくトリオ」、のちに「ラッキー7」を関武志と組むポール牧など、ここから世に出た芸人も少なくない。そのため、この家は「はかま道場」とも呼ばれた。

そんなはかま宅における人間模様は、後年日本テレビで放送されたドラマ『ゴールデンボーイズ 1960笑売人ブルース』(1993年)でもとりあげられた。劇中では三宅裕司扮するはかまを中心に、ときに泣きながら会話し続けたり、はたまた将棋で負けた者にみんなを大笑いさせる謝り方をさせたりと、思いつくままに遊ぶうち新たな笑いが生まれるさまが描かれていた。ちなみにこのドラマの脚本を手がけた市川 森一 しんいち もはかまの家に一時出入りしていた一人だ(ドラマでは仲村トオルが演じた)。

1963年頃、はかま宅へ20代前半の駆け出しのコメディアンがやって来る。TBSのディレクターだった向井爽也(のち演劇評論家)が「浅草に面白いやつがいるから」と連れてきたその青年こそ、萩本欽一だった(前出のドラマでは、向井を西田敏行、萩本を小堺一機が演じている)。

萩本はそのころ、修業していた浅草のストリップ劇場・フランス座をやめ、仲間たちと浅草新喜劇を旗揚げし、不定期ながら公演を打っていた。はかまとの初対面時、同行の向井から「君、テレビに出ないのかい」と訊かれた萩本は「僕は浅草でいいです」と照れながら答えたという。じつのところ、テレビに出るのが怖かったのだ。

しばらくしてその恐れていたテレビに初めて出演する機会がめぐってくる。向井の担当する番組で生CMに起用されたのだが、緊張のあまりNGを連発して、それっきり降板となった。意気消沈した萩本は劇団も解散して、しばらくテレビのエキストラで食いつなぐことになる。一方で、はかま道場には通い続けた。当時のはかまについて萩本は《先生は優れたコントを生み出してテレビで引っ張りだこ。現場の空気に触れるだけで勉強になった。コントはスマートで都会的だった》とのちに述懐している(『私の履歴書 萩本欽一』)。

はかまに言わせると、自分は萩本のツッコミの“師匠”だという。はかまがほかのコメディアンに「面白くないよ、おまえ」などとツッコミを入れているのを、萩本は黙って見ていた。《だから、彼のツッコミを見ると、ヘンな感じがするのです。僕と同じようなツッコミを入れているから(笑)》というのだ(『文藝春秋』2013年1月号)。

萩本はその後、もう一度原点に立ち返ろうとエキストラをやめて浅草に戻り、やがて坂上二郎とコンビ「コント55号」を結成する。1966年のことだ。そして自分で考えたコント「机」を浅草松竹演芸場で演じ始めた。

「机」にはツッコミ役の学者とボケ役の書生が登場する。学者は書生に世話してやったことを恩に着せ、ことあるごとに「忘れもしない、13年前!」などとねちねち過去を蒸し返す。当初は坂上が学者、萩本が書生を演じていたのだが、観客にちっともウケない。そこで役を入れ替え、萩本が怒鳴りながら坂上の背中を思い切り飛び蹴りするなどオーバーなアクションで演じてみたところ、劇場は爆笑に包まれた。以後、当時の芸能人のステイタスであった日劇にも出演を果たし、テレビでもレギュラーを何本も持つようになる。萩本はツッコミ役としてスターとなったのだ。

放送作家がコントに出演した理由

はかま満緒がかかわった代表的な番組のひとつに日本テレビ『シャボン玉ホリデー』(1961~72年)がある。番組開始当初の5年は、前田武彦や青島幸男とその弟子の河野洋らが構成を手がけていたが、後期ははかまをはじめ大勢の放送作家が参加するようになった。作家からアイデアを出させ、はかまがまとめた回も多いという。こうした複数の作家を集めての番組づくりを導入したのは、同じく日本テレビで放送されたバラエティ番組『九ちゃん!』(1965~68年)が本邦初とされる。

『シャボン玉ホリデー』では、ハナ肇とクレージーキャッツの面々とともに青島幸男がコントを演じたことはよく知られる。はかまもまた書くだけでなく、出演することがかなりあった。なぜ作家がコントにまで駆り出されたのか? その理由をはかまは次のように説明する。

まず、クレージーキャッツにツッコミ役がいなかったこと。それから、番組では時事的なネタを扱うことも多かったにもかかわらず、クレージーキャッツのメンバーが忙しくてニュースや新聞をチェックできなかったため、ネタを振る役が必要とされたためだ。

ネタ振りやツッコミができるタレントが番組で重宝されるのは、いまのテレビも変わらない。1970年代に入ってコンビから個人での活動に移行した萩本欽一が人気を不動のものとしたのも、ほかの出演者へのツッコミやネタ振り(いわゆる無茶振りも含めて)で笑いを取れたからだろう。

個人活動を始めた萩本はまた、番組づくりに企画の段階からかかわるようになる。彼は自ら番組をつくるにあたり、若手の放送作家を集め、一緒に生活を送りながらコントをつくるというシステムを採用した。これが、前出の『九ちゃん!』の制作現場を見たこと、そしてはかま道場の経験を踏まえたものであることは間違いない。萩本のもとに集まったなかには、もともとはかまの弟子だった大岩賞介もいた。

大岩ら萩本座付の作家たちは「パジャマ党」を名乗り、その後、多くのテレビ番組で活躍するようになる。とくに明石家さんまの番組ではいまなお中核を担っている。さんまもまた多忙をきわめながらも、週に1回はスタッフを集めてアイデアを出し合うことを心がけてきた。林家三平がタレントとして最初に採用したブレーンシステムは、はかま満緒経由で萩本欽一が発展させ、そして現在まで脈々と継承されているのである。

最後の番組収録は亡くなる前日

はかま満緒は『シャボン玉ホリデー』に出演して以来、タレントとしても活動を続けている。なかでも特筆すべきは1977年にNHK-FMで始まった『日曜喫茶室』だ。スタジオを喫茶店に見立て、そこへ毎回、異なる分野から著名人がやって来ては、あるテーマのもと話に花を咲かせるというこの番組で、はかまはマスターに扮して司会を務めた。

『日曜喫茶室』の最後の収録は2016年2月15日、じつにはかまの亡くなる前日に行なわれた(放送は同月28日)。この回のテーマは、10年前に亡くなった作曲家の宮川 ひろし をしのぶというものだった。

宮川泰とはかまはともに『シャボン玉ホリデー』の制作に携わり、番組にも出演した仲だ。宮川はその芸達者ぶりからクレージーキャッツの新メンバーに誘われるほどだった。そんな自分とよく似た才人を最後の出演番組でとりあげることになろうとは、何というめぐりあわせだろうか。それは、自らの体験を踏まえた放送史・タレントに関する著書も多いはかまらしい最後の仕事であった。

■参考文献
はかま満緒『また黙って書いちゃった タレント笑話史』(徳間書店、1980年)、『はかま満緒の放送史探検』(朝日文庫、1995年)、「一九五〇年代の放送作家たち テレビが産声をあげた時」(日本放送作家協会編『テレビ作家たちの50年』日本放送出版協会、2009年)、「激動の90年、歴史を動かした90人/萩本欽一 テレビは怖い」(『文藝春秋』2013年1月号)
はかま満緒・萩本欽一・竹島達修「今週のディープ・ピープル/「コント55号」を語ろう」(『週刊現代』2014年5月31日号)
萩本欽一『私の履歴書 萩本欽一』(日本経済新聞社、2015年)

イラスト:たかやまふゆこ

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