京都、一条通堀川にかかる橋「一条戻橋(いちじょうもどりばし)」にある早咲きの桜が……もう満開(゜o゜; 昨年、お届けした同じ場所の桜風景は3月22日に撮影したもの。今年はあったかいんだから^^;;…さらに早咲きなのでしょうか^^;;
▼以下から今年撮影分です。曇り空だったため、少し写真が暗いです<(_ _)>
一条戻橋。
迫り来る…
桜! (^▽^)
桜!!! (*^o^*)
桜!!!!! (*^▽^*) うひゃぁ~満開!!!!! 美しい桜色、可憐です。
▼以下は随分前に撮影した「一条戻橋」の写真です。「一条戻橋」は「伝説の橋」といわれています。橋の名前の由来となっている伝説を紹介します。
上写真、案内板の説明に解説を加えています。
平安前期、文章(もんじょう)博士・三善清行(みよしきよつら)が死去。文章博士、簡単にいえば古代、大学で詩文、歴史を教えた先生です。
三善清行の息子さんで、紀州熊野の僧だった「浄蔵(じょうぞう)」(浄蔵貴所[じょうぞうきしょ]、スーパー法力の持ち主。以前、こちらの記事で少し紹介しました)が熊野から急ぎ京都に帰ると、父・清行の葬送の行列がちょうどこの橋の上を通っていたとか。
柩(ひつぎ)にすがり、泣き悲しむ浄蔵…。そして神仏に深く深く真心を込めて祈願したところ、何ということでしょう!
(゜o゜; (O_O) (゜Д゜)
父・清行は一時よみがえり、父と息子は話し語り合った…つまり「父が戻った!!!!!」という伝説から「戻橋」と名付けられたのだそうです。
このほかにも平安中期の武人・渡辺綱(わたなべのつな)が鬼に出会った、陰陽師・安倍晴明が式神(しきがみ:陰陽師の命令によって不思議なワザをなす精霊)を隠していた…といった伝説もあります。
▼ちなみに「一条戻橋」の程近くに「晴明神社」が鎮座しています。以下写真は「晴明神社」境内にある「旧・一條戻橋」(大正11年から平成7年まで使われていた欄干親柱を境内に移し、橋を再現)。橋の左に「式神」の石像があります。※以下写真も随分前に撮影。
こちらの写真もちょっと暗かった(T-T)
一条戻橋の桜を愛でる行き帰り、晴明神社に参拝してはいかがでしょうか。晴明神社の御朱印と御朱印帳は以下。
さらに、一条戻橋の近くには「薩長同盟」が結ばれた可能性がある…といわれる「小松帯刀寓居参考地」の石碑があります。付近一帯は「応仁の乱」の洛中での最初の合戦地。
『蜻蛉日記』の著者・藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が住んだ一条邸跡。
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●早咲きの桜…の紹介のつもりが随分脱線してしまいました<(_ _)> 今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました(*^o^*)