ダウンタウンが号泣した1989年

1989年は『オレたちひょうきん族』が終わり『ガキの使いやあらへんで!!』が始まった年。「てれびのスキマ」こと戸部田誠さんによる新刊『1989年のテレビっ子』は、“テレビが変わった”1989年を軸に、多くの芸人などの青春時代を膨大な資料から活写した青春群像劇です。 この年、大阪から2人の天才芸人が上京してきました。浜田雅功と松本人志、ご存知ダウンタウン。多くの理解者とファンがいる住み慣れた大阪を離れることは、2人にとって重大な決意でした。ただ、東京には、テレビの新たな時代を切り拓かんとするテレビマンたちがいました――。

「俺の居場所はどこに今度あるんやろか?」

 1989年9月29日。

 ダウンタウンは2人揃って泣いていた。

 その日、『4時ですよ~だ』(毎日放送)が最終回を迎えた。ダウンタウンが大阪で〝天下〟を獲った番組である。

 この番組の終わりは、ダウンタウンの東京進出の始まりを意味していた。

 今田耕司に呼び込まれ、心斎橋筋2丁目劇場のスタジオに入った時には既に2人の目には涙が光っていた。

 会場につめかけたほとんど全ての若い女性客も泣きながら歓声をあげていた。

 大号泣。

 そんな形容が過剰でないほど、あのダウンタウンが人目も憚らず泣きじゃくっていたのだ。

「ありがとーう!」

 会場に、テレビの先の視聴者に向け、2人は声をからしながら恥ずかしげもなく叫んだ。

「うん、そうや、終わろう。これ以上やっててもしょうがない。おんなじことの繰り返しやな」

 松本は自分にそう言い聞かすようにつぶやきながら、その日を迎えようとしていた。

 いよいよ自分たちのホームグラウンドである『4時ですよ~だ』を終わらせ、次のステップへ進む時が来たのだ、と。

 その頃には、ダウンタウンは多忙を極めていた。『4時ですよ~だ』を始めとする大阪でのレギュラー番組に加え、『夢で逢えたら』など東京での仕事も数多く舞い込んでいた。もうダウンタウンの人気と才能を大阪でとどめておくことはできなくなっていた。

「ところが明日が最終回ぐらいになった時に、こう、ものすごい寂しさがあって。うーん……。『うん……終わる? 終わるのか? ほんまに』って(笑)」

 他の大阪のレギュラー番組も既に〝整理を終えていた。だから、『4時ですよ~だ』が終わった翌日になればもう東京に行かなければならない。支えてくれてきたスタッフや後輩たちとも別々の道を進まなくてはならない。

「ちょっと話あんねんけど」

 そんな風にナーバスになっていた松本に追い打ちを掛けるように浜田が声をかけた。

「結婚すんねん」

 浜田雅功の結婚相手は小川菜摘。1987年に放送されたドラマ『ダウンタウン物語』(毎日放送)で共演したのがきっかけだった。

 なんでこんな時にそんなこと言うねん。松本は目まぐるしい状況の変化についていけなくなってパニックになった。自分が取り残された感じがした。

「俺はどこへ行ってしまうんやろう? 俺の居場所はどこに今度あるんやろか?」

 そんな不安で押し潰されそうになっていた。

 そして、『4時ですよ~だ』最終回の本番。

 先に浜田が泣いていた。「浜田の涙に意外と弱くて。浜田に泣かれるとねえ、なんか駄目なんですよね」という松本も涙を耐え切れなかった。

 住み慣れた “天国” のような大阪を離れなければならない。誰も友達のいない心細い東京に果たして居場所があるのだろうか。唯一の仲間である浜田は先を超すように結婚してしまう。泣いてしまっても仕方がない要素があまりにも多かった。

 本番が終わっても涙が止まらなかった。

「もうええわ。もう泣いたら、なんぼでも涙出るがな」

 打ち上げ中も、何時間も、ずっと泣いていたという。そんなことはもちろん最初で最後だった。

 それほど、当時の松本にとって東京は心細く、遠い街だったのだ。

 大阪ではアイドル、東京では無名の新人芸人。

「おんなじ日本じゃないんちゃうかな?」

 松本がそう思ってしまうほどの壁にダウンタウンは本格的に立ち向かっていくことになるのだ。

 それが1989年夏の終わりだった。

「次の時代のバラエティ」の誕生

 1988年10月13日深夜、今では「伝説の番組」と呼ばれる『夢で逢えたら』がスタートした。奇しくも『とんねるずのみなさんのおかげです』のレギュラー放送が開始されたのと同じ日だった。

 ピアノを弾く清水ミチコの周りを他の5人が正装してコーラスをする。そんなオープニングだった。

 ダウンタウン、ウッチャンナンチャン、野沢直子、清水ミチコ。次代を担う若手芸人が一同に会したユニットコント番組だった。

 同世代ということ以外、共通点のなさそうな4組のほぼ唯一の共通点が『冗談画報』(フジテレビ)に出演していたことだった。

『冗談画報』は1985年10月にスタートした深夜番組である。立ち上げたのは「ひょうきんディレクターズ」のひとり佐藤義和だった。

「そろそろ次の時代の『ひょうきん族』を模索しなければならない」という思いだったという。85年といえば『ひょうきん族』が『全員集合』の息の根を止めた年である。この年の9月に『全員集合』は16年の歴史に幕を閉じた。その直後に始まったのが『冗談画報』だったのだ。

 番組は、お笑い芸人からミュージシャン、演劇人など様々なジャンルの若き才能を紹介するライブスタイルのパフォーマンスショーの形式。「笑いと音楽の融合」「テレビとライブの融合」をテーマにし、「新しい笑いの表現方法を探る」目的だった。

 第1回のゲストは小堺一機と関根勤のコンビ、第2回は米米CLUBだった。その後も、爆笑問題、松村邦洋、伊集院光、いとうせいこう、竹中直人、聖飢魔Ⅱ、筋肉少女帯、WAHAHA本舗、大川興業、大人計画など数多くの新たな才能が発掘された。

 また、同時に若い制作スタッフの成長にも繋がった。

 たとえばまだ20代後半だった星野淳一郎と吉田正樹である。

 星野は学生アルバイト時代に『THE MANZAI』で客席を大学のサークルで埋めようと提案した男である。彼は86年3月のダウンタウンが『冗談画報』に初登場した回を担当している。一方、吉田は87年10月のウッチャンナンチャンが2度目に登場した回でディレクターデビューを果たしている。

「『冗談画報』は、何人もの新人ディレクターたちが担当し、ディレクターの登竜門的な存在になっていく。深夜枠だから、それほど過重な責任を追うことなく、ディレクターは、自分らしさを出していくことができる。出演者もジャンルの枠が広いので、さまざまな才能を発掘していくトレーニングができる」

 これが、その後のフジテレビの深夜バラエティの基礎となり、『カノッサの屈辱』、『カルトQ』、『たほいや』など若手ディレクターの実験場としての深夜枠が生み出される土壌を作ったのだ。

 そして、その最大の成果が『夢で逢えたら』だった。

『夢で逢えたら』というタイトルはもちろん60年代に放送されていた名番組『夢であいましょう』(NHK)からとったものだ。永六輔が構成を務め、三木のり平、渥美清、黒柳徹子、坂本九らが出演。音楽と笑いが融合した〝元祖バラエティ〞的な位置付けの番組である。ちなみに坂本九の「上を向いて歩こう」はこの番組からヒットした曲だ。

 佐藤義和にとって、『夢であいましょう』は、「バラエティ番組の原点」だったという。彼自身、初めて一人で最初から立ち上げプロデュースする番組にその原点といえる番組の名を模したタイトルをつけたのだ。

「『夢で逢えたら』という名をつけたのは、この番組に込められた私の思いを物語るものだった」

 その思いをディレクターたちが汲み取って生まれたのが前述の清水ミチコが弾くピアノの周りで他の5人が正装して歌うオープニングだった。いわば、『夢であいましょう』をそのレベルに達していないながらも無理やりパロディにしたのだ。

「この無理やりのおしゃれ感は、シャレのわかる6人の出演者のテンションを異常に高め、ダウンタウンの2人の『関西の匂い』を消すには十分だった。清水ミチコと野沢直子の浮世離れしたノリも手伝い、音楽とは無縁だったダウンタウンとウンナンが、今までとは異なる芸人に生まれ変わっていった」

 佐藤は、この光景を見て、「次の時代のバラエティの原形ができた」と確信した。


つづきは、ぜひ書籍でお楽しみください!

たけし、さんま、タモリ、加トケン、紳助、とんねるず、ウンナン、ダウンタウン……テレビっ子の青春期

関連記事

関連キーワード

コメント

take_weight https://t.co/wdXFkPOc1f 約3時間前 replyretweetfavorite

jueru56 「夢で逢えたら」見てましたよ!懐かしいです… 約8時間前 replyretweetfavorite

Sonoo_Y のテレビっ子/てれびのスキマ(戸部田誠) https://t.co/eNrEUnk6rT 約8時間前 replyretweetfavorite