その人の背中を追いかける夢で、目が覚めた。
その人というのは、高校時代に仲が良かった男の人こと。
高校生の時、私はまだ、男の人への「好き」という感情がどんなものか、分からなかった。
だから、
その人が隣にいてくれて感謝や安心を噛み締めても、
大きな手で私の頭をわしゃわしゃされてじゃれているときの、そのまぁるい気持ちがなんなのか、
名前付けができなかった。
「付き合ってるんじゃないの?!」
と、友人、先生、家族にも言われたけれど、
「そう見えるのかな、付き合うって何することなんだろう?」
と、ぼやーんと思うだけだった。
彼と私は、
- 上京して、街をでる
- 東京の、志望大学に入る
を共通目的にし、まさに切磋琢磨した友人だった。
家庭環境も似ていたからか、ルサンチマンの種類もよく似ていた。
受験勉強の甲斐あって、二人とも無事行きたい大学に合格し、上京した。
お互いに、大学に入ってから恋人ができた。
その時には私はもう、
- 「好き」って何?どんな気持ち?
なんて疑問を持たずに、その時目の前にいた恋人と向き合っていた。
その人も、私も二人とも真面目な性分だったので(いまは不明。笑)、それぞれの恋愛を本気で温めていた。
お互いの恋人に失礼がないようにと、どちらかが破局して泣きたい時だけ、二人で会った。
新宿や四谷近辺で焼肉を食べて、
「恋愛ってなんだよー意味わかんないよ~」
「でも、お前の良さをわかってるぞー!相手の目が節穴なんだ」
「いつか婿・嫁にもらってくれ」
と言い合うのが、かけがえのない時間だった。
けれど、そんなわけで、大学に入ってからはごく数えるほどしか会っていない。
その人は、高校入学時の宣言通りの、超働く診療科のお医者さんになった。
私は、高校卒業時も無目的だったが、超働くコンサルの端くれになった。
今朝、その人の、夢を見た。
夢から覚めてすぐに、
「あの気持ちには、好き、という以外に、どんなふさわしいラベルがあったんだろう」
と思った。
好き、という名前をつけられなかった高校生の私を10数年経ってから悔やんだ。
その人に「ありがとう」だけじゃなくて、
「好き」とただ言えなかった、勇気のない高校生の私が、心の中で右往左往していた。
数年その人から連絡がないってことは、誰かと幸せに暮らしているんだろう。
大きな手で、たくさんの人を救っているだろうその人にとっての救いの小さな手が、傍にありますように。