盲ろうの東大教授 福島智の本を読んだ流れで、ヴィクトール・フランクル著『夜と霧』を読み直した。
《目次》
『夜と霧』の位置づけ
これまで『夜と霧』には「ユダヤ人精神科医が強制収容所を生き延びた体験記」という歴史的な名著としての認識しかなかった。アンネ・フランクの『日記』とならんで、ユダヤ人がイスラエルを建国するために政治利用した本でもある。
しかし、フランクルの公式「絶望=苦悩マイナス意味。つまり、絶望とは意味なき苦悩である」に衝撃を受けたという福島さんを知ってから読み直してみると、『夜と霧』は今を生きる自分たちの人生にも活かせる実用的な本だと認識をあらためた。
【ぼくの命は言葉とともにある】「盲ろう」でも東大教授になった福島智の貴重な一冊 - 引用書店
「想像」や「ささいなこと」に幸せを見出す
人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の根底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。
フランクルはアウシュビッツ強制収容所の支所に入れられた。全てを奪われて体一つになっても、妻のことをまざまざと思い浮かべて対話することで、至福を感じることができたのだという。収容所で思い浮かべていた妻は既に亡くなっていたことを、フランクルは出所後に知る。
本著にはフランクルがささいなことにも幸福を見出したエピソードもちりばめられている。寝る前にシラミ退治ができれば、それだけで喜んだ。
「想像」や「ささいなこと」に幸せを見出すことは、フランクルとは比べものにはならなくとも苦悩に満ちた今を生きるわれわれが活用できることの一つだ。
「生きる意味」を探してはいけない
わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているのかが問題なのだ、ということを学び、絶望している人間に伝えなければならない。哲学用語を使えば、コペルニクス的転回が必要なのであり、もういいかげん、生きることの意味を問うのをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。
自分が生きることに意味を探すのではない。生きることが自分に課題を出してくる。その課題への答えを探して行動することが「生きる意味」ということだ。
自分探しに陥ったり、「生きていて何の意味があるのだろうか」と絶望しそうになったときは、その苦悩自体の意味、自分が「生きている」という現実に期待されていることは何かを考えてみてほしい。苦悩も、死も、生も必ず意味があり、それは絶望とは違うのだというフランクルの公式を前提として。
『夜と霧』関連の本
簡単に読める『「夜と霧」ビクトール・フランクルの言葉』という書籍も出ている。『夜と霧』そのものを読んでほしいところだけれど、重すぎるという方はこちらを手に取ってみてもいいかもしれない。