aikoを聴いていると、自分の中に背の低い女が住んでいることが分かる。
この数年、強く実感していることだ。aikoを聴けば聴くほど、自分が曲中の「あなた」ではなく「あたし」に感情移入していることが実感される。私は一人の背の低い女となってaikoを聴いている。
三十をすぎた男の内側に、背の低い女が住んでいた。私の口の中に、aikoが腕をズボッと突っ込み、無理やりに背の低い女を引っ張りだした。おまえのなかには背の低い女が住んでいる、存在しないとは言わせない。
aikoの歌声はそう言っている。
一方で、ゴリラを見ていると、ゴリラに対する強烈な憧れを感じる。
これも現在の自分が実感していることだ。メディアに流通するイメージとしてのゴリラ。文化系男がひとつの理想像として描くゴリラ。野性、腕力、暴力、あらゆる危険な記号の集約点としてのゴリラ。
私はそれに憧れる。
以前、これをシンプルに「ゴリラワナビー」と名づけた。ゴリラがバナナをむく、ゴリラがうんこを投げる、ゴリラがブランコがわりにタイヤで遊ぶ。その挙動のひとつひとつに魅了される文化系の男。ゴリラへの同一化を求める現代のひよわな男たち……。
という、ここまでの話は準備段階で。
ここからが本日の主題なんですが。
aikoとゴリラ、これは常識的に考えて、矛盾してると思うんですね。aikoでありながらゴリラであることは不可能に思える。aikoという人は見た目からしてゴリラ的な要素は皆無であるし、その歌詞も、とてもゴリラの書きそうな雰囲気は持たない。
たとえばaikoの歌詞に、
長い片思いも
そろそろやめてしまいたいんだ
次に会えるようにと
CD貸すのもやめるね
『そんな話』(2013)
というものがありますが、この歌詞がゴリラに書けますか。
ゴリラというのは好きな異性に会いたいときはただ会いにいく存在ですし、「また会えるようにCDを貸す」というような、複雑な精神の在り方をしていないんです。だからゴリラの書きそうな歌詞といえば、「ウホ、ウホホ、ウッホ、ウホホホッホ、ホッホイ、ウッホ」。
なんとか言葉を操ったとして、「バナナ」。
ゴリラを馬鹿にしているわけではない。むしろ、だからこそ私はゴリラが好きだし、ゴリラに憧れる。「好きだから会いに行く」というゴリラ的シンプルさを貫ければ、どれだけよいことか。
しかし、実際の私を支配するのは、ゴリラ的シンプルさではなくaiko的複雑さであり、それは「好きだから会いに行く」ではなく、
「好きだから会いに行きたいけどあの人の気持ちは分からないしあの人の態度からすると私のことは友達にしか思っていないみたいだけど私は会いたいし会うための理由がないからCDを貸して次に会うための口実を作るけど本当はCDの貸し借りなんか関係なく会える関係になりたいけどあの人は私のことをそういうふうには思ってくれないしできれば私と同じくらいあの人も私のことを思ってほしいけど叶わぬことだと分かってるけど何の口実もなしに会えるようになりたいしそんな日が来ないの分かってるけどそんなの認めたくないから……(以下略)」
という形であらわれる。
この終わりなきaiko的苦悩、際限なき葛藤、それはゴリラには無縁のことで、うじうじと悩むaikoの横で、ゴリラはバナナの皮をむきながら、つぶらな瞳で「ウホ」と言う。
二文字。
私の中に背の低い女が住んでいる。
それは事実だ。
しかし、私はこの背の低い女を放逐し、いまはまだ小猿ほどでしかないゴリラ性を膨張させ、ゆくゆくは純粋にゴリラ的な生命体(純ゴリラ体)となりたい。
純ゴリラ体となった時、そこに一切の迷いはなく、あらゆる決断は瞬時におこなわれることだろう。
今のようにゴチャゴチャと言葉を書き連らねることもない。
言葉とは何か? 腕力の代替物だ。それは永遠に二番煎じの世界だ。ブン殴れ。さすれば言葉は不要となるだろう。ゴリラは下等だから言葉を覚えなかったのではない。覚える必要がないほどに強かったのだ。暴力で言語世界を粉砕する男。それが純ゴリラ体。男性性の極地!
そう欲望する一方で、aikoを聴くと、あまりにもわかりすぎる。歌詞も曲も声も、あまりにも自分を直撃しすぎる。あまりにも自然に、aikoと同一化できてしまう!
ゴリラになろうとすることに比べて、aikoへの同一化は自然だ。aikoは自分にしっくり馴染む。俺はaikoだ。この言葉が世間的には狂気の香りを放とうとも、私の中に住む背の低い女は静かにうなずくことだろう。
私は、aikoとゴリラで引き裂かれている。
aikoとゴリラの綱引きがおこなわれている。
しかも、aikoが圧倒的に優勢、aikoがグイグイと綱を引き、ゴリラは必死で踏んばっているという、現実のaikoとゴリラの綱引きにおいてはありえない状況が起きているのだ。
aiko「すこし背の高いあなたの耳に寄せたおでこ」
ゴリラ「ウホ?ウッホ?」
aiko「交差点で君が立っていても、もう今は見つけられないかもしれない」
ゴリラ「ウッホ、ホッホイ!」
この二つは両立しない。
aikoからゴリラ、ゴリラからaiko、段落から段落へ飛ぶごとに、意味と無意味を私は揺れる。aikoはゴリラになれない。ゴリラはaikoになれない。なのにおまえはaikoでありながらゴリラであろうとする。一つの空間を二つの物体が占めることはできぬ。選ぶしかない。選ぶしかない!
綱引きは続く。
aiko「ずっとそばにいるから、どんなことがあっても」
ゴリラ「ウホホホホ、ホッホ!」
aiko「あなたがあたしのことをどう思っているのか、それはそれは毎日不安です」
ゴリラ「ホッホイ!ホッホ!ウッホイ!ホッホ!ウッホッホ!」
aikoがさらに綱を引く。
腰をいれてグイグイと綱を引く!
aiko「首をすくめ恥じらえば、それが好きのしるし」
(わかる、わかるよaiko!)
ゴリラ「ウッホイ、ホッホイ!」
(ゴメンわかんないです)
aiko「ねぇ泣き真似してごめんね、困った顔が見たくて」
(わかる!それもわかるよ!)
ゴリラ「ホッホッホ!ホッホッホ!」
(リズムはいいが残念それだけ)
aiko「柔らかいキスをして、どこにいても思い出して」
(『秘密』の歌詞がきてしまった!)
ゴリラ「ウッホイホホホ!ウホウホウッホ!!」
(語彙力のなさの限界か)
aiko「わがままな体と泣いてる心」
(『秘密』の歌詞はだめなんだって!)
ゴリラ「ウホウホウホ!ウホッホウッホ!」
(さっきからウとホしか言ってないじゃん)
aiko「そっけないふりでごまかす、あいしてる」
(『秘密』の歌詞のいちばん好きなところ~!)
ゴリラが宙を舞った。
aikoが綱を引ききったのだ。
綱引きは終わった。
まだゴリラは宙を舞っている。茶色い身体が回転している。aikoはゴリラを見ていない。aikoは「あなた」のことを考えている。ゴリラとの綱引きの最中も、ゴリラが宙を舞うこの瞬間も、aikoは「あなた」のことを考えている。「あなた」のことを考えながら綱を引き、「あなた」のことだけを考えながらゴリラに圧勝したのだ。
ゴリラがドサリと地面に落ちた。
もうピクリとも動かなかった。
決着はついた。
最後に、自己紹介させてください。
これを書いたのは、京都在住の三十一歳男性です。
名前は、aikoといいます。
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