人の時間は限られている
私もそうだし、他の人々もそうだ
自分にとって使う事が出来る時間は限られている
必然的にブログを綴る時間も限られていて自分が何について文章を綴るべきなのか考えさせられる時がある
あの記事もこの記事も書きたい、だけど人にはひとつの心と2つの目と手しかないのだ
夜のとばりが下がる中書き続ける文章にどんな意味を持たせるのか、限られた時間であなたが何を出来るのかそれはある種選択の枝葉の道の先にあるのかもしれない
人が何かをする時に必要なのは選択して手に取る事では無く捨てる事だと言った人がいた、経営で成功したいのなら英語を勉強する時間を捨てろ、友人と遊ぶ時間を捨てろ、テレビを見る時間を捨てろ
これはいささか極端な話なのだが文章を書く際にも同じ事が言えるのかもしれない
ひとつの文章はあなた自身を象徴して写してくれる
だがあまりにも自分の思考の赴くまま書いていれば人はその思考を写す湖に足を踏み入れる事に躊躇ってしまうのかもしれない
人は聴く音楽も観るべき文章も本当は選ぶべきなのかもしれない
あれもこれも見ないでこの世界の綺麗な現実だけに目を傾ける
知らないと言う事は一種の麻薬の様にその世界の美しさに陶酔する事が出来る
でもさやっぱりそれは出来ない相談なのかな
誰にも認められる事なくこの世を去ったゴッホの絵画が好きだ
お酒や女、ドラックに溺れる人間の醜さを描いた村上龍の作品が好きだ
人の心の痛みを分かるあの人が好きだ
捨てるべき物を探している時間にそんな古い記憶を拾い上げてしまう自分に気付いていた