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鷺沢文香『将棋界の一番長い日』

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9時30分~【約束の場所へ】

 

 書を捨てよ、町へ出よう……とは言うものの、私は外出するときも書物を持って行く。読む読まないに関わらず、ないと何だか落ち着かない。ライナスの毛布とまではいかないけれど、それに近しいものはあるかもしれない。
 将棋棋士が駒を持ち歩いているという話は聞かない。常に頭の中にあるから必要がないのだろうか。
 朝の十時前、将棋会館に続々と集まってくるA級棋士達の様子を見ながら、そんなことを考えた。
 今日はA級順位戦の最終局。いわゆる『将棋界の一番長い日』である。
 
 ここでまた私が筆を執ることになったのは、我ながら少々意外な思いがする。
 この観戦ブログは将棋に熱中した蘭子さんが個人的に始めたもので、アイドルの仕事とは本来関係がない。しかし、蘭子さんの本業が忙しくなり、なかなかブログを更新する機会が取れなくなったために違うアイドルに更新を頼んだところ、いつの間にか皆が持ち回りで記事を書くようになった。
 私はこれで二度目だ。
 前回は恥ずかしながら私小説のようなものを綴ることになった。今日は土曜日で事務所に出入りするアイドルも多いので、戦型や局面のことなどを尋ねられればと思う。

 さて、始める前にそれぞれの棋士達がおかれる状況を整理しておこう。

△佐藤天(7-1)-▲行方(6-2)
△渡辺(5-3)-▲佐藤康(5-3)
▲屋敷(5-3)-△郷田(2-6)
▲深浦(3-5)-△広瀬(2-6)
△森内(3-5)-▲久保(2-6)

 天彦八段はプレーオフ以上が確定、今日の対局で行方八段が勝てばプレーオフとなる。
 渡辺竜王、康光九段、屋敷九段は既に残留を決めていて、順位の争いだ。
 降級戦線はこれらに比べて少々混み合っている。
 広瀬八段勝ちの場合、広瀬八段は残留し郷田王将は降級。そして森内久保戦の勝った方が残留、負けた方が降級となる。
 広瀬八段が負けの場合、広瀬八段は降級となる。そして郷田王将は負ければ降級となるが勝てば残留し、森内久保戦の勝者が残留、敗者が降級となる。

 名人への挑戦を賭ける者もいれば、敗れれば降級の憂き目に遭う者もいる。また一枚の順位が来季の己の運命を大きく左右するのが順位戦だ。
 そんな悲喜交々がこの一日に集約されるのが、A級順位戦最終局。
 『将棋界の一番長い日』である。

 

10時00分~【対局開始】

 次々と指す者もいれば少考を重ねる者もいる。
 今日の作戦について、もちろん事前に練りに練っているのだろうけど、本当に意思決定するのは盤に向かった時だ。


行方-佐藤天 横歩取り△8四飛

 ちょうど幸子さんが来たのでコメントを貰った。
「フフーン!カワイイボクなら何でも知っていますよ!先手の6八玉型は右側で戦いが起こったときに戦場から離れているという意味があります。つまり、後手の△2三銀~△2四飛のぶつけを警戒しているんです!」
「では後手が△7四歩としたのはどういう意味があるのでしょう?」
「これは先手の6八玉型に対応した手ですね。右側からは遠いですけど、7筋のあたりがきつくなっていますので!」
「なるほど……勉強になります」
「お安いご用です!幸子に任せて下さい!」
 幸子さんの自信に満ちあふれている立ち居振る舞いは私には眩しく映る。そしてそれを裏付けるだけの努力をしているのも間違いない。
 元々の性格によるものも大きいだろうけど。
「それじゃあ、ボクのことカワイイってたくさん書いておいて下さいね!」
 結論。幸子さんはとてもカワイイ。

佐藤康-渡辺 横歩取り△8四飛

「こちらは5八玉型……ですね」
「これの方が実戦例は多いでしょうけど、先手が康光九段ですからね!ありきたりな展開にはならないと思います!」
「6回戦の横歩取りで、飛車を下げずに▲6六歩としたのは……驚きました」
「あれは誰でも驚きますよ」
 ともあれこの将棋はまだあまり進行していない。
 佐藤康九段が新機軸を出すなら、一番進行が遅い将棋になるかもしれない。

屋敷-郷田 矢倉忍者銀

 屋敷九段は忍者銀。他に類を見ないという意味では、こちらも独創的だ。
 左右の銀を次々と繰り出し攻め立てる。
 ロマンに溢れているのは間違いないが、それだけではない。
 ソフトの台頭によって後手の急戦が見直されている昨今、あまりやる人間がいないだけで、先手からの急戦も当然有力なのだと思う。
 気づかないうちに斬られている、ということもあり得るから注意が必要だ。
 事務所内では浜口あやめさんがこの戦法をいつも使って、脇山珠美さんと指している。

深浦-広瀬 矢倉▲3五歩早仕掛け

 後手の急戦策の進化が▲6六歩の一手であった先手の矢倉の駒組みを▲7七銀に散らしている。こちらは矢倉中飛車が気になるという意味があるけど、今のところそれを採用するのは見ない気がする。
 先手の作戦は▲3五歩早仕掛け。▲4六銀3七桂が成立しなくなったため、先手の作戦に非常に幅が出て来た。
 ▲3五歩早仕掛けは温故知新の作戦で、最初に指したのは25年前の郷田王将なのだそうだ。
 25年前というと、私はまだ生まれてもいない。
 同じ人間がそれだけ長い時間将棋を指し続けて、その頃の戦法がまだ有力な手段として存在する。
 これが将棋の深さだろうか。
 卑近なものにしか触れてこなかった私は、あまり遠くに思いを馳せると目眩がしそうになる。 

久保-森内 相振り飛車

 これが一番意外な戦型だろうか?
 とはいえ初手▲5六歩に三間飛車は有力なので、後手の対局者名を見なければむしろ自然な選択かもしれない。
 相振り中飛車は左穴熊という作戦もあるが、今回は……いや、今回も久保九段は玉を右に囲っている。前期の広瀬八段戦ではこの展開から作戦負けを喫している(結果は勝ち)。
 しかし、久保九段の初手▲5六歩からの相振り中飛車は、王将戦で豊島八段と対局していた頃からの命題である。
 これで先手を良く出来れば、先手振り飛車の作戦の幅は大きく広がる。
 久保九段は『将棋界の一番長い日』においても、振り飛車の可能性そのものと戦い続けている。

12時00分~【昼食】

 

 昼食を取るのをうっかり忘れていたら、茜さんにとても怒られた。昔から何かに熱中しているとつい空腹を忘れてしまう。悪い癖だ。
 アイドルは健啖家がいれば食が細い者もいる。
 事務所に入った頃は、アイドルはてっきり食事制限その他厳しいのかと思っていたのだけど、案外そうでもなかった。むしろ智絵里さんのあたりはもっと食べるように言われている。普段のレッスンがアスリートのそれと同じなので、ある程度は口に入れておかないとレッスン中に倒れかねない。
 棋士は対局後は二㎏は痩せるという。
 脳だけでそこまで消費出来るものなのだろうか。ともあれ過酷なのは間違いないだろう。
 茜さんに言われたので棋士達の昼食についても書いてみることにする。
 さて、昼食状況はこうである。

渡辺 肉豆腐定食 みそ汁無し
郷田 味噌煮込みうどん
森内 肉豆腐定食
広瀬 味噌煮込みうどん
天彦 きつねうどん 餅1個追加
行方 なし
久保 なし

 さてと言ったものの、昼食について論評をしてと言われても少し困ってしまう。
 私は(口にしさえすれば)何を食べても美味しいし、等しく幸せを感じる。
 目につくのは渡辺竜王のみそ汁なしと、天彦八段の餅1個追加だろうか。

 肉豆腐定食はあまり耳に馴染みがなかったけれど、写真で見ると美味しそうである。
 渡辺竜王がみそ汁を抜いたのは、肉豆腐も汁物だからなのだろうか。
 私としては和食定食にみそ汁がなかったら少し寂しく思うので、肉豆腐定食のセットとしては森内九段の方を持ちたい。
 天彦八段のきつねうどんに餅追加も気になる。
「一時期夕食にお餅を追加するのが流行ってましたからねー!」
 だそうである。
 餅でゲンがいいみたいな意識があるのだろうか?
「他には、力うどんに餅追加とかですね!!」
「えっ……?」
 棋士の世界は私にはまだまだ未知の世界だ。
 ちなみに私は茜さんと一緒にカレーを食べに行きました。