「出涸らしになった僕」
お呼びがかかるうちは稼がせてもらおうと清々しくテレビに出続ける芥川賞作家・羽田圭介が、オードリー・若林正恭と対談した『SWITCHインタビュー 達人達』のなかで、あちこちで自分のことを喋っているのに、それでもまだ新たに依頼してくる番組に対して、「出涸らしになった僕を、どう料理するのかと思う」と話していた。自分の存在を、何度も煎じた後の「出涸らし」と形容できるのは、彼が繰り返し言う「(テレビに呼ばれるのは)どうせ今だけ」が本心だからこそ。「出涸らし」という表現をテレビに映る様々な人々に投げていくと、前へ前へアピールしてくる皆々の光景が「まだ出涸らしなんかじゃないっ、しっかりと味がしますっ」と訴え続けているようにも見えてしまう。
お笑い芸人をじっくり探究できない
この連載では、敬愛していたお笑い芸人・春一番の追悼記事がなかなかの低アクセスを記録して以降、編集部から、お笑い芸人を取り上げませんかとの要望が少ない。実はこちらも積極的には候補に挙げていないのだが、それは、最近よく見かけるようになったお笑い芸人のトークのおおよそが、先輩だ、後輩だといった人間関係で突かれ、拾われ、導かれ、それらがたちまち型として共有されているようにも思えるからだ。お笑い番組を隈無くチェックしているわけではないが、旬の芸人たちが集う『ロンドンハーツ』や『アメト——ク!』などを観ていると、漏れなく腹を抱えて笑うものの、そこに出てくる人たちについてじっくり探究しようとする気にはならない。
する気にはならない、とは実に傲慢で、自分にはできない、が正しい。そこに出ている芸人は、日頃どのような暮らしをし、どういった人脈を持ち、最近はこんなことがあったと、芸人同士で補完し合っている。少々盛られているはずのエピソードや、隠蔽しておくべき事柄の暴露が折り重なることでこちらはすっかり笑い転げるのだが、介入の余地というか、考察の余白というか、ニュース番組の「街の声」のように「どう思いますか?」とマイクを向けられても、「ええ、とっても面白かったです」と素直に答えるしか対応が見当たらない。ひな壇が「戦場」であることをテレビの前のこちらも熟知しており、編集された放送を、その戦場で見せつけた好プレーダイジェストのように体感していく。
個人で作った笑いよりも設定や集団の面白さ
コピーが無尽蔵にあふれるファッション業界や料理レシピの世界が、むしろコピーを許すことで産業を拡大させてきたと指摘する興味深い1冊、K・ラウスティアラ&C・スプリングマン『パクリ経済 コピーはイノベーションを刺激する』(みすず書房)を読んでいたら、コメディアンのジョークのコピーについて論じた「コメディ自警団」の章に興味深い論説を見つけた。本書で語られるジョークは、日本でいうところの「ネタ」に変換できるだろうが、コメディアンという職業は、ひとつのジョークを独自に創作したことを立証したり、逆にコピーされたと証明したりすることがとにかく難しい。似通ったメロディーや同じ構図の絵画をパクリと認定できるのとは異なり、ジョーク(=ネタ)は、「多くのコメディアンが同時に同じ設定をもとにとてもよく似たネタを思いつくことがある」のだ。
膝を打ったのは次の箇所。あらゆるジョークには設定とオチがあるが、「設定を思いついたコメディアンがジョークの所有者なのだ。そこにオチを与えたコメディアンは、事実上それが無償奉仕だとわきまえている」。アメリカのコメディアン同士がクラブやドサ回りを共にするなかでの事例として挙げているが、番組を作る側とそこに身を投じる芸人という構図でも同じことが言えるのではないか。つまり、番組が用意した設定に向かって、話のオチをその都度投じるよう求められているひな壇の彼らは、いくら面白いことを投げ続けても、そこで興した笑いは自分の所有物というより、番組の所有物になる。番組のなかで煌めく存在が次々と生まれるが、やっぱり個人よりも、設定や集団の面白さとして理解されていく。
出川と狩野の違い
『躍る!さんま御殿!!』や『しゃべくり007』なども、視聴者の多くが、あの番組はどうやらトークの戦場らしいと把握している。『ロンドンハーツ』や『アメト——ク!』やこれらの番組に初めて出る芸人たちは、番組が蓄えてきた設定にどれだけ馴染むことができるかを問われる。視聴者も、馴染めているかどうかを判別する。連戦連勝で生き残ってきた先輩達から、この番組での作法を諭されるシーンもよく見かける。つまり、設定が強い。
さて、ようやく狩野英孝の名前を出した挙句、サラッと終えるが、狩野英孝って、どこで興した笑いであろうとも自分の所有物になると思っている節がある。この手の貪欲さを持ち続けている芸人って貴重だ。彼の場合、ほとんどの登場シーンが誰かに操られている場面であり、オチに向かって引導されることがほとんどだというのに、彼自身は、種を植えてから収穫するまでの全行程を自らやり遂げていると思っている。『アメト——ク!』で時折「出川と狩野」という企画が組まれるが、出川哲朗は周りとコミュニケーションしながら最適解を探そうとするが(結果としてウソくさくなることが稀にある)、狩野は、自分が思ったことをそのまま吐き出すことが最適解であると信じ込んでいる。その様が清々しい。
出涸らしのお茶か、濃厚なお茶か
登場人物の個性があれだけ強かったのに、瞬く間に消費されていった狩野の二股騒動。皆々は、年始から相継いでいる大きな芸能ネタの箸休めに使ったし、見知らぬ登場人物だった加藤紗里は、この機会を(売名行為というより)しっかりと楽しんでいた。ところが、ワイドショーの記者に追われたり、番組に緊急出演したりする狩野は、とにかく深刻な顔をしていた。「どうでもいいよ」という国民の総意を受け取らずに、「この一件で自分はどうにかなってしまうのではないか」という顔をしていた。
狩野のことを「あとはもう出涸らしだろう」と思ってから、もう何年経つだろう。でも狩野自身は、出涸らしではなく、いつまでも濃厚なお茶を出し続けていると考えている。そのズレが笑いを生むのだが、ズレを投じ続ける鍛練によって、彼はこのオチを「保有」している。先の引用を改変するならば、設定を思いついた番組が「笑い」の所有者であるはずなのに、オチを与えた自分が「笑い」の所有者だと思っている狩野英孝って、とっても稀少で魅力的な存在だと思う。
(イラスト:ハセガワシオリ)