新年1月3日、中東の大国イランとサウジアラビアが国交を断絶するとの報道が世界を駆け巡りました。なぜ今、このような事態が起こったのでしょうか。中東研究家の尚子先生が緊急解説。イスラム経済についての後編は、その後ご紹介します。
年明け早々からイランとサウジアラビアの関係が悪化、両国は国交を断絶し、中東地域の緊張が一気に高まりました。これはサウジで拘束され、死刑判決の受けていたシーア派の指導者ニムル師の処刑が1月2日に行なわれたことに端を発しています。
処刑の翌日、イランでは群衆がサウジ大使館や領事館に対して抗議のデモを行ない、デモが襲撃、放火事件へと発展しました。これに対して、サウジは3日に大使を召還して国交を断絶、4日にはバーレーンとスーダンがイランとの国交を断絶しました。
この一連の事件に対して、シーア派対スンニ派という宗派対立がこれから激化するのではないかという報道が多くみられました。けれどもこうした報道の直後から、中東の研究者たちは、これらの一連の事件は「宗派対立」ではなく、「地政学的な覇権争い」であるという見解を発表していました。
「宗派対立」ではなく「地政学的な覇権争い」といわれてもなかなか理解しづらいというのが本当のところでしょう。今回は、イランとサウジが、「なぜ」そして「今」対立しているのかについて、背景となる歴史にふれつつ、中東研究者たちの主張を解説してみたいと思います。
まず、イランとサウジとの対立と聞いて両国の歴史や現状について、「知っています!」と答えられる人はかなりの少数派でしょう。あまりに基本的すぎることかもしれませんが、シーア派対スンニ派という対立軸ばかりがクローズアップされていますし、文字が同じアラビア文字を利用しているので誤解されがちですが、そもそもイランはペルシャ語、サウジはアラビア語で、言葉はお互いに通じません。
イラン――急激な西欧化への反発からイスラム革命へ
イランと聞いて思い浮かべることは何でしょう? 核開発? それともホメイニのイラン革命、1980年代後半から90年代初頭にかけて上野公園に多数たむろしていたイラン人? 回答する人の年代によって、かなりイメージが異なっていることでしょう。
近代イランの歴史を振り返ると、分岐点が2つあると言えます。第一の分岐点は1925年にレザー・ハーンがクーデターを起こして即位し、パフレヴィー朝を開いたことです。彼は中央集権的な政治体制をつくり、西欧化を目指して国家の近代化に乗り出します。1936年には女性のベールを撤廃したほどです。
次の皇帝(ペルシャ語でシャー)も1960年代初頭から、石油の富を背景にアメリカの支援を受けて工業化・近代化を進めていきました。この時代のイランの情景は映画『チキンとプラム~あるバイオリン弾き、最後の夢』で詳細に描かれています。
映画の時代設定が1950年代のイランということで映画を見に行きましたが、映画の内容よりも、映画に出てくる女性たちの姿に驚かされました。現在のイラン社会の黒づくめの女性たちとは全く異なっていて、どこのヨーロッパの町?というような情景がみられますので、一度、ご覧になってみるとよいかと思います(現在でも公式サイトから予告編を見ることができます)。
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