KIRINJI メンバー6人のうち4人(左から、千ヶ崎 学、コトリンゴ、堀込高樹、田村玄一)
撮影/山田秀隆
若い世代を中心に新しい音楽が生まれ、世界からも日本の音楽に注目が集まるなど、音楽シーンが盛り上がった1990年代後半。兄弟で結成した「キリンジ」は、独特の詞の世界、凝った音作りで多くのファンの心をつかんだ。現在「KIRINJI」として活動を続ける堀込高樹さんが、デビューまでの道のり、そして弟の脱退を振り返る。(文 中津海麻子)
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――幼いころの音楽の思い出は?
父が音楽好きでよくレコードを聴いていました。イージー・リスニングやラテン、ジャズ、カントリーが多かったかな。小学6年生のころに家にあったギターを触ってみたらおもしろくなって。中学に入ると、コードが載ってる歌本とかを見ながら練習していました。当時はエアチェックの文化があって、ラジオのFM放送がすごい人気だった。ラジオから流れてきた曲をカセットテープに録って友だちに貸す、なんてことをやってましたね。あのころはオールドロックも最新の音楽も一緒くたに流れていて、いっぺんにいろんな音楽を吸収したように思います。
中でも好きだったのは、サイモン&ガーファンクル。その後、ポール・サイモンのソロもよく聴きました。エレキギターを弾くようになるとジャズ・フュージョン的なものも聴くようになり、スティーリー・ダンなんかも、わからないなりに音を拾って、どうなっているのかな? なんて研究したりしていました。
――弟の泰行さん(元キリンジのメンバー)と音楽の話をしたりも?
泰行は……何してたのかな?(笑)三つ違いで、子どものころのこの年齢差は結構大きいんですよね。彼はサッカーが好きだったりして趣味や嗜好も違ったので、そんなにあれこれ深く話すことはありませんでした。僕が大学生になっていろいろなレコードやCDを買い出すと、その中から彼が気に入ったものを持っていってダビングするようになって。音楽について二人で話すようになったのは、そのあたりからだったんじゃないかな。
――自分で演奏したり、曲を作ったりするようになったのは?
高校時代には軽音のような部に入ってバンドを組んだり、ほかの高校の友だちとバンドをやったり。大学でも音楽サークルに入部したのですが、コピーをやるサークルばかりで。そのころの僕は自分の曲をやりたいと思っていたんです。ロック系もオールドロックかパンクかで、やりたい感じじゃなかった。結局、半年でやめてブラブラしてました。ただ、デモテープは作り続けていました。録音のために人を集めて、終わったら解散する。その繰り返しで、固定メンバーでのバンドは組みませんでしたね。
――大学卒業後、音楽で食べていこうと?
そうなるといいなと思いつつ、ライブハウスに出ていたわけでもなく、今みたいにネットが普及する前の時代なので、曲を作ってもどこで発表していいのかわからない。どうしようかと迷っていたとき、ゲーム制作会社に音楽を作るセクションがあるらしいと友だちから聞いて。選考が履歴書とデモテープだったので、試しに送ってみたのです。それがナムコでした。当時の僕はプログラミングもできないし、実はゲームにもあまり興味がなかったんですが(笑)。僕の音楽性をおもしろいと思ってくれたみたいで、社員として入社が決まりました。
おそらくほかの会社は、まずは効果音だけを作ったり、先輩が作る曲のサブについたり、というのが普通だと思うのですが、ナムコは機械をやっと覚えたばかりの2、3年目の社員に、ゲームで使う曲を1人で全部作らせていた。僕も4年間の会社員生活で何本か作りましたね。
――デビューの経緯は?
社会人になってからも仕事の合間に曲は作っていました。そのころも学生時代と同様、演奏してくれる人を集めてはデモテープを録る、ということを続けていたんです。あるとき、ちょっとお金をかけてうまいと思われる人を呼んで作ったんですが、満足できなかった。これじゃダメだなと、機材を買い込んで全部自分でやることにしました。そして、泰行も曲を作っていることは知っていたので、試しに歌ってもらい、弟の曲も一緒にパッケージにして色々なレコード会社に送ったのです。
それまでは、ある程度は興味を持ってはもらえるんだけど、そこから先の具体的な話までは進まなかった。実は泰行も似たような状況だったらしいのです。そんな二人が一緒にやって送ってみたら、いきなりいい反応が返ってきた。とはいえ、メジャーデビューはそう簡単ではないことは知っていました。そんなとき、会社で隣の部署にいたラッパーの「かせきさいだぁ」に曲を聞かせたら、彼が所属していた事務所を紹介してくれ、今のマネージャーに出会いました。当時はインディーズだけを扱う事務所だったので、CDもマネージャーの判断で出すことができた。「CDって出してもらえるんですか?」と聞いたら「出せるよ、出しちゃう?」みたいな軽いノリで(笑)。インディーズで出し、反響がよかったことを受け、その後メジャーデビューに至ったのです。
――デビューした1997年は、ミリオンセラーのCDが次々と出て音楽業界は盛り上がり、キリンジの新しい音楽性も大きな話題になりました。当時、自分たちの音楽や立ち位置をどうとらえていたのですか?
自分たちの立ち位置を自分たちで考えたり、話し合ったりといったことはなかったですね。今ほどアーティストにセルフプロデュースみたいなことも求められていなかった。当時はMr.ChildrenやL→Rがヒットを飛ばしていましたが、僕らにはああいった明快さはなかったし、世間からはどちらかというと「遅れてきた渋谷系」みたいな感じでとらえられていたのかもしれません。冨田恵一さんがプロデューサーとして一緒にやってくれたけれど、今思うと音楽のことしか頭にない3人が集まってひたすらレコーディングをしていたというような感じでした。
正直、あまり細かいことは覚えていないんです。自分が作った作品も、今見ると歌詞の意味がわからない曲もあったりして(笑)。何が言いたかったのか、自分がなぜこういう詞を書いたのか。ひとつ言えることは、いい曲ができたら出す、そしてまた次の曲を書く。10年以上、自分としてはただただその繰り返しでした。
――2013年、泰行さんが脱退します。
しょうがないかな、という感じでした。単純に、泰行と僕とではペースが違う。いい曲ができたら、僕はどんどん出していきたい。でも彼は「これが本当にいい」と思えるまで作り込みたいタイプ。だから歩調が合わなくなった。やむを得なかったのです。
(後編は2月2日配信予定です)
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KIRINJI
堀込高樹 (vo / gt)、田村玄一(pedal steel /steel pan/ gt /vo)、楠均(dr /per / vo)、千ヶ崎学(bass /syn/ vo)、コトリンゴ(vo / pf / key)、弓木英梨乃 (vo / gt / vl)
1996年、実兄弟である堀込泰行、堀込高樹の二人で「キリンジ」を結成。97年CDデビュー。2013年に堀込泰行が脱退し、アルバム10枚を発表した“兄弟時代”17年間の活動に終止符を打つ。13年、田村玄一、楠 均、千ヶ崎 学、コトリンゴ、弓木英梨乃を迎えて「KIRINJI」に。14年、新メンバーによる初のアルバム「11」をリリース。15年、シングル「真夏のサーガ」と、アルバム「11」のナンバーを新たなアレンジで再レコーディングした「EXTRA 11」をリリース。
KIRINJIオフィシャルサイト:http://natural-llc.com/kirinji/
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