「新自由主義」の妖怪 稲葉振一郎

2016.1.26

05二つのケインズ主義

 

 ケインズといえば『一般理論』と反射的に考えるのはとりあえずやめにして、固有の対象としての「マクロ経済」の発見者として彼のことを考えるならば、『貨幣改革論』あたりから入る方がわかりやすい、というのが前回の趣旨でした。貨幣というものがあることによって、それによる取引が活発に行われ、強く結びついた経済社会の総体が、ただ単に外側の観察者の目にとってだけではなく、そのただ中で貨幣を使って取引し、日々生きている人々にとっての現実として(意識はされないまでも)体験される、それが「景気」とか「物価」とかいった言葉でつかまれているところのマクロ経済現象であるわけです。
 そして『一般理論』よりも『貨幣改革論』からの方がよく見えてくるのは、世界経済はひとつの貨幣によって単一のシステムとして結びついているのではなく、それぞれ別々の貨幣を用いる、複数の相対的に自立した経済圏からなっている、ということです。
 いや、こういう言い方は誤解を招きますね。現代においては「世界経済はそれぞれ別々の貨幣を用いる、複数の相対的に自立した経済圏からなっている」という記述はしっくりきますが、ケインズが『貨幣改革論』を書いた時代はそうではなかった。ではどういう時代だったかといえば「世界経済は本来、ひとつの貨幣によって単一のシステムとして結びついているべきなのに、世界大戦以来そのあるべき姿から離れてなかなか原状復帰しない」という感じだったわけです。ここでの「ひとつの貨幣」とは単純にいうと金です。
 歴史的には貨幣、お金というものは時と場合によっていろいろな来歴を持ち、いろいろな形を持ちます。金や銀といった、加工しやすく変質しにくい貴金属は広く貨幣として用いられますが、希少であるため日常的な取引には向かず、変質しやすいが豊富な銅などがより日常的な取引のための貨幣として用いられてきたわけです。
そして紙幣という仕組みが普及します。扱いにくい代物である金や銀などの貴金属貨幣を人々から預かり、その預かった資金を元手に金貸しを行う業者、つまりは銀行が人にお金を貸すときに、いちいち金銀を貸し出すのではなく、それと等価であることを銀行が保証する証券を発行する、というのが銀行券、紙幣の普通のパターンです。
 発展途上の銀行と紙幣は、むろんそれぞれの銀行の業者としての信用によってその価値を担保していましたが、しかし最終的には代用貨幣であるところの紙幣の背後には、本物の貨幣としての金や銀が長らく控えていました。銀行が発展していく中で、銀行同士の取引も発展し、その中から「銀行の銀行」、銀行に対して資金を融通してその経営を、ひいては一つ一つの銀行ではなく、たくさんの銀行からなる金融システム全体を支える中央銀行というものが発展し、私企業というよりは国家の官僚機構となっていきます。そしてこの中央銀行が確立した国では、もともとそれぞれの銀行が独自に発行していた紙幣がひとつに――中央銀行が発行するものに統一されていきます。
 それでもなお、この中央銀行券の最終的な価値は、中央銀行の、ひいては国家の信用に依存している……のではなく、最終的にはやっぱりそれが貴金属の代用品であること――それを持っていけば決められたレートで金や銀に替えてもらえること――にこそあったわけです。どうしてでしょうか? 理由のひとつは、そうしておけば、別々の国が(中央銀行制度が確立していない国に行けば、さらに別々の銀行の)発行した貨幣同士が、貴金属を媒介として簡単に交換できるから、でしょう。つまり金本位制(貴金属本位制)という仕組みは、一国レベルでの貨幣制度としてだけではなく、国際通貨制度、国際金融体制としても見なければならない、というわけです。

 少し話が長くなりましたが、要するにここまでの作業の目標は、かつての――具体的には筆者自身が1980年代に大学学部レベルでの教育や読書から身に着けたケインズ主義イメージと、今日の状況と歴史研究の水準を踏まえた新しいケインズとそこからのケインズ主義イメージとを、対比してみることにあります。
 古いケインズ主義のイメージでは、ケインズ的世界観の中核にはまずは失業、有効需要不足が来ますが、問題はこの失業、有効需要不足の原因です。80年代には理論経済学においてもある程度「不均衡分析」というものが流行りました(名高い岩井克人『不均衡動学の理論』もこの潮流に乗って現れたものですが、「不均衡分析」全体の中ではどちらかというと傍流、いや異端に属する発想です。私自身は大変に啓発的で有意義だとは思いますが、それについては別の機会に触れます)。
要するに現実の市場経済は教科書で描かれる理想的な完全競争、完全情報の世界ではない。理想的なモデルでは、人々が取引相手を見つけて、交渉し、適切な価格で取引を実行するにあたっての費用――労力だの時間だの一切合財含めて――は無視されるが、現実にはそこに相応の費用(ベタですが「取引費用」と呼びます)がかかる。問題はその費用を無視しても構わないと考えるか、それともそうは考えないか、です。  取引されるモノ・サービスの生産にかかる費用に比べれば取引費用が無視してもよいほど小さい場合とか、あるいは延々時間をかけた果てに安定した取引パターンに落ち着き、その後はそれが慣習的に繰り返されると思われる場合などについては、取引費用を無視しても分析が歪むことはないでしょう。しかしそうではない場合、取引費用がひどくかさむ場合にはどうでしょうか? たとえば、そのつどそのつど市場を広く探索して、一番有利な取引相手を探す、などという手間を省いて、身近な顔見知りと長いおつきあいをした方が、多少取引価格が高くなっても割に合う、ということが起きるでしょう。このようないわゆる「セカンド・ベスト」の均衡と、取引費用がゼロの場合の、理想的な「ファースト・ベスト」の均衡とを比べてみますと、ファースト・ベストでの取引価格よりセカンド・ベストでの取引価格が上回っています。となるとどうなるかというと、ファースト・ベストの場合は売り手が増え、供給が多くなるのに比べて、セカンド・ベストでは買い手は減り、供給も少なくなります。つまり供給過剰、需要不足で、売れ残りが発生してしまうのです。もしも取引費用がゼロならば、これらの売れ残りはスムーズに在庫処分される――売り手が価格を下げて放出し、それに買い手がつく、という形でファースト・ベストに近い方向で均衡していくわけですが、取引相手を探したり、いちいち新しい価格付けを行ってそれを市場に向けてアナウンスするのに費用があまりにかかってしまうようであれば、売れ残りを抱えたまま、売り手はそれ以上の取引努力をやめてしまいます。
 通信・交通が発達すれば当然取引費用は下がり、普通の商品の取引については「取引費用ゼロ」のモデルを用いて分析しても大過ありませんが、資本やとりわけ労働の取引についてはそうはなりません。価格、つまり賃金はあまりスムーズに変動せず、労働の売れ残りである失業が普通に発生してしまうような状況が「セカンド・ベスト」の均衡として成り立ってしまう。資本主義経済の現実――とりわけ不況下のそれを理解するには、こちらの想定の方がよいのではないか。1970年代から80年代頃に流行した「不均衡分析」――それは「マクロ経済学(ないしケインズ経済学)のミクロ的基礎」という合言葉とともにありました――の発想は、そういうものでした。特に労働市場が重視され、「不完全雇用均衡」といった言葉が用いられました。労働市場の場合には賃金があまりスムーズに動かず、需要と供給の間をうまく調整してくれない。それ以外にも労働にはいろいろと固有の事情があって、特に賃金は生存を支えるものだから、上がりやすく下がりにくい(「賃金の下方硬直性」といいます)。それゆえに賃金は特に不況期には「ファースト・ベスト」よりも高めとなり、労働の超過供給、需要不足――つまりは失業がなかなか解消されない、とこのようなストーリーで失業が理解されます。
 このイメージに立脚していわゆる「ケインズ的」なマクロ経済政策を行うとは、どういうことでしょうか? たとえばケインズ自身は『一般理論』などでこのような議論も展開しており、その文脈で金融緩和によるインフレ誘導を「下がりにくい賃金を実質的に切り下げるために物価を上げる」方便として解説していました。こう考えるならばそれは「市場のはたらきをスムーズにして、ファースト・ベストへと近づける政策」と理解できなくもありません。ただそれだけでは「なぜ労働組合を制圧し、賃下げを進めるのではだめなのか?」という問いに答えるのが難しい――話は急に「政治的」になってしまいます。また財政政策の方は、市場の不均衡は実は解消しないまま、無理やり雇用を創出して負担を財政に回す、というさらに「政治的」な話になってしまう。
 またもう一つ、このような形でケインズ政策を理解すると、それは基本的に一国ベースの話になり、同じ貨幣を用い、ひとつの政府によって監督される経済の枠内で議論が展開されることになってしまいます。つまり、貨幣経済の国際的な連関の問題が見えにくくなってしまう。

 それに対して『貨幣改革論』での議論をより前面に出して、国際経済までを含めた未完の体系としてケインズのやろうとしたことをイメージするならば、もっと異なる世界が見えてきます。すなわち、

・一国レベルでの景気、ひいては成長は、実は国内の生産力を十分に実現するに足る取引に必要なだけの貨幣がうまく供給されるかどうかにかかっている。貨幣流通が十分であれば、自由な市場のもとでファースト・ベスト、つまり国内の資本や労働の完全雇用が実現されるが、それが不足気味であればそうはいかない。

というイメージになります。そしてマクロ経済現象を引き起こすのは、市場の不完全性、特に価格の硬直性というよりも、貨幣供給の過不足、ということになります。
 さらに国際経済のコンテキストを考慮に入れると、以下のような話になります。すなわち、

・発達した市場経済を備えた国家においては、おおむね中央銀行が存在し、その発行する中央銀行券が貨幣として用いられているが、しかしその貨幣は実は国際通貨である金の代理に過ぎない。すなわち、金本位制が19世紀に確立した自由貿易体制の根幹をなしている。

 各国の通貨が用いられるその根拠は、中央銀行の、国家の信用もないではないが、それ以上に貴金属としての金の希少性にこそある。だから中央銀行は、金本位制のもとにある限り、その発行する通貨の信用性を高められる半面、自分の意のままに通貨を発行することはできない。各国の中央銀行が発行できる通貨の総量は、実は各国の金の保有量によって制限をかけられている。
 もちろん金は国境を越えて取引でき、移動できるが、金の世界的な総量は政策によってはコントロールできない。国内の金の量を増やすための正道は貿易黒字を稼ぐこと、であり、この観点からは国際貿易は「限られた金の奪い合い」というゼロサムゲームとしての側面も持ってしまう。

 つまり、一国――一貨幣経済レベルでのマクロ経済問題が、国際的な連関のもとにおかれていることがわかってきます。

 以上を乱暴にまとめるならば、二つのケインズ像、ケインズ主義像とでもいうべきものが、我々のもとにはあるわけです。すなわち、

・価格の硬直性、情報の伝達・処理における不完全性ゆえに市場が均衡せず、あるいは不完全雇用均衡となり、完全雇用の達成のためには政策的な介入が必要となる。ただしそれが財政政策に偏った場合、それは財政赤字でもって無理やり雇用を作り出す、いわば将来の雇用機会を取り崩して現在に持ってくるという問題の先送りになりかねない。一時的な財政出動が「呼び水」となって景気が自律的に回復する、ということがない限り、それは財政赤字の恒久化につながりかねない。
 実質賃金の高止まりが失業の原因であるとすれば、金融緩和政策による貨幣供給の追加でインフレーションを引き起こす、という方が、政策が市場に与える歪みは少なくなる。

・経済における貨幣の流通量が市場のはたらきを左右する。貨幣供給が不十分な場合には、一時的にではあれ不完全雇用が起き、それが長期にわたり続く場合にはそれに合わせて雇用自体が減り、実体経済の供給能力自体が縮小する形で均衡していく。逆に貨幣供給が過剰な場合には短期的にはインフレーションが起きる。運がよければインフレーションが投資、成長を促進することもある。

 極端にいえば「価格の硬直性」を重視する立場としてケインズ主義を理解するアプローチと、貨幣供給を重視する立場としてケインズ主義を理解するアプローチの二通り。これはもう10年ほど前の拙著『経済学という教養』で「実物的ケインジアン」と「貨幣的ケインジアン」と仮に呼び分けたものですが、別に互いに矛盾するわけではありません。ケインズ自身には両方のモメントが入っていたと思われますし、「貨幣的ケインジアンの枠組みにおいても、長期的に持続する失業を説明するためには、価格の硬直性をモデルに入れなければならない」という研究もあります(先ほど触れた岩井『不均衡動学』や、小野善康『貨幣経済の動学理論』以降のモデルがその例です)。
 しかしこのようなまとめには、ことに80年代に「ケインジアン対マネタリスト」という論争構図をジャーナリズムなどで見かけた方は、違和感を持たられるのではないかと思います。「あれっ? 貨幣供給にこだわるのって「マネタリスト」じゃなかったっけ?」と。
 上に見たような現代的観点からすればそれは「誤解」なのですが、それは今だからいることです。次回では、そのような「誤解」のよって来る所以について考えてみたいと思います。

 

 

(第5回・了)

 

この連載は月1更新でお届けします。
次回2016年2月23日(火)掲載