ぼくらは出汁の国に生まれたのだから~しらたきの再評価
年末にすき焼き飲み会の仕込みをしながら考えた。どうして日本人は肉にやわらかさばかりを求めるのだろう。薄切り肉を使ったすき焼きでも、分厚いステーキでも、「やわらかい」がおいしさの要件になっている。
まったく釈然としない。肉にやわらかさを求められるがゆえに、僕の大好きなしらたきはいつも悪者扱いされてしまう。「肉の隣に置くとかたくなる」などと悪口を言われ、肉から遠ざけられ、ときには同じ鍋に同衾させるのを嫌がる人までいる。
信じられない。すき焼きにはしらたきが欠かせないのに。肉汁と甘じょっぱい割り下をたっぷり吸い込んだしらたき。あれこそが、すき焼きの影の主役である。影の主役に対してなんと失礼な物言いをするのだろうか。
翌日ともなれば、「影の」ではなく、もう堂々たる主役である。肉は切れはしが一切れあれば、十分恵まれた気持ちになる。だが、育て上げたアメ色のしらたきが少ない二日目のすき焼きはさみしい。火にかけて温めたしらたきを溶き卵にくぐらせ、ざばっとごはんにぶっかけてずるずるかっこむ。肉汁から野菜のうまみ、そして割り下まで、すべてのうまみを目いっぱい吸い込んだ二日目のしらたきは、ある意味フカヒレ以上に珍重されるべきごちそうである。
だいたい「しらたきを隣にすると肉がかたくなる」のは本当なのか。これまで数百回はすき焼き鍋のまわりを囲んできた。ときには肉としらたきを隣同士にして焼き、ときには離して煮込んだりもした。だが、配置によって肉のかたさが変化した記憶は一度もない。理屈ではこんにゃくをかためるのに使う、水酸化カルシウムが肉をかたくするとはいう。
だが実際にかたくなるのは、リーズナブルなお肉に火が入りすぎたときくらいのものだ。しらたきの位置などより、焼き加減のほうがはるかに重要なのだ。
そもそも、サシの入ったうす切りの牛肉が、少しくらいかたくなったところで何だというのだ。確かに肉はすき焼きの花形だが、一方で「出汁」の役割もこなしてもらわなければならない。二日目を締めくくるしらたきのために、 “鍋の骨格” を作ってもらわなければならない。すき焼きは肉を食べる料理でありながら、肉の出汁をほかの食材に行き渡らせる料理でもある。
以前、「すき焼きに使う材料・調味料」に関する調査をひも解いたことがある。たしかその論文でも、糸こんにゃく(しらたき)は牛肉に次いで、ほとんどの家で使われていた。砂糖よりも牛脂よりもしらたきを使う家庭が多かった。しらたきは邪魔者扱いされながらも、愛される複雑な立場にいるのだ。だからもう「肉の隣にしらたきは……」などと言うのはやめにしないか。結局、僕らは「出汁」の国の住人なのだから。
キッチンドランカーの料理考
ほろ酔い加減で、ちびり。肴をつまんで、またちびり。
男ひとり、キッチンドランカーの台所は、たちまち立ち飲み屋に変わり、カウンターには酒と肴とよもや話が並ぶ。駄弁、うんちく、与太話……。しかし、そこにそっと耳を傾けると、核心をついた実におもしろい話が眠っているのもまた事実。酒が進めば進むほど、男の宇宙は広がり、思考が跳躍する。食にまつわる小粋な話。それが「キッチンドランカーの料理考」。
松浦達也┃Tatsuya Matsuura
東京都生まれ。編集者/ライター。フードアクティビスト。『dancyu』などの食専門誌からテレビの情報番組、ニュースサイトなどで幅広く活動。扱う分野も地方論、漫画評など多岐にわたる。近著に『大人の肉ドリル』(マガジンハウス)。