普段はくらむと言いますが、便宜上私と言います。
普段と違う感じですが今回のみです。
私は、二人目の子供です。私が生まれた時にはすでに、私以外の子供が家庭には存在していました。
物心と言うものが、一体いつの頃からを指すのかはよく分かりませんが、私の最も古い記憶にも、たしかにその存在はありました。
両親から、いわれのない、或いは理屈の通らない、必要以上の、肉体的精神的な暴力を受ける事を『虐待』と言いますが、私は幸いにも、両親からそのような暴力を受ける事はありませんでした。
私は時に、一人っ子だと申告して生きてきました。
その場合、当り前ですが私は第一子という事になります。あとも先もない、一人になるのです。
実際、日常を生活するうえで、そのような一人の状態である事の方が多かったので、周囲から見ると私は一人っ子だったと思います。
私の上は、つまり、本当の第一子は、障害者です。
当時の年齢で言えば、障害児でした。
障害児であったその人は、『重度』でした。
読み書きや、会話によるコミュニケーションは困難です。
オウム返しであれば可能ですし、言葉も覚えて自発しますが、その意味をどこまで理解しているのかと言えば、厳しいものでした。
自立歩行が可能ですが、身の回りの事を自分で管理する事は出来ません。
その人は、ごく一般的な共働きの家庭であったうちでは、とても、一緒に生活する事は困難でした。
24時間の見守りが必要だからです。
そのため、普段は『施設』で暮らしていました。
両親の仕事の都合がつく、長期の休みには、施設へ、その人を迎えに行きます。
施設の場所は、街はずれ、ではありません。
市をふたつまたいだ、人里離れた山奥です。
車で半日かかるそこまでの送り迎えは、一日がかりになります。
施設の周りには、何もありません。ただ、山々に囲まれる大自然の中に、平地を無理やり確保し、建てられたかのような施設でした。
その施設の中には、たくさんの障害者が暮らしています。
私は何度もその中にまで、その人を迎えに入りました。
子供の私にとって、意思の全く通じない、それでいて一人一人、その施設内では自由に行き来する人達は、少し怖かったです。
頭に手足に保護具をつけた人、ひたすら体の一部を動かし続ける人、意味の分からない声を上げ続ける人。
貼り付けられたような笑顔の人、無表情の人、泣き続ける人。
中には、私に、何らかの会話を持ちかけようとする人もいました。
ですがそれも、会話の真似事であり、私が答えた事をまた、繰り返すばかりです。
施設からその人を連れて帰ります。
その人は、私の名前を覚えています。私の顔も覚えています。私の名を呼び、手を繋ぎます。
自傷によって、あるいは、他傷によって傷だらけのその手は、がさがさで、いつも、血が滲んでいました。
家に帰ると、私は一人っ子から、第二子へと、立ち位置を変えます。
その人は第一子として、第二子の私を、自分よりも幼い、守るべき存在、として接しようとします。
私は、その通りに、幼い子供でいます。
おいで、と呼ばれれば側へ寄り、食べて、と言われれば言われた通りに食べます。
その人の前では、笑顔を絶やさないように、可愛がられる自分でいます。
けれど、実際には、お世話を必要とするのは、その人の方です。
ですから、私は、家事や仕事で一時席を離れる両親の代りに、その人の事を見守ります。
これをやろう、と、自分はもうとっくに卒業した塗り絵を、喜々として差し出します。面白いよ、一緒にやろう、と言い、その人に色鉛筆を渡します。
一緒にやらなければその人は飽きてしまうので、私は時折一緒に塗りながらも、しかし色鉛筆を削ったり、新しい頁を促したりします。
脱水にならないように、飲み物を用意します。しかし、用意した、という態度ではなく、あくまで自分も飲むから一緒に飲もうよ、と言って微笑みます。
トイレに行くのも、時間を常に計算していて、そろそろ行こうか、と誘導します。
落ち着いている時には、そのように、私が側にいて、一緒になにかをして、過ごします。
しかし、私はいつでも、可愛い第二子として振る舞いながらも、内心では怯えていました。
発作の一種と言っていいと思いますが、薬の調整などもあり、決して、その人の状態は、平坦ではありませんでした。
私は幼い頃から、何度も、その人に、叩かれました。
冷静さを失ったその人は、自分よりも肉体的には大人に近く、また、力を加減する事も、もちろん出来ません。
私は、その人に、髪を掴んで引き摺られ、体のいたるところを叩かれ、蹴られました。
私は泣き叫びましたが、その人も同じように泣き叫び、見つけた両親が割って入るまで、私たちは、わけのわからない暴力の中で時間を過ごしました。
まだ幼かった私は、その人の豹変ぶりに、圧倒的な力に、恐怖し、その人を止めるために手を上げる両親の姿にも、恐怖して震えが止まりませんでした。
そのような発作が収まらず、帰省の予定を繰り上げて、施設へと送り返すことも、何度かありました。
この、暴力と、痛みには、名前がありません。
虐待というには意思が欠如しており、しかし障害という合言葉で片づけられるにはあまりに、生々しかったと思います。
その人の、そのような発作の有を理解した私は、少しずつ年を重ねるごとに、うまくその人と付き合う術を身につけてゆきました。
それは誰に教えられたでもありません。私は、教科書を与えられていませんでした。私が第三子であれば、もっと違ったのかもしれません。
この小さな家庭という世界の中では、私と同じ立場の人はいませんでした。
両親は力によって、ある程度はその人を抑えることができますし、その人を生まれた時から育てたのは他でもない両親です。
一方私は、第二子。私が生まれた時からその人は存在していました。両親とその人の3人の世界に、私が最後に加わったのです。
私は、常にその人の状態を、一番近くで見ていました。
恐怖心がなによりの原動力になり、私はその人との、過ごし方を文字通り体で学び、そして徐々には、その発作の予兆も見分けられるようになりました。
あぶない、と思ったら、距離を置き、しかし、側を離れるわけにはゆきませんから、なんとか落ち着くように取り計らいました。
その人が腕を持ち上げる度に、その手が自分を殴るような気がして、身を強張らせました。
その人は私の、上の子、として私を可愛がろうとしますが、しかし私と同じようになりたいという願望も、その人にはありました。
私が持っているものは全てその人も欲しがり、私が出来る事はその人も出来るはずだと思っているところがありました。
欲しいと言われれば、それがどんなに自分の宝物でもなにも言わずに渡しました。
その人の前では、その人が出来ない事は私もやらないようにしました。
自転車に乗ることも、料理を作ることも、テレビのチャンネルを変えることも、私はその人の前では、出来る事を見せません。
そうする事で、私はその人より優れている、あるいは私の方がその人を守っているというような優位、とは思わせないようにしていました。
私は、専門家ではありません。研究者でもありません。
ただ、私が生まれたその時から、私の上には、その人がおり、その人と共に育ってきました。
名前も悪意もない、暴力、痛みにさらされました。
そのことで、誰もが涙を流しました。
殴られる私も、殴るその人も、止める両親も、誰もが苦しかったし、回復する事はない障害には、この先にも同じ未来しかないと分かっていました。
また、その人は、脳の発作が起こることもありました。発作が起こると、全身を硬直させて意識を失いました。
私は、その姿が、なにより、怖かったです。
私を掴もうと伸びてきた手は、避けることが可能ですが、その発作には、私も両親も、どうしようもありません。
体を抑えて、痙攣が治まるのを待ちました。
薬の処方によっては、とてもぼんやりとしている事もありました。
私のことを、微笑んでみるばかりで、手も上げず、一緒に遊ぶことすら出来ない事もありました。
反対に、ひどく繊細になっている事もありました。
いつまでも言葉を発する事をやめられず、何日も眠ることをせず、活動し続けるのです。
障害は、決して、その人の中でも、一定ではありません。
私は、年を取ります。
しかし、いつまでも、その人の年を、追い抜かす事は出来ません。
精神的に追い越しても、背丈で追い越しても、でも、決して、年齢を超えて、私が第一子になる事はありません。
私は今でも、その人の前では、その人が守ろうとする第二子として、存在します。
幸いにも、成長した私は、発作への対応も出来るようになりましたし、子供のころよりもずっと自然に、その人と接し、その人を誘導する事が出来るようになりました。
薬の処方によってはその人の状態はまだ、不安定になりますが、しかし、もう叩かれる様なことはありません。
それは、私がうまく避けられるようになったため、だけではありません。
年月が、そうしたのだと、思っています。
環境や関係に、障害に、両親も、その人も私も、すっかり慣れました。
私たち、全員が、その人の障害、を、受け入れたのだと思います。
私は、このように、障害者と共に、育ちました。
名前のない、痛みの中で、随分、苦しい思いをしました。
しかし、私は、苦しみだけを感じていたわけではありません。
私は、私が生まれたその時から存在していたその人を、きっと最初から、心から、愛していました。
守らなければならない、と私はいったいいつから思っていたのか、分かりません。
その人がいない時には私は一人っ子で、その人が帰省すれば私は下の子になり、
その人と接するうえでは、私は幼き者として振る舞い、しかし一番近くで見守る役割でもありました。
その複雑さは、関係の中で、もともと不器用な私を大変混乱させました。
突如降りかかる暴力にも、恐怖したし、倒れる姿を見ては、死を意識して悲愴しました。
両親がその人のお世話に掛かりきりになると、私は子供なりに寂しく思ったし、
その人の精神を能力を、追い越した時には、言い様の無い戸惑いを感じました。
辛かった事は、山ほどあります。
ですが、そのどれもを、凌駕して、私は、その人を、愛して、生きてきたのです。
それは、偽善でも、正義でも、ありません。
もっともっと、単純で、でも、なんの言葉も当てはまらないような、純粋な感覚です。
そして、私のその人に対する愛情以上に、その人が、私のことを愛してくれていると、感じています。
私の名を呼び、私の手をとり、私に微笑みかけるそのすべては、他の誰でもない第二子の私に、たしかに私だけに、向けられているのです。
それを、愛情以上のなにと、言えるでしょうか。
傍からは、障害者のいる家庭は、機能不全に見えるかもしれません。
その暴力は非情で、痛みは憐れで、暮らしは奉仕のように思えるかもしれません。
けれど、それは、違います。
私たちは、誰よりも、純粋な愛情を知っていて、そして、その命の儚さも知っています。
私の苦しみと混乱に満ちた幼少時代は、決して、可哀想なものではありません。
私を、可哀想だと言えるのは、私のわがままな気持ちだけです。
他人に、一見した人に、同情されたいとは思いません。
むしろ、私の知っているこの純粋な愛情を、痛みを、私だけの宝物として、大切にしたいと、思っています。
私は、同じような境遇にある人を探す事をしませんでした。目の前を見るだけで精一杯な私には、そのような発想が無かったのです。
その分、症例や、家族例を知らない分、私は孤独だった、と、大人になった今ごろ、思い至っています。
そして今になってようやく、自分の幼少時代について振り返る事が出来るようになりました。
私と、その人の年の差はいつまでも埋まらないまま、私たちは、年を取って、生きてゆきます。
いつか、両親が死んだときに、その人を守れるのは、真に、私だけになります。
私はこれから、障害についても、福祉保障についても、勉強しなければなりません。
どのような将来になるかはわかりませんが、でも、ひとつだけ確かなことは、いつまでも、言葉の通り、永遠に、私はその人に守られる存在であり、私はその人を守らなければならない存在である、という事です。
ただ、ここに、残しておきたい、と思い、ここまで綴りました。
名前のない痛みと生きたあの頃があって、そしてこれからも、何があってもきっと、私は何の理由も無く、その人を、愛し続けるだろうという事を、ここに残しておきたいです。
障害者と育つという実態を、少しでも伝えられたのなら、それは副産物ですが、嬉しく思います。
読んでいただき、ほんとうに、ありがとうございました。
知ってもらえた事により、私と、その人は、存在をこの世界に、許されるように思います。
さして推敲していません。
少し混乱した文章だと思いますが、それも今のそのままの私の気持ちだと思っていただけたら、と思います。
2016.1.13 私と、私の愛する家族に。