読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

くらむせかい

精神虚弱なぼっちヒキニート

くらむの失恋。(前編)

mental

 

くらむはネットを、やらない人です。
今も、blogの周辺は触りますが、その程度。
そんなくらむが、その昔、
電波の向こうのあの人に恋して、
そして失恋した話。

(と言うと真面目あるはネタぽく聞こえるけれど、いえいえ、くらむは通常運転、
 期待しないで、そしてメンがヘラりんちょ系だから注意してね。
 しかもだらだら異常に長いよ(流石に分割したよ)。警告はしたっ!)


その人の事を、いつから知っていたのかを、よく思い出せません。

自分は記憶に関して少々難ありです。
昔の事を、昔といわず最近の事でも、うまく思い出せないのです。
それは、そもそも記憶していないからなのか(そんな事はあり得ないでしょうか)、
記憶を辿る経路が壊れてしまっているのか、あるいはよく言われる、”記憶が閉ざされた”状態なのか、
詳しい事は分かりませんが、”思い出せない”という現実は抱えています。

ですので、それが、1年前だったのか、あるいは、もう4年前からだったのか、正直よく分からないのですが、
意識を強くしたのは、たぶん、そんなに前ではない、わりと最近の事だと思います。


いわゆるランキングサイト、と呼ばれるところの、とある専門カテゴリ。(専門、とカテゴリ、は重複表現でしょうか)
そこで、見かけたのが、一番、最初でした。”記憶に難”、と言いつつも、それだけは確かです。なぜなら、くらむは、そこしか、見ていなかったから。
あとにもさきにも、くらむがわざわざ”見続けたネット”は、そこだけでしたから。

カテゴリ内には、当り前だけれど、似たような人が本当にたくさんいました。
対数自体が、その系統の中では、そこそこ多い、そのカテゴリ。
くらむのいうその人は、ちょうど自分が見ていた”2つのカテゴリ”の両方に名がありました。
しかし、これはありがちなことなのかネットに疎い自分にはよく分かりませんが、
ランキングが上だから良い、というわけでは案外なくて、むしろ自分の波長に合うと感じたのは、
10番以降くらいの、”神”的な扱いにはまだまだだけれど、たしかにファンはいる、というような立ち位置の人たちでした。

いつの間にか、時間を見つけては、そのランキングから、各blogを覗いて回るのが日課になりました。
今の自分は、情報を遮断してやり過ごす術を身につけつつありますが、当時の自分はその真逆で、
たいがいの苦しみに対しては、それ以上の苦しみをもって打ち消す術しか知りませんでした。
画面を、サイトを、開けば否が応にも情報が体に飛び込んでくるネットは、自分にとっては、
目眩う現実の苦しみを打ち消してくれるほどの、痛みを強く感じられる場所だったのです。

初めの方こそ、ランキングに名を連ねる面々は、どれを見ても、”似たような人”としか思えませんでしたが、
飛び込んでくるだけの情報(くらむはこれは小さな銃弾のようなものだと思ってます。その威力は局部的で、しかしたしかに重い受傷。
銃弾が貫通する周辺は焼け、目には見えないけれどその弾道には硝煙が残るのです。たとえ傷を塞いで無かったことにしても、
血液と硝煙反応は、いつまでも目に見えない、しかしその場所に確かに、残り続けるのです)だと思いながらも、しかし、
少しずつ、blogの中の人を覚えていきました。
その人独自のテイストや、文章、焦点とするもの(同一カテゴリの中でもそれぞれに違いがありました)、
それらの違いを覚えて、ついには更新の間隔も把握するまでになりました。

恐ろしい事は、これらが時間に全く余裕のなかった頃になされたという事です。
だから今でもくらむは、硝煙まみれなのです。

blogを読むのは面白かったです。ゆっくりと本を読むような時間は無かったし、カテゴリの中ではある程度の揺れ幅しかありませんので、
ほどよい娯楽とさえ、感じていたのだと思います。
しかし、自分がblogをやろうとは思いつきませんでしたし、読んでいるblogも、ただ一読者として眺めるばかりで、中の人とコンタクトを、取ろうとは一度も思いませんでした。
(これも、よく思う事なのですが、この電波上の文字には、ある種のAI感が拭えません。
そんなことはないと分かっていても、どこか自分は、文字の羅列に冷たさを感じ、孤独を深めるのです)

ですが、徐々に、現実の多忙さが増し、自由時間がわずかにも持てなくなりました。
blogの巡回(この言い方は少し傲慢に感じて嫌いですが、当時はこのような状態でした)に充てる時間も、それによる痛みを許容する精神的余裕もなくなって
ゆきました。
そうなると自然に、ランキングの順に見るのではなく、自分の琴線に合った数か所だけを、覚えて、見て回るようになりました。
それでもなんとかその2つのカテゴリを見ていましたが、それも難しくなり、最終的には、その人を含め、ほんの数人だけを、見るようになりました。

(大丈夫?すとーかーにっき、みたいになってないかね?時間にしたらでも、日に10分くらいの出来事です。
 ネットの事はその10分間しか、頭には影響していません。なにせ、余裕が無かったので、歯磨きレベルの習慣のようなものでした)

たくさんの人を情報として見ているだけの時には、天気予報でも見ているような感覚で、ただ、「そうなんだね」と見ていましたが、
人数を絞ると俄然、中の人がはっきりと見えて来(る気がして)て、
blogを読む、というよりは、その人のリアルタイムの自伝を読んでいるような気分になりました。
情報というよりは、読書の意味合いに傾いたのだと思います。

 

飄々と、しているところが、大好きでした。

年も近くて、なにより、同病、そしてこれはくらむの人生で初めての”家庭環境が似ている”人でした。
気質というか人間性、そのものも、自分とかなり似ていると思っていましたが、
置かれている状況、望んでいる事、そういう事がとても、自分に近かったのです。

他のblogでは、画像で集客するタイプが多かったのですが、その人は、しっかり文章で人を惹きつけていました。
たとえ状況はシビアでも、というかもう絶望と言って差し支えなくても、綴られる文章には陰鬱なところがなく、
他の人ならメンヘラ的なありとあらゆる言葉を並べて泣きわめいてもおかしくないような事でも、
てへ、っと笑ってまとめるような人でした。

強さ、で、弱さを隠すタイプだと、感じていました。
弱さを曝け出す勇気がなくて、でも、弱さを排除できるほどの強さ、もないのです。
くらむも、現実ではそのような人間です。
これは、誇れることではありません。
身勝手な不器用なのです。


自分は、具合を悪くしてからは、もう、苦しみを苦しみで打ち消す事さえ、為せなくなり、
生きることがままならなくなりました。
当然そのblogも、見られなくなりました。
あんなに、毎日のように、楽しみにしてみていたのに、なぜ見られなくなったかといえば、
情報が呑み込めなくなったから、というよりは、ただ、単に、
生きてゆく理由を見失ったからです。
もう、こういった代償行為で命を繋ぎ止める事すら、その時の自分は放棄していました。
言葉は悪いし甘ったれたように聞こえるかもしれませんが、
あの時たしかに自分は、生きていませんでした。
うまく、言えないけれど、その頃の記憶もほとんどありません。
思い出せるのは、断片的な、光や、自分の立ち止まった足元のひとこま、そのくらいです。
しんで、いたのです。

あの頃を思うと、今のくらむはとても元気です。
出来ない事は山ほどあるけれど、生きていると思います。


自分がblogを始めてから、しばらくして、どれぐらいぶりか、これまた記憶が曖昧で分かりませんが、
その人のblogを、見に行きました。
もう、名前を覚えていたので、ランキングは経由せずに、検索欄にその名を打ち込みました。


生きている、というだけで、
奇跡なのです。
誰でもそうなのだけれど、死んでしまったって、おかしくないんだから。
健康でも幸福でも、人はある日、突然に、死んでしまうものだから。


その人は、生きていて、あの頃と変わらず、てへ、っと笑っていました。

思わず、懐かしくなって、遡ってblogを読んでゆきました。
奇しくも、くらむの波乱に満ちた時期(は大袈裟だけれど、人生という一筋で見るときっと、たしかにこの頃は細い線じゃなくて、墨汁が零れたみたいな大きな黒い丸だと思います。
そして今もまだくらむはその中、ふちっこ)を同じくして、その人も、なかなかに大変なことになっていたようでした。
それでも、今でも、元気に、元気ではないだろうけれど元気に、文章を綴り続けられている事に、勝手にほっとしたものです。

 

しか、し…

そんな、ああ、生きてる、嬉しい、大好き、が打ち崩れる事になろうとは!!
はいっ!ようやく、失恋するよ、おまたせ!


一度はそうして、その人のblogを読み返してみたものの、やはりくらむは(今もですが)、情報のキャパが極端に小さくなってしまっています。
具体的に言えば、くらむはテレビを見られないし、ネットも一日のうちでわずかな時間だけ、生身でも、音楽や読書は、質量に関係なく、
受け付けない時が多いです。
そのような状態ですので、とてもその人のblogを見続ける事など出来ませんでした。
さよなら、と名残惜しくも、そのblogを後にしました。


それからまた、いくらの日が経ったのか。
精神が安定している時です。ちら、りと、覗きにゆきました。
生きてるかな、と。ぱっくりとかしてないかな、焦燥に殺されてないかな、ねこはげんきかな。と。
ちら、り、という気持ちだったのです。
うんうん、生きてる、良かった、がんばれ、いつものように自分は、そう思うだろうと、脳内のシュミレーションは、完璧だったのです。


しか、し…

現実は、くらむの想像なんて、はるかにはるかに、越えちゃって、いたのです。


なんと、その人は…
くらむと同病で、ある種のかせとも言えるものも同じくあり、同じような行き詰りな思考と、
しかし焦燥感にだけは制御を超えてしまって、でもメンヘラは大嫌いで、自分がメンヘラ的なのにも激しく羞恥心と嫌悪感を燃やしていて、
でもそれら全部をまるっと収めるような、
軽快な文章の、その、人は、
なんと、

 

りあがじゅうになっていたのです。

 

 

 

 

つづく…