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■明和政子・京都大教授(寄稿)

 日本に住む私たちにとって、サルは古くから身近な存在でした。桃太郎、猿蟹(さるかに)合戦、サル芝居、サル真似(まね)。サルが登場する昔話や民話の数の多さがそれを物語っています。いわゆる先進諸国のなかで、ヒトとサルがこれほど近接した空間で共生してきたのは日本だけです。

 そうした背景もあってか、日本は独自の感性で霊長類学を開拓してきました。おもしろいことに、西欧の研究者は個々のサルに番号を割り振って彼らの行動を記録していました。しかし、日本の研究者はサルに「ウメ」「モモ」といった名前をつけていました。そうすると、サルのふるまいがまるでヒトを見ているかのように具体的にみえてきます。日本の霊長類研究は、サルにも体系だった社会構造や文化らしきものがあることを発見してきました。日本人特有のサル観なくして、霊長類学の発展はなかったでしょう。

 サルはヒトの本性の起源を映し出す鏡である。こうした見方は、ヒトの行動や心についての生物学的、科学的理解に多大な貢献をもたらしましたが、同時に、サルにヒトを重ねて見るがゆえの思い込みがもたらした負の側面もありました。その代表例が「サル真似」という表現です。サル真似は、主体性や創造性に欠けている、誰にでもできるといったあまりよくない印象を含むことばです。

 しかし、サルは真似しません。賢いイメージがあるチンパンジーですら、相手の行動を真似ることは難しいのです。サル真似するのはヒトだけです。真似はヒトが進化の過程で独自に獲得してきた種特有の能力であり、ヒトの本性を考える鍵といえます。