『あと千回の晩飯』 山田風太郎(1997)
『風眼抄』は山田風太郎50歳までのエッセイを編纂したものでしたが、こちらは72歳で朝日新聞に連載し始めたもの。77歳までの3年間で完結。ちなみに山田氏は満79歳で亡くなられました。
いろいろな徴候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。
この晩飯ではなく人を食った書き出しで始まる連載は、山田氏の既に浮世離れしたかのような語り口がそこはかとないユーモアに繫がっていて『風眼抄』とは違った読み応えがあります。
ある老人病院のお医者様の観察によるとー「長命の人々は、みんあ春風たいとう、無欲てんたんのお人柄かと思ったら決してそうじゃなく、みなさんひとの頭でも踏みつけて人生を越してこられたような個性の持ち主に見えますがね」だそうだ。
たばこと酒はここ五十数年切らしたことがない。
とにかく歩いていようが横たわっていようが、息する代わりにたばこをのんでいる。切れ目がないから一日に何十本吸うか勘定したこともないありさまだ。
関係ないのですが最初に貼った角川文庫の表紙の挿画はひどいですね。私も煙草は喫いますが、くわえ煙草で白飯に箸を立てている人は見たことがありません。
私は戦後五十年、いまだ定期健診というものを受けたことがない。人間ドックに入ったことはない。こんな人間は世の中に一人もなかろう。
理由はただ一つ、私の横着、モノグサ、面倒くさがりやだが、この横着は高くついたといわねばならぬ。
山田先生(この呼び方が一番しっくりくるので変更)、なんと連載冒頭で末期重症の糖尿病の診断を受けます。白内障も一緒に。さらに精密検査を経て、糖尿病は軽度で、むしろパーキンソン病の徴候があると。
私は医者から宣告されたのである。
「近いうちあなたは、盲目になるか、死ぬかだ」
それで休載期間を挟みます。休載明けがこれ。
いやあ、驚いた、驚きました。
—六カ月前まで、この欄にエッセイを書いていた山田風太郎です。
ウケました。知ってるって。どうも私、山田先生に親しみを感じますね。
この休載を挟んで、更に山田先生の諦観が加速するのがおかしい。
「長生きするにも努力が要るなあ。懐手をしていて長生きできるなら、おれも長生きしてもいいんだが」
懐手で思い出した。だいたい私は努力という言葉も行為もあまり好きではない。「頑張る」という言葉も然りである。
七十過ぎまで生きていれば、たいていの人が「座右の銘」のたぐいを持つものだが、私にそんなものはない。強いていえば漱石に「懐手をして小さくなって暮らしたい」という言葉くらいだ。
今でこそ珍しくないコンテキストとなった「頑張りズム否定論」ですが、30年前には珍しかったのではないでしょうか。
七十歳を越えて、心身ともに軽やかな風に吹かれているような気がする
要するに「無責任」の年齢にはいった、ということらしい。
この世は半永久的につづくが、そのなりゆきについて、あと数年の生命しかない人間が、さかしら口に何かいう資格も権威も必要も効果もない。
人間この世を去るにあたって、たいていの人が多少とも気にかけるのは遺族の生活のことだろうが、そんな心配は無用のことだ。子孫は子孫でそれなりに生きていくし、また七十を過ぎた人間に、死後の子孫の生活の責任までおしつける人間はいないはずだ。
生きているときでさえ、万事思うようにはゆかぬこの世が死後にどうなるものではない。
七十歳を越えれば責任ある言動をすることはかえって有害無益だ。
よくあなたの座右の銘は何か、などきかれることがあって、いつも私はそんなものはない、と答えることにしているが、強いていえば「したくないことはしない」という生き方がそれかも知れない。
もう完全にふっ切れてますね山田先生。元来そういう性向だったのでしょうが、晩節にあたって輝き?を増しております。
ときどき首をひねって考えることがある。自分はどうして作家などになったのだろう?もっとも、文学的な作品など一篇も書いたことはないので、まともな作家といえるかどうか怪しいところもあるが、
しかし、もともと人は誤解の中に生きているものなのである。
私のようにあまり世の中とかかわりのない人生をすごしてきた者でも、「ああ、あの件については誤解されているな」と考えることが少なからずあるが、これをいちいち弁明にまわるのも面倒だから放り出したままにしている。
少々引用が多くなりましたが、本書でも山田先生の文学論、戦争を中心にした歴史観、日本人論は健在です。
「老い」について触れた部分の白眉は、
それは自分の尊厳性を保つための力闘である。
とまで語られている、排泄についての山田先生の執心ですね。
痴呆現象にもいろいろなかたちがあるが、なかでも介護者をいちばんなやますのが例の排泄物の問題らしい。
私の周囲の知人にも、その例が二、三ある。その話を聞くのだが、聞くもナミダ、語るもナミダの物語だ。(中略)
その始末の光景を、話だけ聞けばマンガチックだが、当事者にとっては、とうてい笑いごとではない。
こういう話を聞くと私は、神は人を祝福をもって生まず、悪意に満ちたカリカチュアとして生んだのではないかと疑わずにはいられない。そして、人間に対してのみこの感が起こる。他の動物はこんな醜態をさらすことなく、ほかからの介護者もなくひとり荘厳に死んでゆく。
今まで好き勝手に生きてきた山田先生。自分の老いを自覚するにあたって、排泄を人に依存することに大きな恐怖を抱いたことは想像に難くありません。本書でも幾度も触れられていますが、晩節に排泄に関するエピソードが残されている有名人については片端から、それこそ残さず取り上げた感すらあります。
このあたり、著名人の臨終のさまを900人以上集めた
『人間臨終図巻』山田風太郎(1986年~)全4巻
に重なるものがありますが、それはまた次の機会に。
山田先生、とにかく興味が尽きない人物です。
以上 ふにやんま