2015-12-18

子供を育てずして老人の世話をするのは難しい

自らの子供を育ててみてわかったことは、人間もやっぱり動物だということだ。

子育てとはそれを再確認するかのようなものだった。

知性がなければ糞尿は垂れ流すものだし、理性がなければマナーは愚かろくに欲求をコントロールすることはできない。

飛び散る食べ物と格闘しながら、睡眠などろくにとれずとも糞尿にまみれながらもわが子を育て続けられたのは、そこに確固たる愛情があったからに他ならない。

そんな子供の安らかな寝顔を見ながらわかったことは、本来、親から子への愛情一方通行なのだということだ。

子育てをしたことのない人間に、親の世話を見ることは難しい。

なぜなら、「親の愛情」というものを実感したことがないからだ。

それは、「親から愛情」とは全く異質なものだった。

親になってみてみるまで、何故親というものあんなにも子供を信じず心配ばかりするのかが理解できなかった。

しかし今になってそれが少しずつわかってきたような気がする。

失うことの痛みがどれほどのものかわからないほどに恐いのだ。

親が子供を厳しく叱るのは、コントロールができないことに苛立っているのではない。

そうまでしてでも、危険というもの理解させようとしていたのだということがいまさらながらに理解できたのだ。

単純な話、親になってはじめて自分がどれほど愛されていたのかが理解できたのだ。

この内から湧き出る感情は、どれほどの言葉を並べても伝えられない自信がある。

かつての自分がそうだったのだから

子供の排泄部の処理なんてものは、この愛情があれば造作も無いことだ。

自身過去、多少の潔癖症である自覚があった(子育てへの影響も心配していた)が、そんなものはすぐに消えて無くなった。

単純な話、汚れることのストレスより子供を汚いままにさせておくストレスの方が大きいのだ。

そうして子供を育てる大変さを痛感しながら、いつも頭に浮かんでくるのは親への感謝だった。

こうして一番手間をかけた頃の記憶を失っているだなんて、自分とはなんて都合のいい生き物だと思ったものだ。

子育て経験がなければ介護ができないということを言いたいのではない。

しかし、少なくとも子供を育てた経験を持つものは、この感謝に気づく可能性がそれだけ高いということを意味している。

認知症になり、我が子に対する記憶でさえ失ってしまった親に対して、それでも愛情をもって接することができるかどうかは、この感謝という実感の存在に大きく左右されることだろう。

そのことに気づいてから身の回りにいる十分に大人と言える人間たちの行動をみてある傾向が見えてきた。

老人に冷たい人間は、総じて子育て経験していない傾向にあるのだ。

例えば老人の咀嚼音、咳などの生活音に対して、敏感に嫌悪感を示すのはほとんどが子供を持ったことのない大人だった。

逆に、仕事上は冷徹人間であっても何故か老人に優しい大人は、大半が子育て経験したことのある大人だった。

今までは祖父母が身近いたかどうかが大きな要因だと考えていたが、どうやらそれだけはないようだ。

以前から子育てをすれば一人前かどうかということがよく議論に上がるが、もし、老若男女だれに対しても優しくできる人間を一人前と呼ぶのだとすれば、このことは大きく影響のあるものだと言えるのだろう。

なぜなら、実の子供に対する愛情がどういうものかということは、実の子供を持ってみて初めて分かるものからだ。

そうした感情本能プログラムされた生き物がこうして淘汰を勝ち抜いたのかと思うととても興味深いものだ。

トラックバック - http://anond.hatelabo.jp/20151218133002

記事への反応(ブックマークコメント)