・国民の精神性、置かれた状況、など、なにからなにまで、フクシマを彷彿とさせる記述が続く非常に重い本である。
・原子力村の面々もこの書籍に対して、「反論」を試みているようなので、併せて紹介したい。
ノーベル文学賞にベラルーシ人作家 フクシマを積極発言
ストックホルム=渡辺志帆 モスクワ=駒木明義 2015年10月8日23時59分(朝日新聞)
スウェーデン・アカデミーは8日、2015年のノーベル文学賞をベラルーシ人の作家スベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)に授与すると発表した。授賞理由を、「私たちの時代における苦難と勇気の記念碑といえる、多様な声からなる彼女の作品に対して」とした。長年、期待されてきた同氏の受賞に、発表会場に詰めかけた報道陣らから拍手と歓声が起きた。女性の文学賞受賞は14人目。
AFP通信によると、ベラルーシの首都ミンスクで会見したアレクシエービッチ氏は、「私ではなく、私たちの文化、歴史を通して苦しんできたこの小さな国への受賞だ」と語った。
アカデミーのダニウス事務局長は「彼女は40年にわたり新しい文学のジャンルを築いてきた。チェルノブイリ原発事故やアフガン戦争を単なる歴史的出来事ではなく人々の内面の歴史ととらえ、何千ものインタビューをまるで音楽を作曲するように構成して、我々に人間の感情と魂の歴史を認識させた」とたたえた。
■「黒沢明監督の『夢』はまさに予言」
アレクシエービッチ氏は、東京電力福島第一原発事故についても積極的に発言し、高度に発達した技術に依存する現代社会への警告を発している。
ストックホルム=渡辺志帆 モスクワ=駒木明義 2015年10月8日23時59分(朝日新聞)
スウェーデン・アカデミーは8日、2015年のノーベル文学賞をベラルーシ人の作家スベトラーナ・アレクシエービッチ氏(67)に授与すると発表した。授賞理由を、「私たちの時代における苦難と勇気の記念碑といえる、多様な声からなる彼女の作品に対して」とした。長年、期待されてきた同氏の受賞に、発表会場に詰めかけた報道陣らから拍手と歓声が起きた。女性の文学賞受賞は14人目。
AFP通信によると、ベラルーシの首都ミンスクで会見したアレクシエービッチ氏は、「私ではなく、私たちの文化、歴史を通して苦しんできたこの小さな国への受賞だ」と語った。
アカデミーのダニウス事務局長は「彼女は40年にわたり新しい文学のジャンルを築いてきた。チェルノブイリ原発事故やアフガン戦争を単なる歴史的出来事ではなく人々の内面の歴史ととらえ、何千ものインタビューをまるで音楽を作曲するように構成して、我々に人間の感情と魂の歴史を認識させた」とたたえた。
(中略)
■「黒沢明監督の『夢』はまさに予言」
アレクシエービッチ氏は、東京電力福島第一原発事故についても積極的に発言し、高度に発達した技術に依存する現代社会への警告を発している。
黒澤明氏の「夢」はこちらでも紹介した。6基の原発が爆発し、ストロンチウム90,セシウム137,プルトニウム239などという具体的な放射能に言及していることに正直、非常に驚いた。巨匠に時代がいわば、ようやく追いついたのである。
彼女はこの本の中で次のように述べている
この本はチェルノブイリについての本じゃありません。チェルノブイリを取り巻く世界のこと、私たちが知らなかったこと、ほとんど知らなかったことについての本です。見落とされた歴史とでもいえばいいのかしら。私の関心を引いたのは事故そのものじゃありません・・(中略)・・この未知なるもの、謎に触れた人々がどんな気持ちでいたか、何を感じていたのかということです。チェルノブイリは私たちが解き明かさねばならない謎です。もしかしたら、二十一世紀への課題、二十一世紀への朝鮮なのかもしれません。人々はあそこで自分自身のうちに何を知り、なにを見抜き、なにを発見したのでしょうか?
・・中略・・
ここはもう大地じゃない、チェルノブイリの実験室だと言われているこの国に。ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった。チェルノブイリは私たちのすみかになり、私たち国民の運命になったのです。私はこの本を書かずにはいられませんでした。
あまりにも重く、なかなか読み進められない。一章を読んでは、しばらく休んで、ようやくすべてを読破することができた。このすばらしい本に対して、原子力村はいちおう「反撃」をしているようである。しかし、ノーベル賞の権威自体を疑うことはできないので、実際のところ何を言いたいのかさっぱりわからない文章となってしまっている。・・中略・・
ここはもう大地じゃない、チェルノブイリの実験室だと言われているこの国に。ベラルーシ人はチェルノブイリ人になった。チェルノブイリは私たちのすみかになり、私たち国民の運命になったのです。私はこの本を書かずにはいられませんでした。
コラム Salonから 今年のノーベル文学賞に思う2015年11月2日
産経新聞客員論説委員 千野 境子 氏
(前略)
1986年4月26日、当時まだソ連体制下にあったチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故をさまざまな形で経験した人々の証言を記録した『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)で知られる作家である。
ただし日本では誰もが知る有名作家とは言えないし、これまでともすれば反原発など政治的メッセージと関連付けて取り上げられがちな側面もなくはなかった。この作品にとってそれは残念なことで、私はノーベル賞受賞を機に、同書がもっと広範な人々、とりわけ原子力業界の関係者に読まれてほしいと思う。原発への賛否云々はひとまず脇に置き、作品には読むに値する深さや重みがある。コラムSalonには少し場違いかなと思いつつ、取り上げさせて頂く理由もそこにある。
ノーベル賞委員会は受賞理由を「現代の苦痛とそれを乗りこえる勇気の記念碑のような、多様な声を集めた著作」としている。そして『チェルノブイリの祈り』がまさにこの評に当てはまる。
証言者は事故で真っ先に現場に駆け付けた消防士の妻に始まり、精神科医、大学講師、事故処理作業者、カメラマン、ジャーナリスト、化学技師、兵士、研究者、子供など50人に上る。しかもどの証言もその人ならではの表現や語り口で、理不尽な悲劇や不幸が淡々と、しかしとても印象深く語られてゆく。読後感は被害者への同情、共感、対策を誤った当局への怒り、原発への恐怖…さまざまだろうが、作品の真価はそれだけに留まらないことだと思う。
読みながら、また読み終えて心に強く残ったのは、人間の生きる力や素晴らしさだった。「勇気の記念碑」とは言い得て妙で、底知れぬ悲劇であるのに、記念碑は輝きさえ放っている。
これにはアレクシェービッチの非凡な「聴く力」が大きい。新聞記者として私も沢山の人々を取材して来たが、インタビューは易しくて難しい。通り一遍の言葉で始まり、終わってもインタビュー。その一方、言葉が秘める無限の力に感服するようなインタビューがある。だがそうした幸運は多くない。それには聞き手と受け手が相互に深く呼応しなければならないからだ。
(中略)
さて私はここまで『チェルノブイリの祈り』を称賛して来たが、それと同時に、同書で原発問題を論じるのには問題のあることも付言したい。そもそも同書には原発自体も事故も具体的な事実や説明はほとんど出てこない。感情がほとばしるような同作品から浮かび上がるのは、むしろ原発への杜撰な取り組みの上に胡坐をかいたソ連社会主義体制の欠陥であり、反原発以前の問題だ。
事故から約5年、ソ連は解体消滅する。アフガニスタン侵攻や身の丈を超えた米国との軍拡競争の果てではあったが、原発事故はそのような末期的症状にあったソ連体制の帰結でもあった。
来年はチェルノブイリから30年、そして福島原発事故からも5年である。原発については感情でなく理性とリアリズムで考えることが必要だし、基本であろう。しかし人間は感性豊かな動物でもあるのだから、感情を排するだけでは人間性を失いかねない。その両立を図っていかねばならない。繰り返すが、だからこそ原発に携わる専門家たちに本書を読んでほしいと思うのである。
産経新聞客員論説委員 千野 境子 氏
(前略)
1986年4月26日、当時まだソ連体制下にあったチェルノブイリ原子力発電所で起きた事故をさまざまな形で経験した人々の証言を記録した『チェルノブイリの祈り』(岩波現代文庫)で知られる作家である。
ただし日本では誰もが知る有名作家とは言えないし、これまでともすれば反原発など政治的メッセージと関連付けて取り上げられがちな側面もなくはなかった。この作品にとってそれは残念なことで、私はノーベル賞受賞を機に、同書がもっと広範な人々、とりわけ原子力業界の関係者に読まれてほしいと思う。原発への賛否云々はひとまず脇に置き、作品には読むに値する深さや重みがある。コラムSalonには少し場違いかなと思いつつ、取り上げさせて頂く理由もそこにある。
ノーベル賞委員会は受賞理由を「現代の苦痛とそれを乗りこえる勇気の記念碑のような、多様な声を集めた著作」としている。そして『チェルノブイリの祈り』がまさにこの評に当てはまる。
証言者は事故で真っ先に現場に駆け付けた消防士の妻に始まり、精神科医、大学講師、事故処理作業者、カメラマン、ジャーナリスト、化学技師、兵士、研究者、子供など50人に上る。しかもどの証言もその人ならではの表現や語り口で、理不尽な悲劇や不幸が淡々と、しかしとても印象深く語られてゆく。読後感は被害者への同情、共感、対策を誤った当局への怒り、原発への恐怖…さまざまだろうが、作品の真価はそれだけに留まらないことだと思う。
読みながら、また読み終えて心に強く残ったのは、人間の生きる力や素晴らしさだった。「勇気の記念碑」とは言い得て妙で、底知れぬ悲劇であるのに、記念碑は輝きさえ放っている。
これにはアレクシェービッチの非凡な「聴く力」が大きい。新聞記者として私も沢山の人々を取材して来たが、インタビューは易しくて難しい。通り一遍の言葉で始まり、終わってもインタビュー。その一方、言葉が秘める無限の力に感服するようなインタビューがある。だがそうした幸運は多くない。それには聞き手と受け手が相互に深く呼応しなければならないからだ。
(中略)
さて私はここまで『チェルノブイリの祈り』を称賛して来たが、それと同時に、同書で原発問題を論じるのには問題のあることも付言したい。そもそも同書には原発自体も事故も具体的な事実や説明はほとんど出てこない。感情がほとばしるような同作品から浮かび上がるのは、むしろ原発への杜撰な取り組みの上に胡坐をかいたソ連社会主義体制の欠陥であり、反原発以前の問題だ。
事故から約5年、ソ連は解体消滅する。アフガニスタン侵攻や身の丈を超えた米国との軍拡競争の果てではあったが、原発事故はそのような末期的症状にあったソ連体制の帰結でもあった。
来年はチェルノブイリから30年、そして福島原発事故からも5年である。原発については感情でなく理性とリアリズムで考えることが必要だし、基本であろう。しかし人間は感性豊かな動物でもあるのだから、感情を排するだけでは人間性を失いかねない。その両立を図っていかねばならない。繰り返すが、だからこそ原発に携わる専門家たちに本書を読んでほしいと思うのである。
さすが、産経関係者というしかないが、この未曾有の災難に対して「原発への賛否は抜きにして」と平気で言えるのはなぜなのか。問題はソ連の政治体制ではなく、チェルノブイリそのもの、もたらした災難に関して書かれているのである。なぜ、それを
・ソ連の政治体制
・人間の生きる力や素晴らしさ
などというちんけな話とすり替えることができるのか。ノーベル賞に対してあまりに失礼だ。ソ連の体制の不完全さに対して、受賞したのではないことなど明らかではないか。
さて、もう一人も「反論」を試みている。
ノーベル文学賞『チェルノブイリの祈り』の危うさ石井 孝明ジャーナリスト
2015年のノーベル文学賞をベラルーシの作家、シュベトラーナ・アレクシエービッチ氏が受賞した。彼女の作品は大変重厚で素晴らしいものだ。しかし、その代表作の『チェルノブイリの祈り-未来の物語』(岩波書店)は問題もはらむ。文学と政治の対立を、このエッセイで考えたい。
日本で知られたのは1997年に刊行された『チェルノブイリの祈り』だ。これは福島原発事故の後で文庫化され反響を呼んだ。同書は1986年の同事故から十年以上経過した時点で刊行された被災者へのインタビュー集で50人ほどの人々が登場する。
感情の奥底からの人々の叫びを引き出す彼女の取材力、またそれを印象的な形で構成する描写力は、アレクシエービッチ氏の大変な力量を感じる。
登場人物は多彩だ。事故の消火活動で死亡した消防署員の妻の話がある。彼女は「なぜ夫が死ぬのか」という思いをぬぐえない。死の床に伏した夫が、彼女ののどの渇きを心配してオレンジを切ろうとする描写がある。何気ない情景を挟むことで臨場感、そして夫婦の愛情を印象づける。
原発に隣接したプリピャチ市は、原子力技術者が集う先進的で大変美しい町だった。深夜に起こった原発の火事を人々は美しいものとして見物した。しかしその火は格納容器が崩壊して原子炉が露出し、中の黒鉛が加熱で炎上したものだった。人々の被曝は放置され、2日後にようやく避難を始める。その際に放射線の恐怖にさらされたことを読者は追体験する。私たち日本人は福島原発事故の当時の記憶が呼び覚まされるだろう。
「チェルノブイリの被災者は放射能で光る」という噂話のために、避難先で裸にされ、いじめられる子ども。アルコールが放射線に効くというデマのために、毎日、浴びるようにウォッカを飲み、除染作業を行って興奮状態になった兵士たち。公文書にない、普通の人々の苦しみ、そして叫びはとても印象的だ。
被災地を正確に伝えられなかったジャーナリストは次のように語っていた。「私たちはいつも『われわれ』といい『私』とはいわなかった。『われわれはソビエト的英雄主義を示そう』『ソビエト人の姿を示そう。全世界に!』。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい。チェルノブイリのあと、私たちは〈私〉を語ることを学びはじめたのです、自然に」。
このようにアレクシエービッチ氏は、権力と社会主義体制への疑念を繰り返す。ただし彼女の言説は骨太で、日本のリベラル派に感じるような「軽薄さ」はない。民衆への暖かいまなざしと敬意、そしてスラブの大地とへの愛情が随所に感じるスケールの大きさを感じる。これは他のロシア文学の作家たちの作品から伝わるのと同じようなものだ。
文章の切り取れる現実は一部のみ
(中略)
そして彼女は事後の影響で「数万人の人が亡くなった」「政府は隠し続ける」と繰り返す。たしかにこの事故は統計が不備で全貌は不明だ。しかし、現実はそこまでひどいものではない。国連とロシア、ウクライナ、ベラルーシの合同調査(11年公表)がある。被害の原発事故直後に、作業員や消防士138人が急性放射線障害になり28人が亡くなり、2000年までに19人が死亡した。また、放射性物質をかぶった牧草を食べた乳牛のミルクが流通し、その影響で約4000人が甲状腺がんになり10人が亡くなった。だがそれ以外に健康被害は確認されていない。チェルノブイリの後で旧ソ連が崩壊し、1990年代はこの3国は社会混乱から、人々の健康も悪化した。その影響も大きい。
こうした事実を見ると、彼女の次のような描写は大げさに見える。
「チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。(中略)国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切です」。
「ここでは過去の体験はまったく役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えていたことがないからです。不意打ちを食らったのです」
「最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい」
私はウクライナの作家と意見交換したが、彼も彼女の意見に違和感を感じていた。「チェルノブイリは敗北ではない。それを乗り越え『勝利』を得たと、前向きの評価ができるところもたくさんあるのだ」と述べた。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの、この事故で被害を受けたいずれの国も、原子力発電を使い続けている。
感覚ではなく、事実を科学的に検証した政策論を
彼女がこのような態度で、感覚を研ぎ澄まし、チェルノブイリの一面を伝えたのは評価されるべきことだ。しかし感覚だけでは、事故をとらえられない。また事故の全貌は、個々の悲劇を取り上げるだけでは分からない面がある。そして具体的な事故への対策では、これまでの科学の蓄積と検証の上に、原子力・エネルギー政策、そして放射線防護政策を展開しなければならないのだ。
残念ながら、福島もチェルノブイリも感情に傾きすぎたゆえに、事故後の混乱が広がった。その福島はチェルノブイリよりも、周囲の放射線汚染の状況は深刻ではなかった。しかし事実を科学的に検証することなく、恐怖が語られることが多かった。
その解決をめぐっては、具体策が検討されるべきなのに、社会的な議論は拡散、混乱した。反原発の主張、倫理とか正義とか、文明論など、今行う必要のない、大げさな話が語られ続けた。そして感情的な言説は、混乱を長引かせた面がある。
アレクシエービッチ氏の言葉は重厚で美しく知的だ。軽薄さと感情的な面の目立つ、日本の一部の人による反原発の言説とはレベルが違う。しかしチェルノブイリの今の現実を知れば、彼女のような感情的な問題へのアプローチが、その解決には役立たない面があることを、示しているようにも思える。
彼女の戦争、原発をめぐる言説は、ベラルーシ、ロシアでは批判にさらされている。もちろん私は言論弾圧を批判する。しかし現実に向き合う人が、彼女の言葉に不快感を抱くことは、ある程度は理解ができる。
「神のものは神に。カエサル(皇帝)のものはカエサルに」。新約聖書に有名な言葉がある。人間の内面の問題は、世俗の政治とはまったく別の解決策が必要であることを、適切に示した警句であろう。チェルノブイリ、福島復興、そして原子力について語る際には、感情だけではなく、科学的な事実、統計も、参照して考えなければならない。ノーベル文学賞作家のシュベトラーナ・アレクシエービッチ氏の言説は危うさをはらむのだ。
(2015年10月13日掲載)
2015年のノーベル文学賞をベラルーシの作家、シュベトラーナ・アレクシエービッチ氏が受賞した。彼女の作品は大変重厚で素晴らしいものだ。しかし、その代表作の『チェルノブイリの祈り-未来の物語』(岩波書店)は問題もはらむ。文学と政治の対立を、このエッセイで考えたい。
日本で知られたのは1997年に刊行された『チェルノブイリの祈り』だ。これは福島原発事故の後で文庫化され反響を呼んだ。同書は1986年の同事故から十年以上経過した時点で刊行された被災者へのインタビュー集で50人ほどの人々が登場する。
感情の奥底からの人々の叫びを引き出す彼女の取材力、またそれを印象的な形で構成する描写力は、アレクシエービッチ氏の大変な力量を感じる。
登場人物は多彩だ。事故の消火活動で死亡した消防署員の妻の話がある。彼女は「なぜ夫が死ぬのか」という思いをぬぐえない。死の床に伏した夫が、彼女ののどの渇きを心配してオレンジを切ろうとする描写がある。何気ない情景を挟むことで臨場感、そして夫婦の愛情を印象づける。
原発に隣接したプリピャチ市は、原子力技術者が集う先進的で大変美しい町だった。深夜に起こった原発の火事を人々は美しいものとして見物した。しかしその火は格納容器が崩壊して原子炉が露出し、中の黒鉛が加熱で炎上したものだった。人々の被曝は放置され、2日後にようやく避難を始める。その際に放射線の恐怖にさらされたことを読者は追体験する。私たち日本人は福島原発事故の当時の記憶が呼び覚まされるだろう。
「チェルノブイリの被災者は放射能で光る」という噂話のために、避難先で裸にされ、いじめられる子ども。アルコールが放射線に効くというデマのために、毎日、浴びるようにウォッカを飲み、除染作業を行って興奮状態になった兵士たち。公文書にない、普通の人々の苦しみ、そして叫びはとても印象的だ。
被災地を正確に伝えられなかったジャーナリストは次のように語っていた。「私たちはいつも『われわれ』といい『私』とはいわなかった。『われわれはソビエト的英雄主義を示そう』『ソビエト人の姿を示そう。全世界に!』。でも、これは〈私〉よ!〈私〉は死にたくない、〈私〉はこわい。チェルノブイリのあと、私たちは〈私〉を語ることを学びはじめたのです、自然に」。
このようにアレクシエービッチ氏は、権力と社会主義体制への疑念を繰り返す。ただし彼女の言説は骨太で、日本のリベラル派に感じるような「軽薄さ」はない。民衆への暖かいまなざしと敬意、そしてスラブの大地とへの愛情が随所に感じるスケールの大きさを感じる。これは他のロシア文学の作家たちの作品から伝わるのと同じようなものだ。
文章の切り取れる現実は一部のみ
(中略)
そして彼女は事後の影響で「数万人の人が亡くなった」「政府は隠し続ける」と繰り返す。たしかにこの事故は統計が不備で全貌は不明だ。しかし、現実はそこまでひどいものではない。国連とロシア、ウクライナ、ベラルーシの合同調査(11年公表)がある。被害の原発事故直後に、作業員や消防士138人が急性放射線障害になり28人が亡くなり、2000年までに19人が死亡した。また、放射性物質をかぶった牧草を食べた乳牛のミルクが流通し、その影響で約4000人が甲状腺がんになり10人が亡くなった。だがそれ以外に健康被害は確認されていない。チェルノブイリの後で旧ソ連が崩壊し、1990年代はこの3国は社会混乱から、人々の健康も悪化した。その影響も大きい。
こうした事実を見ると、彼女の次のような描写は大げさに見える。
「チェルノブイリは第三次世界大戦なのです。(中略)国家というものは自分の問題や政府を守ることだけに専念し、人間は歴史のなかに消えていくのです。革命や第二次世界大戦の中に一人ひとりの人間が消えてしまったように。だからこそ、個々の人間の記憶を残すことが大切です」。
「ここでは過去の体験はまったく役に立たない。チェルノブイリ後、私たちが住んでいるのは別の世界です。前の世界はなくなりました。でも人はこのことを考えたがらない。このことについて一度も深く考えていたことがないからです。不意打ちを食らったのです」
「最初はチェルノブイリに勝つことができると思われていた。ところが、それが無意味な試みだとわかると、口を閉ざしてしまったのです。自分たちが知らないもの、人類が知らないものから身を守ることはむずかしい」
私はウクライナの作家と意見交換したが、彼も彼女の意見に違和感を感じていた。「チェルノブイリは敗北ではない。それを乗り越え『勝利』を得たと、前向きの評価ができるところもたくさんあるのだ」と述べた。ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの、この事故で被害を受けたいずれの国も、原子力発電を使い続けている。
感覚ではなく、事実を科学的に検証した政策論を
彼女がこのような態度で、感覚を研ぎ澄まし、チェルノブイリの一面を伝えたのは評価されるべきことだ。しかし感覚だけでは、事故をとらえられない。また事故の全貌は、個々の悲劇を取り上げるだけでは分からない面がある。そして具体的な事故への対策では、これまでの科学の蓄積と検証の上に、原子力・エネルギー政策、そして放射線防護政策を展開しなければならないのだ。
残念ながら、福島もチェルノブイリも感情に傾きすぎたゆえに、事故後の混乱が広がった。その福島はチェルノブイリよりも、周囲の放射線汚染の状況は深刻ではなかった。しかし事実を科学的に検証することなく、恐怖が語られることが多かった。
その解決をめぐっては、具体策が検討されるべきなのに、社会的な議論は拡散、混乱した。反原発の主張、倫理とか正義とか、文明論など、今行う必要のない、大げさな話が語られ続けた。そして感情的な言説は、混乱を長引かせた面がある。
アレクシエービッチ氏の言葉は重厚で美しく知的だ。軽薄さと感情的な面の目立つ、日本の一部の人による反原発の言説とはレベルが違う。しかしチェルノブイリの今の現実を知れば、彼女のような感情的な問題へのアプローチが、その解決には役立たない面があることを、示しているようにも思える。
彼女の戦争、原発をめぐる言説は、ベラルーシ、ロシアでは批判にさらされている。もちろん私は言論弾圧を批判する。しかし現実に向き合う人が、彼女の言葉に不快感を抱くことは、ある程度は理解ができる。
「神のものは神に。カエサル(皇帝)のものはカエサルに」。新約聖書に有名な言葉がある。人間の内面の問題は、世俗の政治とはまったく別の解決策が必要であることを、適切に示した警句であろう。チェルノブイリ、福島復興、そして原子力について語る際には、感情だけではなく、科学的な事実、統計も、参照して考えなければならない。ノーベル文学賞作家のシュベトラーナ・アレクシエービッチ氏の言説は危うさをはらむのだ。
(2015年10月13日掲載)
戦争と匹敵するものではないと言いながら、「勝利」をおさめたとか、このチェルノブイリの祈りを読んでいながら、IAEAの健康被害に対する「公式」発表を引用したりとか、いやはやまったく意味不明である。そもそも、この本の中では、政治体制に対する不満は、付け足しのようなものである。それよりも、「滅私奉公」によく似たスラブ人の国民性や、あるいはよくわからない放射能に対する恐怖などが前面に書かれている。
それを前者と同じく、政治体制のみの問題にしたり、あるいは「感情」を前面に押し出すことに対して非難しているが、ノーベル賞の受賞理由をもう一度熟読してはいかがか。
それにしても、新約聖書の言葉を引用したのはいいが、まったくもって意味不明。ぽっかり浮いてしまって、最後のドタバタ結論がさらに浮き上がってしまった。
是非とも本年度のノーベル文学賞受賞作品を読んで、各人が感じていただければと思う。まあ、それにしても、こんな支離滅裂な文章を書かざるを得ない諸氏にはご同情申し上げる。
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タグ:アレクシェービッチ
院長のこのブログは、わたしにとって「ノーベルブログ賞」クラスです♪
「私たちの時代における苦難と勇気の記念碑といえるブログ」!
ブログをとおして、いままで知らなかった、想像もできなかったことに、たくさん気づくことができました。
ありがとうございます。^^
水戸黄門のご印籠に匹敵する。
この賞を前にしたら
いかな原発推進派ジャーナリストでさえこの有様。
後は最強の原発推進派東大話法の池田ノビーがどんな戯れ言を吐くか?
お楽しみ!
それともノーベル賞の権威に怖気づいてダンマリを決め込むのかな?