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07/12/2015

ブロックリストの使用は「民主主義の敵」か

 SEALDsのメンバーたる学生に対して、「ブロックリスト」を使用していることをもって、「民主主義の敵」などと糾弾する弁護士が一部いるようです。

 しかし、民主主義社会においてその主張を国政に反映させるにあたっては、全ての有権者にその主張に賛同していただく必要はありません。衆参議院の議員の各過半数の賛同を得ればその主張が国政に反映する可能性が高まりますし、現在の議員構成ではその見通しが立たない場合であっても、その主張に賛同する人々が次の選挙において過半数当選することになれば、その主張が国政に反映する可能性が高まります。このためには、国会議員または国会議員になろうとする人々に対する働きかけと、広く有権者に対する呼びかけを行うことが必要となります。逆に言えば、このような働きかけ等をしてその主張を国政に反映させようとする限り、民主主義的手法による政策実現を目指していると言うことができます。

 では、このようにして特定の政策を国政に反映させようとする集団において、その政策に賛同していない大衆をどのように扱う必要があるでしょうか。

 「ブロックリスト」を使用しただけで「民主主義の敵」とまで言い切ってしまう方々は、そのような集団に属する人々は、これに反対する声をすべて受け止め、賛成へと転換させるべく直接的に働きかけるべきという前提に立っているように思われます。あるいは、さらに、反対者を説得できない以上、その政策には誤りがあり、したがって主張を取り下げるべきとまで考えているのかもしれません。

 確かに、自分たちの主張に異を唱えてくる人たちすべてに丁寧に応対し、その考えを改めさせるというのは理想的な姿ではあります。しかし、そうしない限り「民主主義の敵」との評価を甘受しなければならないかは疑問です。

 まず、人的リソースの問題があります。一対多という方向で政治的意思表明をすることと、多対一の意思表示を受け止めることとは、必要とされる人的リソースが格段に異なります。後者に対応できる人的リソースを確保できないのであれば前者の方法による政治的意思表明をするなと言うこととなれば、前者の方法による意思表明をできる人々は、後者に必要とされるリソースを割くことができる、ある程度大きく、組織だった集団に限られてしまいます。

 つぎに、精神的ダメージという問題があります。残念ながら、今の日本では、自分と異なる政治的意見を表明する人たちに対しては何をしてもよいという考え方が広くはびこっており、匿名性が広く保障されていることにより、そのような考えに基づく行動に歯止めがかからない状況に陥っています。このため、一定の政治的意思表明をすれば、これに反対する人々から、止めどもない悪意を込めた通知が執拗に送りつけられることとなります。そして、そのような執拗な悪意に晒されてもなお精神の健全さを維持できる強い人間ばかりではありません。したがって、特別でない人々が政治的意思表明をするためには、執拗な悪意を遮断するシステムが必要です。

 さらに、効率性という問題があります。一対多という形で向けられた意思表明に対して多対一という形で向けられた反論には、読むに値するレベルに到達しているものがそれほど多くはなく、かつ、同じような内容のものが多く含まれることが多いことが経験的に知られています。そのような反論を送りつける側はそれぞれ1通ないし少数通しか反論を送っていないとしても、送りつけられる側としては同じような内容の反論を膨大な数送りつけられることになるので、それら全てに目を通すことは非効率的です。一切の効率性を追求したら「民主主義の敵」か?──もちろん、そんなことはありません。

 そして、Twitterの構造を考えれば、さらに次のようなことが言えます。

 一対多に向けて特定の政治的意思表明をしたに過ぎない人が、これに対するTwitterを利用した多対一の反論を一切ブロックしなかった場合、関連ツイート欄がそのような同種内容の反論ツイートで埋まる危険があります。そのような場合、本来関連ツイート欄を見てアクセスすることとなったはずの自分宛のツイートを見逃す危険が高まるなど、その本来の使用に則った利用を十全に享受できなくなる虞がありますので、これを回避しようとすることは当然です。

 また、同種の政治的意思表明をした人に対して愚鈍な反論ツイートをぶつけてきた人が自分に対して送りつけてくる反論ツイートは同様に愚鈍なものである蓋然性が高いと言うことは経験則上も言えるわけです。したがって、あるアカウントがそのような反論ツイートを送りつけてくる人のものであることが分かった時点で、同種の政治的意思表明をしている人が予防的にそのアカウントをブロック対象とすることには、合理性があります。だとすれば、ある種の政治的意思表明をしている人々に対して愚鈍な反論ツイートを送った人々のアカウントをリスト化して、同種の政治的意思表明をしている人々の間で共有化することも又合理的だと言うことになりますし、そのようなリスト化作業をボランティアでやってくれている人がいるのであればこれを利用することも合理的だと言えます。

 もちろん、そのような第三者が作成したリストを用いて予防的にブロックをする場合、その第三者が過剰にリストアップをしてしまったとき、愚鈍な反論ツイートをする蓋然性の低い人々まで予防的ブロックの対象としてしまい、本来聞くべき反論を聞かないことになってしまうリスクはあります。ただし、本来聞くべき反論というのは、一対多の意見表明としても良識的な多数の人々に受け入れられるべきものですから、自分に対する関連ツイートとしてそれを読まなくても、回り回ってそれを聞く機会が生ずることが期待できます。したがって、リスクとベネフィットを天秤にかけて、そのようなリスクを負ってでも、第三者が作成したブロックリストを使用するという選択をすること自体は合理的であって、「民主主義の敵」と呼ばれるに値しないと言いうると思います。

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