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過去原稿

過去原稿 2004年11月25日 11:28.
mixiユーザーmixiユーザー
 ここではおれが過去に書いた原稿、特に現在都下ではテーピングのため立ち読みできない男性誌に書いたものをアップしてゆきます。

 今回は2004.7、『GOKHU』に書いたカンニングのインタビューです。



――おふたりは幼なじみだそうですが、いつからのお知り合いなんですか?
竹山 小学校~中学校が一緒なんです。家が近所で、僕が金持ちが住む一画、中島がスラム街に住んでて。
中島 正真正銘の貧乏でしたね。六畳一間に家族4人で住んでました。玄関開けたら、もう裏口が見えるんですよ。だから風通しは良かったです(笑)。ずっと貧乏だったわけじゃないんです。父親が建設業をやってまして、バブルの時は福岡の名門ゴルフ倶楽部の会員権を4つも買い漁ってましたし、車も次々に買い替える。朝はカローラで出かけたのに、帰ってきたらシルバーメタリックのクラウンに変わってたり。ベタな成金でしたね。
――そんなに羽振りがいいのに、どうして六畳間に家族4人で暮らしてらしたのですか?
中島 父が会社を2回潰してるんです。小学校6年の時、お金ができて近所に家を買ったんです。「さぁ、家が建つぞ!」って時に会社が倒産しまして、没収されちゃったんです。
――目の前に新築の自分の家があるのに住めないなんて、壮絶ですね。それに反して竹山さんはお金持ちだったとのことですが。
竹山 末っ子だったこともあって、過保護のボンボンでしたね。小遣いも、言えばいくらでもくれるという感じでした。こう見えても俺、ヴァイオリン習ってましたから。
――ええ?! ヴァイオリンを弾く竹山さん、想像できないんですけど。
竹山 まぁ、それも小学校4年までの話で……。親父がスーパーマーケットに卸す焼き鳥の工場を造ったんです。ところが金を持ち逃げされて、倒産しちゃうんです。それからはもう、食う金もない生活に転落しました。親父が家族を集めて泣くんです。「会社が倒産した。これから大変なことになる」って、号泣ですよ。親父は柔道をやってた大柄の人で、そんな姿は見たことなかった。それがショックで、俺も意味もわからないまま泣きました。しかもそれから親父が4年くらいいなくなっちゃうんですよ。借金の取り立ててで家にヤクザがガンガン来るようになって、もう地獄でしたね。
――おふたりとも凄絶な幼少期をお過ごしになったんですね。グレたりはしなかったんですか?
中島 落ち着きなかったし、学校の勉強はまったくしなかったけど、グレることはなかったです。あんまり落ち着きがないんで、ボーイスカウトに入れられてたんですよ。俺、ボーイスカウトの大会で、日本一になったんですよ。
――ボーイスカウトで日本一? それはいったい何を競うんですか?
中島 手旗信号と、火起こし。
――火起こし?! 料理もお上手だし、もしテレビの企画で無人島に連れていかれても、問題なく生きていけますね。
中島 一ケ月一万円生活ってあるじゃないですか。あんなのやったら、お金が余っちゃいますよ。だから逆につまんないかもしれないですね。ちっともサバイバルにならなくて。
竹山 こいつのアウトドアの知識が、のちに役に立つんです。仲間10人くらいで福岡県の志賀島へ遊びに行くことになったんです。でもみんな金がなくて、ひとり200円しか持ってないんですよ。花火がやりたい、でも金がない。そこで万引きですよ。町におばさんひとりでやってるヨロズ屋があって、「おばさんと喋る役」「そのスキに花火を盗む役」「それを運ぶ役」と、こいつがパート分けするんです。「食糧はどうする?」「あそこのスーパーはガードが甘くて万引きしやすい」、こいつが全部知ってるんですよ。
中島 もう綿密に打ち合せしますからね、俺は。
竹山 なんせボートまで万引きしますから。
――ボ、ボート? あんな大きいもの、どうやって万引きするんですか?
竹山 海に行くならゴムボートが欲しい。でも誰も持ってない。そこで万引きですよ。コトブキヤってスーパーがあって、夏のシーズンはボートが並んでるんです。「一番大きい8人乗りのボートが欲しい。どうやってパクるか」、そこで店員のふりしてゴムボートをはずす役、それを監視する役、屋上まで運ぶ役、屋上の駐車場で空気を抜く役、それを下まで落とす役、下でそれを受け取る役、そいつが原チャリで待ってて、落ちてきたボートを受け取って走るんですよ。そういった一連の動きを、こいつが指示するんです。
――完全犯罪じゃないですか!
中島 もう窃盗団ですよ。
竹山 なんせこいつ、ステレオコンポまで万引きしますからね。
――ス、ステレオを万引き?!
中島 店員のふりして、店の裏に持っていって、そのまま自転車で運んじゃう。
――そんなの普通はバレるでしょう?
中島 バレませんよ。いかにもバイトみたいなジャンパー着て、それらしいワッペンもつけて行きますから。万引きは表に持っていっちゃダメなんだ。裏に運ばなきゃ。
――はぁ、なんという無駄な生活の知恵。
竹山 欲しいバイクがあるとするでしょ。車種を中島に言うと、それと同じものを福岡大学の駐車場から選んでパクってきちゃう。
中島 それで、「はいコレ2万円」って売る(笑)。中島商店って呼ばれてましたから。
竹山 「さすがにそれ無理やろ~」ってのをパクッてくる、これが痛快でしたね。
中島 そうそう、物欲じゃない。チャレンジなんですよ。達成感というか。やり遂げた喜び。だからグレるってことはなかったですね。不良じゃなかった。
――それ不良よりタチ悪いですよ! 怪盗じゃないですか。漫才では「万引きなんかすんな!」ってツッコンでるのに。
中島 実はツッコミのほうが万引きしまくってた(笑)。
――竹山さんはグレたりしなかったんですか?
竹山 俺は高校時代はバンドに熱中してました。最初はベースを弾いてたんだけど、しまいにボーカルやって。
――竹山さんがボーカル? まさか、当時流行っていたBOФWYとか?
竹山 ええ、そのまさかで(笑)。漠然とミュージシャンになりたいと思ってたんです。ただライブハウスに出ても、最初は5、6曲やってたんですけど、だんだん練習とかメンドクサくなっちゃって。喋った方がウケるし。しまいには2曲しかやらずに、あとはコントやったり。自分では「ロックとは、男とは」を追求してた気になってたけど、実際は仲間とワイワイやりたかったというか。あやふやでしたね。

――なるほど。ロックによって、お笑いに目覚めたんですね。おふたりは高校は別なんですよね。中島さんはどういう高校生だったんですか?
中島 高校……辞めちゃうんですよね。
――え、中退しちゃうんですか?
中島 ある日、友達に「小泉今日子の親衛隊に一緒に入ってくれ」って頼まれたんです。ひとりで入るのが恥ずかしいから、と。しょうがないから俺も入ったんですけど、誘ってきた本人が辞めちゃうんです。俺だけ残っちゃった。ところが俺は親衛隊の人たちと仲良くなって、親衛隊活動にのめりこんじゃうんです。「明日、熊本でコンサートがある」 「明日、広島でイベントがある」って聞くと、ついていっちゃう。
――でも、まだ高校生でしょう? 旅費はどうするんですか?
中島 もちろんキセルですよ(笑)。入場券だけで新幹線に乗って。そして広島が大阪に、大阪が東京に、って行動範囲も広がって、エスカレートしていく。そうなってくると、もう学校に行く時間がないんですよ。忙しくて学校に行ってる場合じゃない。
――芸能人より忙しいんですね(笑)。でも小泉今日子さんもだんだん、いかにもアイドルって感じじゃなくなってきますよね。それでも親衛隊を続けた?
中島 いや、小泉今日子さんというより、親衛隊にいるのが楽しかったんです。それで、次が南野陽子さんの親衛隊に入って、その親衛隊がなくなると、今度は田村英里子さんの親衛隊の隊長になるんですよ。17歳の時でした。
――隊長! 大出世じゃないですか。
中島 単なる隊長じゃなく、全国の親衛隊の総隊長。なんせ隊員が8000人以上いましたから。仙台、東京、鹿児島、宮崎、毎日のように全国を飛びまわってましたね。
――それは凄いですね。よっぽど田村英里子さんがお好きだったんですね。
中島 いえ、全然。
――はぁ?
中島 どっちかというと、嫌いでしたね。だから俺はさっきも言ったように、本人より親衛隊が好きなんです。親衛隊の親衛隊(笑)。もう感覚が麻痺してましたね。人間としてオカシくなってた。
――しかし縁は異なものですね。田村英里子さんといえばサンミュージック。いまおふたりが所属している事務所ですもんね。
中島 だから当時の現場マネージャーの方とたまに会うんです。ものすご気まずい(笑)。
竹山 その人、最近まで喋ってくれなかったですからね。
――竹山さんはアイドルにのめりこんだりしなかったんですか?
中島 俺は後藤久美子さんでしたね。初めてファンレター出したのが後藤久美子。「これを読んだら、電話ください」って(笑)。で、電話はやっぱりかかってきませんでした(爆笑)。それで後藤久美子にフラれたと思って、次に好きになったのがソフィー・マルソー。ふたりともコンサートなんかやらないし、追っかけようがなかったですね。
――そうですね。そのうちひとりは日本にすらいませんもんね(笑)。

中島 アイドルにはのめりこまなかったけど、東京には行きたかった。兄貴が東京にいたんで、遊びに行ったんですよ。その時のカルチャーショクが凄かったんです。モノレールや高層ビルにも驚いたし、言葉が「うわ! 博多弁じゃなか!」って(笑)。それで大学は東京で選ぼう、行くなら早稲田だって勝手に思ってた。でも現実は、行けるワケないですよ、そんなの。それで福岡で予備校に通っている時に、友達のケン坊田中(現・吉本興業の芸人)が福岡吉本の第一期オーディションに願書を出すんです。俺のと一緒に。
――え?! 勝手に願書出されちゃったんですか?
竹山 もともと高校時代からふたりで「芸人もいいな」って話をしてたんです。それでオーディション受けたら、優勝しちゃったんですよ。で、福岡吉本からスカウトされて、そのまま芸人になりました。予備校に通って3ケ月目くらいの時ですね。
――予備校生芸人とは、奇特ですね。
竹山 だから最初のコンビ名は、ふたりが通ってた予備校の名前から取った「代々木くんと河合くん」(笑)。これが予備校側からNGが出まして、次につけたのが「ケン坊ター坊」。ケン坊ター坊は世に出るのが早かったですね。デビューしてすぐ福岡のテレビでレギュラー持ってましたから。
――順風満帆ですね。中島さんの親衛隊活動も順風満帆でしたか?
中島 いえ。ある日、「こんなことしてたらあかん。まともな人間にならな」と思って親衛隊を解散させて、福岡で有名な料亭で板前修業してたんです。もともと料理は得意だった。幼稚園の頃から父親が釣ってきた魚をさばかされたり、晩ご飯を作らされたりしてたんで、「試しにやってみろ」と言われたことが全部できちゃうんです。普通の人が8年かかって憶えることを、一年でやれてしまった。入って一年目で、大広間でお客さんの目の前で鯛をさばいたりしてましたから。
――それもう花板じゃないですか。お店でも、さぞ重宝されたのでしょうね。
中島 いえ、まったく逆で。俺が料理ができるもんだから、先輩からものすごくイジメられるんです。魚を焼く金串が飛んできて背中に刺さったり、包丁の裏側でブン殴られて血が出たり。もう毎日ノイローゼですよ。
竹山 俺もその頃、ノイローゼでした。芸人ったって、福岡でなにをやったらいいかわからないじゃないですか。それなのにダメ出しが凄くて、「お前はカスだ!」とか言われて。それに二十歳くらいになると大人の恋も憶えるんですよ。SEXありきの恋。仕事スッポかして女と遊びに行ったり、そんなんで「俺はいったい、なにがしたいのか」と自問して。そこで思いついたのが「アメリカに行きたい。男ならロスに行かねば!」と。
――アメリカに行って、なにするんですか。
竹山 なにをするってこともなく、取り敢えずアメリカ(笑)。皿洗いしながらアメリカンドリームを掴むぞ! って漠然と思ってましたね。
――そんな、吉田栄作じゃあるまいし(笑)。
竹山 当然、親に「あんた、アメリカ行って、なにをやるとね」と諭されまして、吉本を辞めて、アメリカよりは近い東京に出てきました。西荻窪の風呂なしアパートに住みながら、八百屋でバイトしてました。ある日、たまたま、定食屋でメシ食ってたんです。そしたら、こいつが入ってきたんです。
中島 ビックリしましたね。俺も先輩と喧嘩して料亭に居れなくなって、東京に遊びに来てたんです。まさか西荻窪の定食屋で会うなんて。それで再び意気投合して、僕も福岡に帰らずに中野に住んじゃうんです。
竹山 あの頃は、ほとんど毎日こいつと遊んでましたね。東京の有名な観光地は、ほぼ制覇しましたよ。なんせディズニーランドまでふたりで行っちゃいましたから(笑)。
――まるで恋人どうしじゃないですか。男だけで遊んでても、つまらないでしょう。
竹山 いや、女遊びも凄かった。当時はダイヤルQ2が流行ってまして、バンバンやってました。しかもいまみたいにサクラなんか使わない、かかってくる電話は全部ガチなんですよ。女とヤリまくってましたね。いまと違って痩せてたから、モテるんですよ。
――でもダイヤルQ2だと、お金がかかるでしょう。
竹山 幸いなことに電話は親がつけてくれてたんです。だから親のところに請求が行くんです。でもある日、8万円くらいの請求が来て、親も「これはおかしい」と気が付いて。それでNTTに頼んで、ダイヤルQ2だけつながらない設定にされちゃって。
中島 それでもこいつ、その設定を解除してまでやってましたね。信じられん。
竹山 そう言うお前はテレクラばっかし行きよったやないか!(笑)。

――そんなふうに女遊びに明け暮れたおふたりが、お笑いでコンビを組むことになったのはどうしてなんですか?
竹山 当時、「ワライドル」って言葉が流行ったんです。お笑い+アイドルでワライドル。
それ見てて、「おれらも芸人、やらね?」と。そしたら中島も「うん、やろ」と。
中島 そんなに深く考えずに返事しましたね。ただ……夢を見たんですよ。あまり言いたくないんですけど……夢のなかに、大きなホールが出てきたんです。お客さんも超満員。そしたらステージに「カンニングで~す」言うて、漫才のコンビが登場したんです。もうそいつらドッカンどっかんウケけてるんですよ。誰やこいつら? と見てみたら、それ、俺らだったんです(笑)。
――ワハハハハ!
中島 それでこいつに「おい、夢のなかで俺らが漫才しよったぞ。俺らウケまくっとるんよ。名前は、カンニングや!」言うて。
竹山 俺も「カンニング? それ、いいじゃん!」言うて応えて。もうふたりともノイローゼですわ(笑)。
――それで、まずはナベプロにお入りになったんですよね。
竹山 そんなノリで入ったから、勘違いしまくりですわ。衣装も色違いのパーカー、靴はお揃いのバッシュー。中島なんかキャップを斜めにちょこんとかぶって(笑)。
中島 ライブの出番前もネタ合わせなんかそっちのけで、鏡を見ながらキャップの位置を直してばっかりいました。
竹山 それで、やるネタはシティ派オシャレ漫才コント。「なになにだよネ~」「ウン」みたいな。
――うわ~、虫酸が走りますね。
中島 いまでは信じられんかもしれんけど 客から「カワイーッ」って言われてましたからね。こいつなんか、俺より痩せとったから、もうアイドルですわ。出番前にステージに出演者の名前がスライドで上映されるんです。カンニングって名前が出た途端に「キャーッ!」って歓声があがってましたから。それがもう気持ちよくって(笑)。はじめの1、2年はそんな感じでしたね。
――おふたりがアイドルだったなんて想像がつかない。いまとは真逆ですね。
竹山 でもね、小さいライブ会場でキャーキャー言われとるだけで、本当は人気なんかないんですよ。なのに勘違いして、ネタも作らずに遊んでばっかり。調子に乗ってナマイキだったし。それでどんどん堕落していって、クビになるんですよ。
――なるほど。それからサンミュージック→フリーフォークス→サンミュージックと事務所を転々とされる混迷期に突入されてしまうんですね。
竹山 もうメチャメチャですわ。仕事なんか月に一回のライブがあるかないか。それすら打ち合せの途中に「バイトがあるんで帰っていいスか?」って。ブン殴られましたよ。お互い芸人という部分が心の支えでもあったけど、芸人という部分に甘えてもいた。だから「芸人は借金してもいい」なんて考えてしまって、借金で家賃を払い、借金で生活し、借金がどんどん膨らんでいくんです。同期の芸人がボキャブラ天国ブームでどんどん売れていくのに俺らは借金まみれで。「これではいかん」「なんとかせんといかん」と思いながら、どうにもできなかった。
中島 ネプチューンなんか遊び仲間でしたしね。それが、あれよあれよとスターになって。でも俺らは26、27にもなって、まだ「お揃いのパーカー」気分のままで。
竹山 借金が330万円もありましたからね。利息だけで月に14万円近く払ってたから、莫大すぎてまわんないんですよ生活が。付き合ってた女にも毎月10万近く借りて。その女も感覚が麻痺してきちゃって、定期を解約したりするんです。俺の利息のために。それでもう「別れる」と。「あんた、ぜんぜん頑張ってないじゃん」と。
――人生のどん底状態……、中島さんは借金は?
中島 400万円までいきました。でも自転車操業で、なんとか毎月、利息を返してたんです。だから金融会社からは信用がありました。「あなたは素晴らしい」って誉められるんですよ。
――それ、いいカモになってるだけじゃないですか。
竹山 そのうち、出戻ったサンミュージックから、またリストラ候補になるんです。会社はリストラされるは、取り立てはキツイは、女からは別れを切り出されるは、最悪ですよ。そしてある日、ライブの当日に家に借金取りが来たんです。家から出られない。もうその時点で遅刻なんですよ。
――それはえらいことじゃないですか。いったいどうされたんですか。
竹山 窓から逃げ出して、隣の家の屋根を2軒越えて、やっとライブ会場に辿り着きました。その日は新ネタをやる予定だったんですけど、もうそれどころじゃない。携帯電話にもガンガン催促の電話がかかるし。漫才なんかやれる精神状態じゃない。それでステージで「やってられるか!」と、キレまくったんです。「お前らなんかに俺の気持ちがわかるか!」「俺だって売れたいんや!」って。
――お! いまのカンニングのスタイルが遂に!
竹山 客はヒキまくり。芸人もヒイてました。でも感情がたかぶって止まらないんですよ。
中島 俺ももうツッコめずに、横で笑ってましたね。
竹山 こんなメチャクチャな漫才をして、きっと怒られると思ったんです。ところがこのライブの主宰の、ブッチャーブラザーズのリッキーさんが「それでいい」と。さらに「まだ足りん。お前ら、最終的には客を殴れ」とまで言ってくれて。それから、とにかく「漫才ではやってはいけないこと」は全部やりました。客のひとりを集中攻撃したり。
中島 凄いですよ。自社ライブなのに一年間、観客の人気投票ゼロ票ですよ(笑)。それまでキャーキャーだったのが、「ギャーッ!」ですから。
竹山 ただ、一年を過ぎたあたりから、少しづつウケだすんですよ。お客さんが受け入れはじめたのもあるし、自分たちでも精神的に納得しはじめるんですよ。「ああ、俺たちはもう若手じゃないんだ」「不細工なんだ」「コンテストで優勝とかしてもオイシクない存在なんだ」と。それがわかってくると、今度は票も入りだしたんです。不思議なもんです。――そういった怒りのスタイルができはじめ、ブレイクのキッカケとなったのがテレビ朝日『虎ノ門』(現・虎の門)の「お笑いタイガーズゲートバトル」ですね。
竹山 あれは3年前、まだ深夜4時まで放送してた時ですね。オーディションに行ったら、制作の藤井さんが驚くんですよ。「君ら、おじさんじゃん!」って。「歳いつくなの?」「29歳です」「29?! そうは見えないよ。いままでなにやってたの?」と、ものすご不思議そうに。それで漫才やったらゲラゲラ笑って「あんたら売れる気あんの?」と。そして「うちは若手が欲しいから、ごめんね」と一旦、断られたんです。
――そうだったんですか。
竹山 ところがね、使ってくれたんですよ。当時のことを訊くと「君らを使うのは、賭けだった」と仰ってくれて。
――カンニングの心の叫びというか、妥協しない姿勢に惹かれられたんじゃないでしょうか。僕ら30代の男にとって、カンニングの漫才は本当に気持ちがいい。胸のつかえがスカッと取れるんですよ。よく自虐漫才とか、ネガティブ漫才とか呼ばれてますが、こんなにポジティブな漫才はないと思うんです。
中島 妥協するくらいならメチャメチャやったほうがいいしね。
竹山 最終的なテーマは「客殴る」なんですよ。その気持ちは、ずっと持っていたいですね。
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コメント(65件)

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[26]2005年01月05日 04:41.
未発表原稿


 僕が大阪芸大の映像学科を受験したのは、高校時代にコッ恥ずかしい青春映画を8ミリで撮ったことがきっかけだが、もうひとつ、井筒和幸監督の『ガキ帝国』に強い感銘を受けたことが大きい。

 高校時代、僕の住んでいた街には「香里東映」という、ベニヤ板を6枚くらいパッチワークして作ったような掘っ建て小屋の映画館があった。

 館内は、館主の餌付けした野良猫が観客の数より多くウロつく、日本でもっとも『子猫物語』を上映するのにピッタリの映画館である。足元は常に猫の小便で水たまりができており、映画を観る時はずっと指でズボンの裾をあげていなければならなかった。あまりにストロングな小便臭さに、鼻で息をすることは死を意味した。売店のジュースの栓は錆びきり、見たことも聞ぃたこともないメーカーの瓶入りミルクコーヒーは「コーヒー部」
「ミルク部」に完全分離。スターバックスのカフェラテを飲むたび、ここのツートンカラーのコーヒーを思い出す。

 とはいえ、安い料金で3本立てが観られるうえ、行く前に電話一本入れておけばいくらでも上映時間をずらしてくれるなど、高校をさぼるには最適の場所。上映作品は主に独立系ピンク映画、ロードショーを巡回し終った傷だらけの日活ロマンポルノ、低予算の一般映画のかわりべんたんかわりべんたん(関西弁でローテーションの意)だった。

 一般映画といっても、だいたいがブルース・リーのそっくりさん主演のチープなカンフー映画で、それゆえ今ではマニアがビデオを血眼で探す『ミラクルカンフー阿修羅』が上映されるミラクルも起きた(乙武くん主演のカンフー映画だと思ってください)。

 そのカンフー映画と同時上映で、なぜか上映されたのが『ガキ帝国』。大阪のキタとミナミで対立する不良少年たちの喧嘩ケンカに明け暮れる日々を描いたこの群像映画は、ハリウッド製の無駄にゴージャスな映画を遥かにしのぐ迫力。ATGの“一千万円映画シリーズ”の一本として制作されたこの超低予算映画は、地獄のような環境の映画館にはむしろジャストフィットで、「安い製作費でここまで面白い映画ができるんかスッゲー」と興奮してやまなかった。

 これで僕がそのまま映画監督になれば美談なのだが、そうはいかないところがアホでだらしない僕の本領発揮である。

 『ガキ帝国』とほぼ同時期、邦画界は在学中から16ミリ映画を撮っていた大森一樹や石井聰●、森田芳光らが俄然注目を浴びていた。ガキ同様、大森監督の『ヒポクラテスたち』、石井監督の『狂い咲きサンダーロード』、森田監督の『の・ようなもの』などにもドえらい感動でのたうちまわっていた僕は「低予算でも映画が撮れる」+「在学中でも映画が撮れる」=「映画の学校に行けば自動的に映画監督になれる」と、ワケのわからん数式を勝手に立ててしまったのである。

 彼らは口には出さないまでも、おそるべき努力の甲斐あってそうなったのであり、僕はその「努力」という肝心なポイントをまったく計算に入れていなかった。なんせそれまで努力ナドというものをただの一度もしたことがない人間である。受験勉強なんて1ミクロンもしたことがないし、運動部に所属する生徒に「なんで時給ももらわれへんのに汗かいてんのやろ」と考えるような怠惰男。アホだからゆえ運よくアノ大阪芸者大学にもぐりこんだものの、それからはもう、面白いようにくじけくじけ、くじけて果ててゆく。

 まず課題の映画を作るにはバイトをして資金を作らなければならないのだが、これがもうまるでつとまらない。

 大学に登校する前はスーパーマーケットの早朝アルバイトをやった。青果売り場に並ぶ古い野菜を前に出して、新しい商品を奥に押し込む。ただそれだけのことなのに、すぐにどっちが古いキャベツかわからなくなり、たまりかねた店長がゴボウを手にムチのようにしならせ僕の顔を打ちのめし、顔に赤あざで「X」の文字ができた(僕はこの時期をジェネレーションXと呼んでいる)。

 夏にゴルフ場を建設するバイトでは、あまりの暑さにまだ乾ききっていないコンクリートの地面に倒れ込み、キレイに僕の形の穴があいた。「ここはお前のブロードウエイとちゃうぞ!」と血相を変え、シャベルを手に手に追いかけてくる作業員から逃れるため、夜通しかけて下山。ショーパブで働いていた時はシャブ食ってるヤクザにこめかみに拳銃をつきつけられ失禁。唯一長くつとまるかと思った手打ちうどん屋では、店長の「明日から“大根おろしうどん”をはじめるから」のひとことで、店を去らねばならなかった(僕は大根おろしの匂いを嗅ぐと激しい頭痛がするのだ)。同期生がコンビニのバイトでレジを打ち間違い、煙草とパンを買う客に堂々と「198万円です!」と言ったと聞いた時は、「ああ俺よりアホがおった」と心底胸をなでおろしたものだ。

 そんな調子でヘろへろで大学に行くわけだが、学校は学校で好きな映画だけ撮っていればいいわけではなく、一般科目の授業も受けねばならないし、一応美大なので映像とは直接の関係はないポスターカラーで色彩構成する課題、ケント紙で立体構成する課題など宿題も山ほど出る。

 台本書かなくちゃ、絵コンテも書かなくちゃ、役者探さなきゃ、小道具作らなきゃ、誰か8ミリカメラ持ってるやついないか、露出失敗してフィルムまっくろけや! あぁもうバイトの時間、色彩構成の課題? なもんできっか! 

 とはいえなんとか絵の具ぐちゃぐちゃ塗りたくりスーパーカブの後ろに縛り、提出締め切りギリギリ3分前に学校に到着(当時、僕は大学までスーパーカブに乗って、片道1時間半かけて通っていた)。さー、教科室へダッシュ! と振り返れば、荷台に縛っておいたはずの知らぬ間に課題が風に飛ばされて、ナイ……。スピードを出しすぎたのがよくなかったのかと、今度は道路を30キロでのろのろ走っていると、いつの間にか34キロ出ていたらしく、白バイの暇つぶしに「4キロオーバー」(!)で捕まり、提出間に合わず、パー。

 サイクルの早さについていけない僕は、毎年留年候補。教授に土下座したり、学校中を掃き掃除したりして、なんとか留年をまぬがれた。映画監督になりたい、という夢は果てし~なく~遠く、すでに入口を見つけることすらどうでもよくなっていた。3回生の時に監督した映画で、当時好きだった女の子の部屋を借り、彼女のベッドを誤って踏み抜いてしまい破壊。蛇蝎の如く嫌われた僕は「失恋するならまだしも、ここまで嫌われてしまうなんて。映画ってなんやろ」と、なぜ自分がここにいるのかわからなくなっていた。加えて僕をこの学校に引きずりこんだ由因である香里東映が閉館。理由は「台風でぺちゃんこになったから」だという。

 4回生で、いっそ映画に別れを告げようと思い、『ガキ帝国』のオマージュ過剰な、そして「さっぱわややがな」な日々に意趣返しするつもりで『どつぼてんこもり』という80分ものの、主人公がひたすらどつきまわされるドラマ映画を撮った。審査員長の中島貞夫監督が「なんか知らんけど、えらい怒ってていいよ」と褒めてもらえたのが、あの学校で過ごした4年間のすべて。

 卒業後して10年以上たって、芸大の中に回転寿司屋がオープンしたことを知った。
「大学の中に回転寿司? 相変わらずアホな学校やなぁ」。そう思った。
 さらにそののち、回転寿司屋が閉店したと聞いた。理由は「寿司がすぐカピカピになるから」だという。もっとアホやった。なんか嬉しかった。
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[27]2005年01月07日 01:40.
未発表原稿


 10代の頃は8ミリ映画ばかり撮っていた。
 なんて書くと、まるで大林宣彦みたいでカッコよさげだが、別にそういうわけではな
い。ヒゲもはえてないし。
 大阪芸術大学の映像学科に通っていたので、授業で映画ばっかり撮っていた。ただそれだけ。

 高校の文化祭のクラスの演し物で、ラストシーンでヒロインが夕陽を見て「おわり」、みたいな日本の高校生なら誰しも3度は考えるであろうしょーもない8ミリ映画を撮り
(その後、ヒロイン役の同級生は夕陽を見つめすぎて視力が著しく低下)、「オレ、このまま映画監督になれるんじゃないか?」と、ああ勘違いしてしまったのだ。

 大阪芸大といえば、今でこそ中島らもや庵野秀明などソウソウたる文化人を輩出したことで有名だが、僕が入学した'84年は、有名人と言えば、デザイン学科からチェリッシュが(なんでまたデザイン学科でチェリッシュ……)、ほかに世良公則、時任三郎など、およそ授業で学んだ事を活かしたとは思えない、むしろ背を向けて自力でなんとかなった芸能人ばかり。

 そういえば『欽ドン!』のフツオ役で人気を博した長江健次が、一時期「大学進学の受験勉強に専念するため芸能活動を休む」と広言し、受験勉強をする姿のテレビ中継までやったりしておおいに話題になったが、その目指した大学ってのが大阪芸大。そうそう、長江健次と一度だけ学食で隣り合わせになったことがあった。普通にメシを食ってるだけで「な!」とは言わなかった。あれは普段は言わないんだな。

 しかし当時「大阪芸者大学」と揶揄されることもあったこの大学は、芸能活動を休止して受験勉強に励んでまで入るような大学ではなかった。おはな、とか、おうち、とかケーキとかイチゴとかアメちゃんとかドラえもんとか巻きうんことか、そういう絵をうまーいこと描けるかどうかレベルで合否が決定するのだ(巻きうんこを描く時は、ほかほかの湯気を忘れんなよ!)。

 いや、ここで誤謬を正す必要がある。まるで「アホの子が受ける大学」みたいに思われるかもしれないが、断じてそうではない。日大芸術学部に並ぶ設備を有したこの大学(あくまで音楽学科のみだが)、僕の受けた映像学科も名だたる有名高校から受験に挑む者は多数。NHK主催の映像コンテストで高校時代にグランプリを獲得しているツワモノもいた。入学試験が終って他の受験生たちと食堂で茶をすすりながら話を訊いていると、あまりに煌々しい周囲のキャリアに思わず勃起したものだ(なんで!)。

 ところが、こいつらがなぜかことごとく落ちるのである。面接で学歴や褒賞や内申書に囚われない芸術的センスを見抜いたのだろうか。いや、たぶん教授たちが「こんなごっついのんに来られたら授業中ムズカシイ質問されてかなわん」と思ったのだろう。当然、合格した者は選りすぐりのアホ精鋭陣。そう、大阪芸大は「アホしか入ることができない、選ばれし者が行く大学」なのだ。

 難関かいくぐったアホのコマンドー部隊なので、毎日が、かつて経験した事のない感動の連続だった。

 映像学科なのに、かつて観た映画は『ランボー』一本のみという自称映画マニアもいたし(よほど感化されたのか常にナイフ携帯)、日本の都道府県は岡山と大阪と東京と土佐県しか知らないやつもいた(土佐県とは、どうも高知県のことらしい)。

「俺は音楽に詳しい。ブームタウンラッツから島津ゆたかの『ホテル』まで聴いてる」というのでそいつの家に行ってみたら、その2枚しか持ってなかったり、ことあるごとに
「あたしパンジーの北原佐和子と知りあいよ」というよくわからない自慢のみで優位に立とうとする女がいるかと思えば、「滋賀の守山でボクのこと知らないやつはモグリだよ」と、モグリでおおいに結構な自慢で対抗する男がいたり、なぜか野良犬を出くわすと必ず「甘えんな!」と激昂し腹を蹴りあげるやつなどなど、ひとりひとネタ持っていた。

 団地に囲まれた郊外の、ビーバップハイスクールを気弱にしたようなプチ・ヤンキー高校で育った僕は、それまでのアホサイズが画一的だったので、毎日がサファリパークに通っているように楽しかった。卒業後、同期らにこの話をしたら「定期代を浮かすために1日往復4時間もかけてスーパーカブで通学してくる、ドカジャンに長ぐつ、角刈りのお前も相当なもんやった」、と言われたが。

 そんな連中が集まって課題の映画を撮るわけだから、一筋縄ではいかない。まず、とにかく揃いも揃ってプアである。

 大阪芸大は学費が高く、すねを噛るのは学費だけで精一杯。課題資材費はすべてアルバイトでまかなわなければならい。実家から通う僕ですら大変なのに、多くを占める地方出身者は下宿代も食費も稼がねばならない。ビデオデッキを買う金がないので、テレビで放映する洋画を毎週「録音」してるやつもいたし、下宿生は近くの小学校のニワトリを盗って、その場で瞬時にさばいて食っていた。2畳の部屋に住んで、毎晩体育座りで寝てるやつもいた。そんなだから映画の制作資金がないのだ。

 バカ高い学費は、まるでカースト制度のように音楽学科のみにあるエスカレーターの管理費と、1年に1回しか公開されない大学自慢のパイプオルガンのメンテナンス費、大学図書館の最上階で安置されているというウワサの故・学長の冷凍保存費などに充てられていた。メンデルスゾーンみたいなパーマをあてた音楽学科の生徒を見ると「そのクリ~んとしたパーマあてる金はわしらが払っとんねん!」と何度、学舎の壁を噛った事か。

 課題に使うフィルム、プリント代、衣装、小道具など当然自腹。学科には本来あって然るべきカメラも編集機もない。なんせそれ以前に教室がない。授業は空いてる教室をその時その時に探して流浪する。授業のたびにゲルマン民族の大移動さながらの様相を呈していた。

 みな小さな脳みそながら、撮りたいテーマや絵を温めてきた。いい映画を撮りたい。のだが、なんせ50円のアイスキャンディーの借金がもとで掴みあいの喧嘩になる惨状。とにかく全員バイトバイトバイト。焼き芋屋のアルバイトを見つけた者は、残った芋をスライスして干し芋を作り、さらに売り歩いた(そいつの家に行ったら壁が一面ペイズリー柄なので驚いた。全部干し芋だった)。某有名牛丼店で働いていた者は、スタッフルームにしていた下宿生の家に冷凍肉の板をこっそり持って帰って来てくれた。さぁ、肉だ! 今夜はすき焼きだ! と切り分け、具を鍋に入れ火をつけたら、途端に猛烈な薬品臭がもうもうとたちこめ、全員目が開かなくなった。あの肉、あんなにクスリ漬けだったとは。どうりでケミカルな味でウマイはずだ。映画制作と授業とバイトで息もつけない僕らは、みな疲弊しきっていた。

 そして、ついに疲れがピークに達した。

 シーン36「殺人現場」。

 部屋には血みどろの男が倒れている。ハズなのに血のりがない。
「あれ、血のりは?」「さっきまでそこにあったで」
 どこを探しても見つからない。そしてスタッフがひとり、いなくなっていることに気が付いた。

 そいつは外でうずくまっていた。
「ごめん」。そう力なくつぶやいた口からは、血が流れている。
「ど、どうしてん、お前! 怪我でもしたんか?!」
「……血のり、飲んじゃった……」
 血のりはコーンシロップに赤絵の具を混ぜて作るとイイ感じのとろみが出る。そいつは空腹と疲労のあまり、甘いコーンシロップ入りの血のりをたまらず飲みほしてしまったのだ。

 そして、他のスタッフが思わず言った言葉が、さらに惨劇に拍車をかけることに……。
「血のり、おいしかった?」
.
[28]2005年01月09日 02:36.
未発表原稿


 ……前のエッセイを読んだ方は、「なんだかんだ言いながら4年で大学を卒業したならいいじゃないか」と思われたことだろう。

 が、実はそうではない。卒業制作に提出した映画が好評だったにも関わらず、んなもんなんも温情につながらない一般科目の英語1単位を落として留年。あともう一年、週一回の英語の授業を受けるためだけに大学に通うハメになる。

 英語は今でこそパイナップルとかマヨネーズとかT-BOLANとかプッチモニとかペラペラ話せるバイリンガルだが、大学時代はことあるごとに英語に足を引っぱられた。

 なぜ、ぐうたら食っちゃ寝の僕が、単位が危うくなるほどバイトに明け暮れねばならなかったか。映画制作の予算を作るため、というのはあくまで理由の半分。実は英語でエライ目に遭っていたのだ。

 高校を卒業したばかりの僕は、大学に合格した安心感から空中浮揚なみに浮かれきっていた。大学に通えば自動的に、おっと、オートマチックに映画監督になれるもんだとばかり思っていた僕は、「角川映画を撮る話が来たらどうしよう」などと、天と地とがひっくりかえっても起きえない、ヤスが階段落ち頼まれて「ふーん」って言うほどありえない、いらぬ心配さえしていた。地球は僕のために廻り、月は僕のためにつねに満月だった。

 そんな藤原鎌足チックな気分に浸りきっていた春休み。一本の電話がかかってきた。聞き覚えのない女性の声。
「智樹ク~ン。今なにしてんの?」
 その声は、憧れのジョ、ジョシダイセーッ的な色気をたたえた、けだるい午後には前をはだけた男物のYシャツ姿で唇をいやらしくなめているに違いない甘ったるい声。
「いや、なにて……特になんも……」
「あたし、誰だかわかる?」
「いえ、わかんないす」
「そう。でも智樹クンが私のこと知らなくても、あたしは智樹クンのこと、知ってるの
よ。ずっと見てたんだから~」
 心臓ボーン! ちんちんキーン! 

 高校時代、好きな女の子から「吉村くんはうちの庭の石に似てる」と言われたことはあっても、決して好かれることなどなかった僕のことを、蔭で見ていてくれた女性がいたなんて。ちんちんキーン!(おもんないからもういいって)。さらに彼女は天にも舞い上がるような嬉しいことを、僕の耳元に、鼓膜に、三半規管に熱い吐息を吹きかけながら囁いた。
「ねえ。会わない? 明日空いてないかしら。いっしょにお茶でも飲もうよ。いろいろお話しましょ」
「ええ! ……は、はひ」
「じゃ、明日のお昼3時に梅田の第3ビルの前で待ってるわね。会えるの楽しみにしてるわ。智樹クン」

 アモーレアモレミーヨ! 憧れの、年上の、しかもヤラシ~イお姉さんといっしょ! 十五、十六、十七、ついでに十八と人生暗かった僕の夢も大学生活とともに花開くんだ! で、でも俺、童貞なんだけど、うまくリードできるかどうか……。
 またまた余計すぎる心配に胸たかぶらせるのに大忙しで、彼女が最後に言った言葉を怪訝に思う余裕などなかった。
「あ、それから智樹クン。来る時は印鑑持ってきてね」

 ちょっと知的に見せるために、胸に万年筆なんか差して約束の場所へ。そこに立っていたのは、スマートで清楚な感じの女性。頭に描いていたイメージとは随分違うが、想像していたより遥かに美人! 彼女にエスコートされるままビルに入った。

 連れていかれたのは、誰もいない、だだっ広いオフィス。あれ、想像と違う……。彼女は紙コップのコーヒーをふたつ持ってきた。お茶って、これのこと……。
「智樹クンって映画の学校行くんだ。かっこいいね」
「なんで知ってるんですか? 僕のこと、どうして知ってるんですか?」
「智樹クンのことなら、なんでも知ってるわよ。うふふ」
 キャ、キャワヒイ! この人、見れば見るほどキレイだ……。しかも、いい匂い。
ぽ~。コーヒー、ズズー。

「ねえ智樹クン。洋画好き?」
「はい!」(実は興味ない)
「洋画を字幕読みながら観るのってダサイと思わな~い?」
「イエッサー!」
「実は、とってもいい教材があるの。これは毎日15分ヒアリングするだけで、3年間で英語がペラッペラに話せるようになるのよ」
「たった15分すか!」
 ペラッペラの「ペ」と「ラ」の間に、彼女は確かに唇をなめたのを見逃さなかった。それから僕は桃源郷を彷徨い、恥丘を七回半まわったのである。

 そして遂に決定打が撃ち込まれた。
「1ケ月やってわからないところがあったら、個人授業してあげるわよ」
「だ、誰がですか?」
「あ・た・し・が」
 ちんちんキーン!(もういいっちゅうねん!)
「さぁ、ここに印鑑押しましょうね」
「は~い」

 この印鑑こそが地獄への接吻のプロローグだった。
 届いたテープは、外人の男女が好き勝手に会話していた。わからないところ以前に全部わからない。そして冷静になってやっと、説明を受けたはずの月賦のリアリティが重くのしかかってきた。プログラムは3年で終了するが、支払いは4年続く。計71万2000円。毎月8千600円、これだとアルバイトをすればなんとか払えるが、年に2回のボーナス月の「4万6千円」が果たして自分に払えるのだろうか。そもそもなにが「ボーナ
ス」だというのか。

 それでも「1ケ月後のHな個人授業」を信じてクリーング・オフしなかった僕はアホというよりバカでしかない。1ケ月後、これだけを心の拠り所に、以前のオフィスに電話してみた。すると、
「おかけになった電話番号は、現在使われておりません。おかけにな」 切った。
 会社がなくなってる……。

 ただ月賦だけはクレジット会社の手にに渡り、生きている。支払いが滞ればただちに督促状、催促の電話の嵐。
 結局、「本編」の英語の授業など出られないほどバイトに追われ、最後まで英語はアイムソーリーバットアイドントノー(これは憶えた)。一日15分なんて聞くと簡単にできそうだが、人間興味がないことは30秒もできないもの。まぁ、英語の授業のさぼりをテープに責任転嫁できてよかったとも言えるが、高い授業料、高くついた女だったゼ。

 ボーナス月の支払い日に、バイトの給料をもらった。給料4万7千円。銀行に振り込むと、振込手数料まで取られて、何枚かの小銭が残った。その金でラーメン食った。明日からどうしようと痛む胃をさすりながら食うラーメンは、涙に似た塩味がしてうまい。だから、ラーメン大好き。
 なんやそれ。
.
[29]2005年01月11日 00:51.
未発表原稿


 英語1単位のみ落として留年。

 両親にそれを告げた時、父親は白目を剥いて痙攣した。母親はテレビの上に置いてあるこけしを「おー、よちよち」とあやしはじめた。ショックのあまり退行現象が起きてしまったのだ。

 それもそのはず、僕が留年を知らされたのは、なんと卒業式の日。しかも就職は決まっていた。家族の誰もが卒業できるものだと安心しきっていたのだ。

 それまでの4年間、僕は金銭面で両親に迷惑をかけっぱなしだった。

 学費はもちろん、映画の製作費、騙された英会話のカセットの月賦、さらに僕は自動車教習所を24回も落ちたうえに、期限が切れて退学になっている。その追徴金を何度無心したことか。もともと無いすねを噛りすぎて、両親の足はケンタッキーの食べカスみたいになっていた。いつか返す、必ず返すと言いながら、借金を返せるようになったのは35歳になった今やっと。僕があまりに金がかかる息子だったため、弟は大学進学を断念(それがしこりになって、この10年間でたった一度しか会っていない。お互い何をしているかも知らない)。まったくナチュラル・ボーン・迷惑な存在だった。
 それなのに、ああ、それなのに。

 両親は「卒業式だのに、いつも着ている高校時代の毛玉まみれジャージでは」と、洋服の青山でスーツ一式を揃えてくれた。傍目にはなんだかよくわからない学校だけど、や
っと卒業するならええじゃないか。そう思って息子に一張羅を着せて送り出してくれたのだ。

 卒業証書授与。
 クラスメイトの手に次々に証書が手渡される。4年間寝食ともにして顔も見飽きたはずのこいつらとも、今日でお別れだと思うと寂しいものがあるな。あぁ記憶が走馬灯のように蘇る。「アイスキャンディー代50円返せ!」 「50円返せ!」 「50円!」 そうやって胸ぐらつかまれた記憶だけが、なぜかくるくる蘇る。蘇る。よみがえ……
 あれ? オレの名前、飛ばされなかった? 証書、飛ばされてるよ俺。やだもー先生。しっかりしてよー。

「ええと吉村くんは……留年、してますね」

 ガビーン。
 いや、そんなコミカルな効果音鳴らしてる場合じゃない。 リューネン、聞いてないって! リューベン&カンパニーなら知ってるけど。薔薇の嵐。和製ベイ・シティ・ローラーズ。

 僕はすでに印刷会社の営業マンとして就職が決まっていた。
 大阪芸大の映像学科は戦慄を憶えるほど求人がない学科である。就職課の掲示板には見事なまでに映像とは無関係の2業種しか並んでいなかった。ジュースの配送とコーラの配送、そのふたつである。そもそも映像関係の業者に入社しようと思えば、2回生から制作会社にバイトで入り、そこで鍛えられた者が卒業と同時に社員になるのがノーマルパターン。

 当時、僕はテレビの制作会社でバイトしてるやつらが、学生の分際で揃いも揃ってト レーナーやセーターを肩から廻して胸元で結ぶ「業界結び」をするのがイヤだった。なかには暑いのにランニングシャツの上からトレーナーを巻いたり、肩だけでなく腰にも巻いたりして、後ろから見たら連凧みたいになっているのもいた。

 そういうのがいやで気持ちが映像職から離れ、卒業生の中島らもさんがそうしたように僕も印刷会社を選んだのだ。もっとも印刷会社も人気職種で、30社近く落ちてやっと2月に天満にある小さな印刷会社に拾われたのだが。

 4回生で留年する場合、就職が内定している学生が多いので、追試の結果を鑑みて直ちに対策を練るのが普通だ。内定者を留年させたとなると、大学の責任を問われるからだ。

 しかし大阪芸大は、専門の学科と一般教科の成績集計が別ルートというヤヤコシカルな大学でで、専門の学科をオールクリアすると一般教科が落ちていても気がつかないミスが起きる。英語の追試の結果が悪かった僕にすべて原因があるが、この追試の結果を把握している人が卒業式まで誰もいなかったのである。

 いったい、僕はどうなるんだ! 卒業式にそんなこと言うなんて。結婚式当日にプラカード持った新婦に「結婚、ウソ。どっきり。だーいせいこー」って言われてるようなもんじゃないか! 青山のスーツ代は! しかも就職決まっているのに。内定を貰ってから社員の方々にナベをご馳走になっているのに。めっちゃうまかったのに。2月にコート着て就職活動してるアホを拾ってくれた恩ある社長に、今さら「落ちましたよ~ん」なんて言えない……。

 そこで英語の女教授のところに直談判しに行くことにした。
 かつて教授に土下座をし、丸ごと山ひとつある広大な大学のゴミを拾って留年まぬがれたことがある僕だ。大学のある富田林市のドブ全部さらう覚悟だった。そもそも試験の点数が悪かった僕も悪いが、それを学科に伝えなかったお前も同罪だ。お前は隣の河内長野市のドブをさらえ! 住所を教え渋る学生課に土下座して、勇んで女教授のアジト(ていうか家)に乗り込んだ。

 しかし、そんな目論みはベリィ甘かった。
 英語を教えているだけあって、日本式に情に訴えても、まるで通じない。就職のことをせつせつと話す僕に「シャラップ! ファッキン! ゴーホーム! コックローチ!」とドでかいテディベアをぶつけ、ソルトをまいた。すべては終った。就職もこれで散るアウト……。

 しかし、拾う神は、2度もこんな僕を拾ってくれたのである。痙攣の止まらぬ父、こけしにミルクを与える母を背に、震える手で内定の決まった印刷会社に電話をかける。社長が出ては「あっ、出たー!」と切り、それを何度も繰り返し、やっと震えが収まり、事の顛末を説明することができた。
「カクカク&シカジカでこんなことになりまして本当に申し訳ありません。御社でいただいたナベの味、一生忘れません。のちほど改めてお詫びに伺います」
「留年……か。どれほど単位を落としたんや」
「1単位です。週一回の授業です」
「週に一回やったら、勤めながら学校に通ったらええがな」
「ええ!」
 内定を蹴って頭から何度も氷水をかけられた者もいたのに、僕はなんと「就職しながら通学する」ことを許されたのである。

 その日から僕はめでたく、会社に出社しタイムカードを押してから大学に通う「学生サラリーマン」になった。“逆ベンチャー大学生”である。

 スーツ姿で学バスに乗ったり教室にいると痛いまでに奇異の目で見られ、話しかける者もいなかったし、教授も僕を見て見ぬふりした。僕はむしろこれ幸いと会社の厚情に報いるべく授業中に見積書や印刷発注書を書きまくった。仕事ははかどり、定期もサラリーマンなのに学割。よいことづくめだ。これ、おすすめ。

 すすめてどうする。
.
[30]2005年01月13日 01:51.
未発表原稿


 あるときはサラリーマン。またあるときは学生。しかしてその実態は、「サラリーマン兼学生」。そんな“空中セーフ”な生活がはじまった。

 しかし「学生気分が抜けない」とは、まさにこのこと。(なにしろ学生なのだから)。僕の仕事ぶりは、それはそれはロクなもんじゃねぇ、ものだった。

 実は会社には留年したことはカムアウトしたものの、自動車学校の修検を落ちまくったすえに期限切れで放校処分になっていたことは、まだ白状してなかった。怖くて言えなかったのだ。言い出せなくて……夏(夏じゃないけど)。

 印刷会社の営業マンの大きな仕事に「納品」がある。何万枚ものチラシの束や、身の丈ほどもある製版フィルム、少しでもヨレると補償問題に発展する航空写真の返却などなどとうてい電車や自転車で運べるものではない。印刷会社に勤めるということは、すなわち車に乗ること差す。それが「掟」だ。それが「世界標準」だ。車に乗れない者など昆虫でしかない。大学を卒業していないのは5万歩退いて許せても、自動車学校を卒業していない者は、パンチパーマじゃない会沢会長くらい、意味がない存在なのである。

 隠しおおせるはずもなく、僕は先輩社員の運転する車の中で、「実は免許がないんで
す」とコクった。

 すると、先輩社員の顔は見る見る青ざめ「このドキドキは、なぜ止まーらーない!」と13年後にリリースされる松浦亜弥の歌詞を叫び、高鳴る動悸を抑えられずスピンした。
「君! そ、それは社長には言ってないだろうね」
「はい、まだ」
「まだじゃない。絶対に言うな」
「わかりました」
「なんで試験を受け直さなかったんだ」
「いつもウインカーを出す時、間違って洗浄液出しちゃうんです。それで教官が怒って
『お前はカ■ワか!』って怒鳴りながら僕を竹刀でぶつんです。それがトラウマになっ
て」
「なに? カタ■? う~む。なんと言えばよいやら。君、仮免許くらいは持っているんだろう?」
「はい。なんとか第3段階まではこぎつけたので」
「見せなさい。君ッ、これあと3日で切れるじゃないか! なんで早くこれを持って試験場で“飛び込み”をやらなかったんだ!」
「飛び込みですか? 車に飛び込んで金をセビるんですか?」
「それは当たり屋だ。君は本当に知らないのか。仮免許を持っていれば、試験場で“飛び込み”で合格する率が高いのだ。しかし、あと3日間か……。これは賭けだ。新入社員にはあるまじきことだが、いたしかたない。君、明日にでも病欠したまえ。そして飛び込むんだ。飛べ! そして込め!」
「ラジャー!」

 そして新入社員いきなりまさかの病欠体制で門真の試験場に「飛び込み」。そして運転席に飛び込み、停止線を越えて横断歩道に飛び込み、落ちた。仮免許持ってて落ちるやつは珍しいらしい。あの中嶋悟でも、この記録は持ってないだろう。

 続いて、2日目。落ちた。

 さらに3日目。教官の「もう車に乗らんって約束するか?」の言葉とともに、仮免許が切れる最後の一日で、遂に運転免許を獲得した。灼熱のデッドヒートで、僕はついにGPを獲得したのである。

 そんなドラテックだから、毎日がパリダカにエントリーしているようなもんだった。
 当時流行っていた、やたらケツのデカいミニバイクにキッスすることしょっちゅう。サイドブレーキを引っぱったまま黒煙撒き散らせて走ったり、後ろに積んだ紙の重さにハンドルを取られ、高速道路の路側帯に突っ込んで激突。タイヤぷらぷらになったまま納品に行ったり、高速道路の入口の傾斜でバンのバックドアが開き、肉の大安売りの宣伝チラシが大量に流れ出して大渋滞。思いっきり肉屋の宣伝に一役買ったことも。そういえば丸一年、自分の営業車の右ウインカーランプが切れているのに気が付かなかったなぁ。

 しかし、それらはあくまで「自動車部門」の例で、僕の使えなさサンプルは、普通に歩いていればいくらでもピックアップできた。

 僕の担当は主にリクルートの大阪各支社。『B-ing』『とらばーゆ』『フロムA』などに載せる求人広告を企業に促すためのダイレクトメールを受注し、デザインから印刷~納品まで管理することだった。

 担当者が仕事よりマニキュアを塗ってフーフーするのに忙しい女の子だと「今度のDMの刷り色はいかがいたしましょう」「ん~とね。めちゃカワイイ色」「カ、カワイイ、ですか。めちゃ、ですか」「そう。めちゃ。めちゃカワイイのお願いね」と抽象的なことを言われる。仕方なく僕が可愛いと感じ選んだ色で刷り上げて持っていくと「これ、カワイクなーい。お金払えないーん」とクレームつくことはしょっちゅうだった(なんでも蛍光ピンクにしたかったらしい。特色印刷ナンボかかると思ってんねん!)。

 そんなのは僕のせいじゃない、と開き直れることもできる。しかし問答無用の失敗もあった。
 ダイレクトメールは、発送する枚数によってハガキの「差出局名/料金後納郵便」印部分のデザインが違う。必ず発送枚数を確認して、それにあったデザインのものを印刷しなければならない。でないと料金後納が無効になり、何千枚、何万枚もオバちゃんたちの内職で切手を手貼りせねばならない。郵送料金の割引対象にもならないうえに人件費が上乗せされ、スポンサーは大損害を受ける。印刷の営業マンは、「ベッドで恋人の名前を間違えて呼んでも、これだけは間違えるな」という鉄則がある。 

 で、やっぱりボカァ間違えるわけだ。
 出社すると同時に、コントみたいに受話器をストンピングさせて、リクルート某営業所の課長から血沸き肉躍る電話がかかってきた。
「吉村出せ! 吉村出せ!」
 別に課長は僕にチンポを出せと言っているわけではない。僕自身が電話に出てるのに、気が付かないほど怒り、激昂しているのである。
「今すぐ来い! 吉村出せ!」
 出てるっちゅうねん。

 僕は痛む胃をさすりながら営業所に向かった。
「お前、我が社にどれほどの損害を与えたかわかっているのか」
「はい。申し訳ありませんっ」
「どうするんだ。どーすんだ。どうよ!」
「印刷費をすべて無料にいたします」
「それだけか。それだけなのか。だけなのか」
「上司と補償の相談をして参ります」
「当たり前じゃ。お前はどうするんだと訊いてるんだ」
「ぼ、僕がですか?」
「当たり前だ。お前の責任だろう」
「ですから早速、上司と補償の相談を」
「そんなんどうでもええんじゃ! お前をなんとかしたいねんワシは。そや、そこにあるアレに水入れて、一日中廊下に立っとけ!」
 なんと僕は小学校以来、「バケツを持って廊下に立たされるサラリーマン」になったのである。

 水の重みで両手は痺れ、とはいえ手を離したら今度はどんな罰が待っているや知れん。
 社員の女の子が、廊下を通り際に、課長に見つからないように僕の口にそーっと押し込んでくれたミルキーの甘さが、いまだに忘れられない。
.
[31]2005年01月15日 05:05.
1999 『廃本研究』に書いた原稿


 吉祥寺に「大鮨」という寿司屋がある。
 テレビの情報番組のトピックコーナーの「珍グルメ特集アッと驚くビックリ寿司屋」なんてのがあれ="letter-spacing:0px;"/>
 僕の担当は主にリクルートの大阪各支社。『B-ing』『とらばーゆ』『フロムA』などに載せる求人広告を企業に促すためのダイレクトメールを受注し、デザインから印刷~納品まで管理することだった。

 担当者が仕事よりマニキュアを塗ってフーフーするのに忙しい女の子だと「今度のDMの刷り色はいかがいたしましょう」「ん~とね。めちゃカワイイ色」「カ、カワイイ、ですか。めちゃ、ですか」「そう。めちゃ。めちゃカワイイのお願いね」と抽象的なことを言われる。仕方なく僕が可愛いと感じ選んだ色で刷り上げて持っていくと「これ、カワイクなーい。お金払えないーん」とクレームつくことはしょっちゅうだった(なんでも蛍光ピンクにしたかったらしい。特色印刷ナンボかかると思ってんねん!)。

 そんなのは僕のせいじゃない、と開き直れることもできる。しかし問答無用の失敗もあった。
 ダイレクトメールは、発送する枚数によってハガキの「差出局名/料金後納郵便」印部分のデザインが違う。必ず発送枚数を確認して、それにあったデザインのものを印刷しなければならない。でないと料金後納が無効になり、何千枚、何万枚もオバちゃんたちの内職で切手を手貼りせねばならない。郵送料金の割引対象にもならないうえに人件費が上乗せされ、スポンサーは大損害を受ける。印刷の営業マンは、「ベッドで恋人の名前を間違えて呼んでも、これだけは間違えるな」という鉄則がある。 

 で、やっぱりボカァ間違えるわけだ。
 出社すると同時に、コントみたいに受話器をストンピングさせて、リクルート某営業所の課長から血沸き肉躍る電話がかかってきた。
「吉村出せ! 吉村出せ!」
 別に課長は僕にチンポを出せと言っているわけではない。僕自身が電話に出てるのに、気が付かないほど怒り、激昂しているのである。
「今すぐ来い! 吉村出せ!」
 出てるっちゅうねん。

 僕は痛む胃をさすりながら営業所に向かった。
「お前、我が社にどれほどの損害を与えたかわかっているのか」
「はい。申し訳ありませんっ」
「どうするんだ。どーすんだ。どうよ!」
「印刷費をすべて無料にいたします」
「それだけか。それだけなのか。だけなのか」
「上司と補償の相談をして参ります」
「当たり前じゃ。お前はどうするんだと訊いてるんだ」
「ぼ、僕がですか?」
「当たり前だ。お前の責任だろう」
「ですから早速、上司と補償の相談を」
「そんなんどうでもええんじゃ! お前をなんとかしたいねんワシは。そや、そこにあるアレに水入れて、一日中廊下に立っとけ!」
 なんと僕は小学校以来、「バケツを持って廊下に立たされるサラリーマン」になったのである。

 水の重みで両手は痺れ、とはいえ手を離したら今度はどんな罰が待っているや知れん。
 社員の女の子が、廊下を通り際に、課長に見つからないように僕の口にそーっと押し込んでくれたミルキーの甘さが、いまだに忘れられない。
.
[31]2005年01月15日 05:05.
1999 『廃本研究』に書いた原稿


 吉祥寺に「大鮨」という寿司屋がある。
 テレビの情報番組のトピックコーナーの「珍グルメ特集アッと驚くビックリ寿司屋」なんてのがあれ="letter-spacing:0px;"/> 僕の担当は主にリクルートの大阪各支社。『B-ing』『とらばーゆ』『フロムA』などに載せる求人広告を企業に促すためのダイレクトメールを受注し、デザインから印刷~納品まで管理することだった。

 担当者が仕事よりマニキュアを塗ってフーフーするのに忙しい女の子だと「今度のDMの刷り色はいかがいたしましょう」「ん~とね。めちゃカワイイ色」「カ、カワイイ、ですか。めちゃ、ですか」「そう。めちゃ。めちゃカワイイのお願いね」と抽象的なことを言われる。仕方なく僕が可愛いと感じ選んだ色で刷り上げて持っていくと「これ、カワイクなーい。お金払えないーん」とクレームつくことはしょっちゅうだった(なんでも蛍光ピンクにしたかったらしい。特色印刷ナンボかかると思ってんねん!)。

 そんなのは僕のせいじゃない、と開き直れることもできる。しかし問答無用の失敗もあった。
 ダイレクトメールは、発送する枚数によってハガキの「差出局名/料金後納郵便」印部分のデザインが違う。必ず発送枚数を確認して、それにあったデザインのものを印刷しなければならない。でないと料金後納が無効になり、何千枚、何万枚もオバちゃんたちの内職で切手を手貼りせねばならない。郵送料金の割引対象にもならないうえに人件費が上乗せされ、スポンサーは大損害を受ける。印刷の営業マンは、「ベッドで恋人の名前を間違えて呼んでも、これだけは間違えるな」という鉄則がある。 

 で、やっぱりボカァ間違えるわけだ。
 出社すると同時に、コントみたいに受話器をストンピングさせて、リクルート某営業所の課長から血沸き肉躍る電話がかかってきた。
「吉村出せ! 吉村出せ!」
 別に課長は僕にチンポを出せと言っているわけではない。僕自身が電話に出てるのに、気が付かないほど怒り、激昂しているのである。
「今すぐ来い! 吉村出せ!」
 出てるっちゅうねん。

 僕は痛む胃をさすりながら営業所に向かった。
「お前、我が社にどれほどの損害を与えたかわかっているのか」
「はい。申し訳ありませんっ」
「どうするんだ。どーすんだ。どうよ!」
「印刷費をすべて無料にいたします」
「それだけか。それだけなのか。だけなのか」
「上司と補償の相談をして参ります」
「当たり前じゃ。お前はどうするんだと訊いてるんだ」
「ぼ、僕がですか?」
「当たり前だ。お前の責任だろう」
「ですから早速、上司と補償の相談を」
「そんなんどうでもええんじゃ! お前をなんとかしたいねんワシは。そや、そこにあるアレに水入れて、一日中廊下に立っとけ!」
 なんと僕は小学校以来、「バケツを持って廊下に立たされるサラリーマン」になったのである。

 水の重みで両手は痺れ、とはいえ手を離したら今度はどんな罰が待っているや知れん。
 社員の女の子が、廊下を通り際に、課長に見つからないように僕の口にそーっと押し込んでくれたミルキーの甘さが、いまだに忘れられない。
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[31]2005年01月15日 05:05.
1999 『廃本研究』に書いた原稿


 吉祥寺に「大鮨」という寿司屋がある。
 テレビの情報番組のトピックコーナーの「珍グルメ特集アッと驚くビックリ寿司屋」なんてのがあれ="letter-spacing:0px;"/>
 担当者が仕事よりマニキュアを塗ってフーフーするのに忙しい女の子だと「今度のDMの刷り色はいかがいたしましょう」「ん~とね。めちゃカワイイ色」「カ、カワイイ、ですか。めちゃ、ですか」「そう。めちゃ。めちゃカワイイのお願いね」と抽象的なことを言われる。仕方なく僕が可愛いと感じ選んだ色で刷り上げて持っていくと「これ、カワイクなーい。お金払えないーん」とクレームつくことはしょっちゅうだった(なんでも蛍光ピンクにしたかったらしい。特色印刷ナンボかかると思ってんねん!)。

 そんなのは僕のせいじゃない、と開き直れることもできる。しかし問答無用の失敗もあった。
 ダイレクトメールは、発送する枚数によってハガキの「差出局名/料金後納郵便」印部分のデザインが違う。必ず発送枚数を確認して、それにあったデザインのものを印刷しなければならない。でないと料金後納が無効になり、何千枚、何万枚もオバちゃんたちの内職で切手を手貼りせねばならない。郵送料金の割引対象にもならないうえに人件費が上乗せされ、スポンサーは大損害を受ける。印刷の営業マンは、「ベッドで恋人の名前を間違えて呼んでも、これだけは間違えるな」という鉄則がある。 

 で、やっぱりボカァ間違えるわけだ。
 出社すると同時に、コントみたいに受話器をストンピングさせて、リクルート某営業所の課長から血沸き肉躍る電話がかかってきた。
「吉村出せ! 吉村出せ!」
 別に課長は僕にチンポを出せと言っているわけではない。僕自身が電話に出てるのに、気が付かないほど怒り、激昂しているのである。
「今すぐ来い! 吉村出せ!」
 出てるっちゅうねん。

 僕は痛む胃をさすりながら営業所に向かった。
「お前、我が社にどれほどの損害を与えたかわかっているのか」
「はい。申し訳ありませんっ」
「どうするんだ。どーすんだ。どうよ!」
「印刷費をすべて無料にいたします」
「それだけか。それだけなのか。だけなのか」
「上司と補償の相談をして参ります」
「当たり前じゃ。お前はどうするんだと訊いてるんだ」
「ぼ、僕がですか?」
「当たり前だ。お前の責任だろう」
「ですから早速、上司と補償の相談を」
「そんなんどうでもええんじゃ! お前をなんとかしたいねんワシは。そや、そこにあるアレに水入れて、一日中廊下に立っとけ!」
 なんと僕は小学校以来、「バケツを持って廊下に立たされるサラリーマン」になったのである。

 水の重みで両手は痺れ、とはいえ手を離したら今度はどんな罰が待っているや知れん。
 社員の女の子が、廊下を通り際に、課長に見つからないように僕の口にそーっと押し込んでくれたミルキーの甘さが、いまだに忘れられない。
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[31]2005年01月15日 05:05.
1999 『廃本研究』に書いた原稿


 吉祥寺に「大鮨」という寿司屋がある。
 テレビの情報番組のトピックコーナーの「珍グルメ特集アッと驚くビックリ寿司屋」なんてのがあれ="letter-spacing:0px;"/> 担当者が仕事よりマニキュアを塗ってフーフーするのに忙しい女の子だと「今度のDMの刷り色はいかがいたしましょう」「ん~とね。めちゃカワイイ色」「カ、カワイイ、ですか。めちゃ、ですか」「そう。めちゃ。めちゃカワイイのお願いね」と抽象的なことを言われる。仕方なく僕が可愛いと感じ選んだ色で刷り上げて持っていくと「これ、カワイクなーい。お金払えないーん」とクレームつくことはしょっちゅうだった(なんでも蛍光ピンクにしたかったらしい。特色印刷ナンボかかると思ってんねん!)。

 そんなのは僕のせいじゃない、と開き直れることもできる。しかし問答無用の失敗もあった。
 ダイレクトメールは、発送する枚数によってハガキの「差出局名/料金後納郵便」印部分のデザインが違う。必ず発送枚数を確認して、それにあったデザインのものを印刷しなければならない。でないと料金後納が無効になり、何千枚、何万枚もオバちゃんたちの内職で切手を手貼りせねばならない。郵送料金の割引対象にもならないうえに人件費が上乗せされ、スポンサーは大損害を受ける。印刷の営業マンは、「ベッドで恋人の名前を間違えて呼んでも、これだけは間違えるな」という鉄則がある。 

 で、やっぱりボカァ間違えるわけだ。
 出社すると同時に、コントみたいに受話器をストンピングさせて、リクルート某営業所の課長から血沸き肉躍る電話がかかってきた。
「吉村出せ! 吉村出せ!」
 別に課長は僕にチンポを出せと言っているわけではない。僕自身が電話に出てるのに、気が付かないほど怒り、激昂しているのである。
「今すぐ来い! 吉村出せ!」
 出てるっちゅうねん。

 僕は痛む胃をさすりながら営業所に向かった。
「お前、我が社にどれほどの損害を与えたかわかっているのか」
「はい。申し訳ありません、必ず取り上げられる有名な創作寿司の店だ。そしてリポーターが「うっそーマジー」と、お決まりの言葉を吐くメニューが“寿司パフェ“。ガラスの器に盛られたちらし寿司とアイスクリームコーンに詰められた手巻き寿司のセット。さらにパフェにはちらし寿司の下にプリンがしのばせてある。見るからにマズそうな寿司なのだ。

 僕は、かねてから「この店に行かねばならない!」と思っていた。僕はB級なもの、まぬけなもの、珍妙なものをが好きだ。しかし僕の好きなそれらは「天然もの」である。作り手はあくまで真面目で、そのあまりにひたむきな想いが世の中の潮流や嗜好にリンクできず、大きくハズしている。その浮かばれなさが醸し出す「まぬけ感」が好きなのだ。だから、この寿司屋のように初めからウケを狙った「けれん味」は、僕のまぬけ観の対極にあるもの。つまり敵だ。

 もしこの店に行って僕が少しでも「面白い」と思ったら、僕の負け。僕の感受性が鈍った証拠である。寿司パフェは踏み絵なのだ。そいうい意味でも、僕はいつかはこの店に行かねばならなかった。そして、遂に敵陣のアジトに乗り込んだ。そして、この踏み絵の前で、躊躇することになろうとは……。

 「いらっじゃゃいぃい」。
 オヤジはラジオのボリュームをMAXにしたような耳をつんざく怒声で迎えてくれた。 威勢はいいが客はひとりもいない。テレビであんなに取り上げられているのにこのザマだ。ザマミロと心の中で呟く。
「何握りましょ。まず、お客さんの手でも握りましょうか。ガハハハ」

 寿司屋だけに酢の効いたギャグを放つオヤジ。快楽亭ブラックを3倍に太らせたような真ん丸な顔。もう顔がコメディアンに変態を遂げている。

 メニューを見渡すと「インド人もビックリカレーちらし」「寿司クレープ」「グラタン寿司」「ホット寿司サンド」などヤな感じの“おもしろメニュー”が並んでいる。

「じゃあ、寿司パフェを」
「パフェすか! ようがす」

 しばらくして目の前に差し出された寿司パフェはマグロ、サーモン、甘エビ、イクラ、キャベツのマヨネーズ和え、厚焼きタマゴがたんまり乗っている。魚介の下はプリン。汁がメルトダウンしないようにネタとプリンの間にレタスが敷いてある。さらにこれにポッキーを刺す。
「お客さん、俺に似ててウレシイから今日はオマケだ」
 といってイチゴポッキーも刺してくれた。うん、嬉しくない。

 このパフェにトロ叩きの手巻きコーン、青のりとトビッコでカキ氷のシロップに見立てた酢メシ、これに赤ダシがつく4点盛りだ。テレビで見ていたよりずっとボリュームがある。

 すでに食欲はなくなっていたが、これは踏み絵なのだ。食わなくちゃ。まず赤だしをひと口。東京の寿司屋は単なる味噌汁を出し店が多いので、関西人には赤だしは嬉しい。
「!」
「どうしました、お客さん」
「これ、美味いですね……」

 驚いた。モノスゴク美味いのだ。海老の頭でダシを取ったこの赤だし、磯の香りが満ち満ちていて、今まで飲んだ何よりも美味い。

 動揺はこれに終わらない。パフェの上に乗ったブ厚いマグロ、サーモンの刺し身、どれもトロリとした味わいが甘く、身体の芯がぐらつく。
「どうですか。お客さん」
「フィール・ソー・グッド!」
 僕はダイヤモンドユカイのように親指を立てたが、内心、ユカイどころか気が滅入っていた。すっかり敵にまわしを掴まれている。僕は、僕は、そんなつもりで来たんじゃ。これを否定するつもりで訪れたのに。

「ネタ、いいでしょ。けさ井の頭公園の池で釣ってきたんですよ」
「はははは……はは」
「お客さん、卵焼きも食べてみてよ」
 ぷるんぷるんの厚焼きタマゴ。これがまた、悔しいけれどギャランドゥ。塩味がちょうどいいダシ巻。じゅわっと上品なおダシが染み出る。よくあるお菓子みたいなタマゴが苦手なので、これは誤算だった。
「お客さん、人生の味がするでしょ」
「え、どういう意味ですか?」
「『あんまり甘くない』ってね。ガハハハ」
 もはやオヤジのギャグなど遠くから聴こえてくる恍惚状態だった。このセット、たった1200円なのだ。プリンなど入れなくても十分ちらし寿司の松の味だ。いっそ、こんなフザケた演出やめたほうが……。

 そのあと頼んだ「すし餃子」が、これまた僕の腰を砕けさせた。ウニと甘エビと酢メシを餃子の皮で包んで焼いたものなのだが、皮の中で蒸し焼きにされたウニが、口に含んだ途端にぶわりと強烈な香りをほとばしらせる。生で食うより全然うまい。これはもはや“おもしろメニュー”を越えて、こういうものが定番であってもおかしくない。

 デザートにアイスクリームコーンに梅肉を塗ってくれた。
「紙芝居のオヤツ、思い出しましたよ」
「紙芝居! お客さん古いね。アタシはインターネット世代ですからガハッハハハ」

 ひとりしかいない客の前でギャグ連発。大熱演だ。それから、全然客が来ないこともあってオヤジとたっぷり話し込んだ。
 このヘンなメニューはマスコミのインタビューでは絶対答えないが寿司界を牛耳る上の世代への反逆だ、とのこと。寿司の権威が不明瞭な値段の付け方になった。まず権威を失墜させることが、寿司を庶民の元へ戻すことにつながる。だからちらし寿司もああいうふうにしている、と。ギャグモードから真剣モードに入ったオヤジは、イイ味の落語家の人情噺のようにしみじみ語った。
「なんか湿っぽくなっちゃいましたね。面白い話、しましょうか」
 そういって取材に来た石井苗子のカメラが回っていない時のエラそうな態度を身ぶり手ぶりで形態模写してくれた。これには本気で笑った。

 メニューだけ見たらヤな感じだったが、オヤジの話術と込みになると俄然、面白みが増す。寿司だと思うからイヤミに思えるのだ。この和洋折衷は初期米米クラブのライブのようなショックな楽しさ。米だけに(あ、オヤジのギャグがうつってる!)。つまりサービスしたくて仕方ないエンタテインメントなのだ。過剰なおもてなしは抵抗あるが、迷わず飛び込め、見る前に跳べ、ということか。

 しかし、この店を認めたら、他のおもしろメニューの店全部認めることになる。それはいやだ! これから、どうなるのか俺。
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[32]2005年01月17日 01:22.
1999 『廃本研究』に書いた原稿 その2


 いま『週刊宝石』からの依頼で、短期連載「東京と大阪、ここがこんなに違う」のブレーンをやっている。
 それにしても語り尽されたこのテーマ、まだやるか! というのが正直なところだ。大阪と東京の差なんて、もはや宗兄弟の髪の分け方、ジュディマリとヒスブルのボーカルの声、池内博之とプリンプリンの太ってる方の顔、くらいの差しかない。
 しかし、これはブレーン会議でも言わなかったことが、ただふたつだけ、決定的な差があるのだ。

 まずひとつ。「東京には、どうやっても“幸せにしかなれない”女」が現実に存在するということ。

 これは出会い系サイトで知り合った女性から聞いた話。彼女の友人が、もおンットすごいゴールデンラッキーなのだ。
 名前が恵子なので、仮にK子としておこう。K子は、とにかく中学時代から「男からプレゼントをもらってしまう」体質で、大学時代は洋服、食事、通学に使う車、すべて男からの献上品でまかなっていた。成績は並なのに就職もどこを受けてもコトゴトク受かってしまい(どんな一流企業でも受かってしまう)、どうして自分が採用されてしまうかわからず転職を繰り返す。希望した会社は全部採用されてしまうのでK子の職歴は会社四季報の優良企業を列挙したようなそうそうたるモノ。

 そしてK子は最後の職場に、自分が趣味だった陶器の絵付けができればいいと、ブランド洋食器メーカーに勤務する。そこはまるで「高給を貰ってカルチャースクールに通うような、気楽極まりない職場だった」という。就職してからも男たちのラブコールは一向に途絶えず、それどころか日に日に増すばかり。しかも優良企業に勤めていたので言い寄る男たちのプロフィールは、マスク、身長、家柄、学歴、貯金、趣味の良さ、そしてエスコートの優しさなどどこも申し分なく、とにかく彼女は「とりあえずみんな一旦Hして、無理にイヤなところを見つけて、お断りするのに忙殺された」という。

 いやなところといったって、無理に見つけているわけだからコジツケだ。鼻毛が一本出ていた、とかその程度のことである。そんな彼女だが、どうしても二人を一人にしぼれなかった。ひとりは高級外車メーカーを自営する青年実業家S。もうひとりはクルーザーを販売する、同じく青年実業家O。彼女はなんと、すでにふたりからベンツとクルーザーを進呈されていた。そして、ふたり同時にプロポーズされてしまった。K子にとって何の不服もないふたりを、どちらか選ばなくてはならない。K子にとって人生初めての岐路に立たされたのだ(なんちゅう恵まれた選択肢!)。

 K子は考えた。ふたりに条件を出そう。これを飲んでくれたほうにOKを出そう。かぐや姫作戦だ。

 その条件とは
・生活のすべてにおいて趣味を優先していい
・夜遊びを許すこと
・朝はニガテなので朝食はあなたが作る

 彼女の作戦は失敗だった。
 ふたりとも返事は「喜んで!」そこで彼女は消去法を取った。Oの趣味は釣りだ。
 釣り、魚、……「なんかクサそうでイヤ」。
 しかしHテクはOのほうが若干上回っている。そこでK子はSと結婚して、Oとは「たまにHする」ことに決める。

 この選択は、まったく正しかった。結婚してK子がまず驚いたのは、Sの両親が結婚祝いに「土地付きの3階建ての家」をプレゼントしてくれたこと(しかもアトリエつき)。 さらにその家がある品川は、勤務地から歩いて10分の距離だった!(でもベンツで行く)。会社をやめ、同じ会社のアドバイザー的存在になった彼女は、アドバイザー料として給料は以前の倍になり、好きな時に行って好きな時に帰っていいという、ますます「遊んでるも同じ」状態に突入。朝はSが腕によりをかけた朝食の香りで目覚め、夜遊びをたっぷりし、ちょっと昼にシタくなるとOを呼び出す。
 夜はSに、料理を作るのがメンドくさいのでお茶漬けを出すと「接待でこってりした料理が多いから、こういうのが嬉しいよ。マイ・リトル・ラバー」と感謝されこそすれ顔射されず。

 こんなK子に待望の赤ちゃんが誕生した。ところがK子、一か月で子育てに「飽きた」ので、実家に預けてしまう。すると実家では「毎日、孫を抱かせてくれるなんて、なんて親孝行なコだろう」と、「良妻」のハンコをもらってしまうのだ。

 僕はこの話を聞いて、驚いてケツから小腸が飛び出てしまった。僕のこれまでの33年間など、彼女の幸せの3時間分にも満たないではないか。そして飛び出た小腸を掻き集めながら、そんな非の打ち所のないシアワセ、どうしても納得できなくて、こう切り返した。「この不景気に外車メーカーなんてヤバイに決まってる。そんな幸せ、今だけだよ」

 ところが、不景気で家をあきらめた人が「車なら買える」と殺到し、さらに円高もあってますます大繁盛なのだそうだ。東京には、このように、どうやっても、どう転んでも、どうあがいても、どう見繕っても幸せにしかなれない星の下に生まれた女が存在するのである。

 さて、もうひとつの東京と大阪の違い。それはマクドナルドを「マック」と呼ぶのは有名だが、松屋は「マッツ」と呼ぶのだ。
.
[33]2005年01月19日 14:45.
2003.12 『BREAK MAX』に書いた原稿

 *これもまた、阪神大震災が生んだひとつのドラマでは


 日々続々と現れ、我々の目を楽しませてくれる巨乳グラビアアイドル。しかし、「アタシ、胸が大きいからグラビアアイドルになりた~い」と志願してこの巨乳界に入ってくる娘は少ない。
 
 乙葉はシンガーソングライターになりたかった。MEGUMIはソウル歌手になりたかった。スカウトされた小池栄子は、なんらかの想い出ができれば芸能界を辞めてもいい、という軽い気持ちだった。優香に至っては、スカウトマン自身ですら水着のプロフィール写真を撮影するまで胸の大きさに気付いなかったほどノーマークでのデビュー。そう考えればグラビアアイドルとは、本人の意向と無関係に成立している不思議な職業である。

 なかでもとりわけ奇特な理由でこの世界に入ってきたのが、佐藤江梨子だ。

 その条件とは
・生活のすべてにおいて趣味を優先していい
・夜遊びを許すこと
・朝はニガテなので朝食はあなたが作る

 彼女の作戦は失敗だった。
 ふたりとも返事は「喜んで!」そこで彼女は消去法を取った。Oの趣味は釣りだ。
 釣り、魚、……「なんかクサそうでイヤ」。
 しかしHテクはOのほうが若干上回っている。そこでK子はSと結婚して、Oとは「たまにHする」ことに決める。

 この選択は、まったく正しかった。結婚してK子がまず驚いたのは、Sの両親が結婚祝いに「土地付きの3階建ての家」をプレゼントしてくれたこと(しかもアトリエつき)。 さらにその家がある品川は、勤務地から歩いて10分の距離だった!(でもベンツで行く)。会社をやめ、同じ会社のアドバイザー的存在になった彼女は、アドバイザー料として給料は以前の倍になり、好きな時に行って好きな時に帰っていいという、ますます「遊んでるも同じ」状態に突入。朝はSが腕によりをかけた朝食の香りで目覚め、夜遊びをたっぷりし、ちょっと昼にシタくなるとOを呼び出す。
 夜はSに、料理を作るのがメンドくさいのでお茶漬けを出すと「接待でこってりした料理が多いから、こういうのが嬉しいよ。マイ・リトル・ラバー」と感謝されこそすれ顔射されず。

 こんなK子に待望の赤ちゃんが誕生した。ところがK子、一か月で子育てに「飽きた」ので、実家に預けてしまう。すると実家では「毎日、孫を抱かせてくれるなんて、なんて親孝行なコだろう」と、「良妻」のハンコをもらってしまうのだ。

 僕はこの話を聞いて、驚いてケツから小腸が飛び出てしまった。僕のこれまでの33年間など、彼女の幸せの3時間分にも満たないではないか。そして飛び出た小腸を掻き集めながら、そんな非の打ち所のないシアワセ、どうしても納得できなくて、こう切り返した。「この不景気に外車メーカーなんてヤバイに決まってる。そんな幸せ、今だけだよ」

 ところが、不景気で家をあきらめた人が「車なら買える」と殺到し、さらに円高もあってますます大繁盛なのだそうだ。東京には、このように、どうやっても、どう転んでも、どうあがいても、どう見繕っても幸せにしかなれない星の下に生まれた女が存在するのである。

 さて、もうひとつの東京と大阪の違い。それはマクドナルドを「マック」と呼ぶのは有名だが、松屋は「マッツ」と呼ぶのだ。
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[33]2005年01月19日 14:45.
2003.12 『BREAK MAX』に書いた原稿

 *これもまた、阪神大震災が生んだひとつのドラマでは


 日々続々と現れ、我々の目を楽しませてくれる巨乳グラビアアイドル。しかし、「アタシ、胸が大きいからグラビアアイドルになりた~い」と志願してこの巨乳界に入ってくる娘は少ない。
 
 乙葉はシンガーソングライターになりたかった。MEGUMIはソウル歌手になりたかった。スカウトされた小池栄子は、なんらかの想い出ができれば芸能界を辞めてもいい、という軽い気持ちだった。優香に至っては、スカウトマン自身ですら水着のプロフィール写真を撮影するまで胸の大きさに気付いなかったほどノーマークでのデビュー。そう考えればグラビアアイドルとは、本人の意向と無関係に成立している不思議な職業である。

 なかでもとりわけ奇特な理由でこの世界に入ってきたのが、佐藤江梨子だ。
 その条件とは
・生活のすべてにおいて趣味を優先していい
・夜遊びを許すこと
・朝はニガテなので朝食はあなたが作る

 彼女の作戦は失敗だった。
 ふたりとも返事は「喜んで!」そこで彼女は消去法を取った。Oの趣味は釣りだ。
 釣り、魚、……「なんかクサそうでイヤ」。
 しかしHテクはOのほうが若干上回っている。そこでK子はSと結婚して、Oとは「たまにHする」ことに決める。

 この選択は、まったく正しかった。結婚してK子がまず驚いたのは、Sの両親が結婚祝いに「土地付きの3階建ての家」をプレゼントしてくれたこと(しかもアトリエつき)。 さらにその家がある品川は、勤務地から歩いて10分の距離だった!(でもベンツで行く)。会社をやめ、同じ会社のアドバイザー的存在になった彼女は、アドバイザー料として給料は以前の倍になり、好きな時に行って好きな時に帰っていいという、ますます「遊んでるも同じ」状態に突入。朝はSが腕によりをかけた朝食の香りで目覚め、夜遊びをたっぷりし、ちょっと昼にシタくなるとOを呼び出す。
 夜はSに、料理を作るのがメンドくさいのでお茶漬けを出すと「接待でこってりした料理が多いから、こういうのが嬉しいよ。マイ・リトル・ラバー」と感謝されこそすれ顔射されず。

 こんなK子に待望の赤ちゃんが誕生した。ところがK子、一か月で子育てに「飽きた」ので、実家に預けてしまう。すると実家では「毎日、孫を抱かせてくれるなんて、なんて親孝行なコだろう」と、「良妻」のハンコをもらってしまうのだ。

 僕はこの話を聞いて、驚いてケツから小腸が飛び出てしまった。僕のこれまでの33年間など、彼女の幸せの3時間分にも満たないではないか。そして飛び出た小腸を掻き集めながら、そんな非の打ち所のないシアワセ、どうしても納得できなくて、こう切り返した。「この不景気に外車メーカーなんてヤバイに決まってる。そんな幸せ、今だけだよ」

 ところが、不景気で家をあきらめた人が「車なら買える」と殺到し、さらに円高もあってますます大繁盛なのだそうだ。東京には、このように、どうやっても、どう転んでも、どうあがいても、どう見繕っても幸せにしかなれない星の下に生まれた女が存在するのである。

 さて、もうひとつの東京と大阪の違い。それはマクドナルドを「マック」と呼ぶのは有名だが、松屋は「マッツ」と呼ぶのだ。
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[33]2005年01月19日 14:45.
2003.12 『BREAK MAX』に書いた原稿

 *これもまた、阪神大震災が生んだひとつのドラマでは


 日々続々と現れ、我々の目を楽しませてくれる巨乳グラビアアイドル。しかし、「アタシ、胸が大きいからグラビアアイドルになりた~い」と志願してこの巨乳界に入ってくる娘は少ない。
 
 乙葉はシンガーソングライターになりたかった。MEGUMIはソウル歌手になりたかった。スカウトされた小池栄子は、なんらかの想い出ができれば芸能界を辞めてもいい、という軽い気持ちだった。優香に至っては、スカウトマン自身ですら水着のプロフィール写真を撮影するまで胸の大きさに気付いなかったほどノーマークでのデビュー。そう考えればグラビアアイドルとは、本人の意向と無関係に成立している不思議な職業である。

 なかでもとりわけ奇特な理由でこの世界に入ってきたのが、佐藤江梨子だ。
・生活のすべてにおいて趣味を優先していい
・夜遊びを許すこと
・朝はニガテなので朝食はあなたが作る

 彼女の作戦は失敗だった。
 ふたりとも返事は「喜んで!」そこで彼女は消去法を取った。Oの趣味は釣りだ。
 釣り、魚、……「なんかクサそうでイヤ」。
 しかしHテクはOのほうが若干上回っている。そこでK子はSと結婚して、Oとは「たまにHする」ことに決める。

 この選択は、まったく正しかった。結婚してK子がまず驚いたのは、Sの両親が結婚祝いに「土地付きの3階建ての家」をプレゼントしてくれたこと(しかもアトリエつき)。 さらにその家がある品川は、勤務地から歩いて10分の距離だった!(でもベンツで行く)。会社をやめ、同じ会社のアドバイザー的存在になった彼女は、アドバイザー料として給料は以前の倍になり、好きな時に行って好きな時に帰っていいという、ますます「遊んでるも同じ」状態に突入。朝はSが腕によりをかけた朝食の香りで目覚め、夜遊びをたっぷりし、ちょっと昼にシタくなるとOを呼び出す。
 夜はSに、料理を作るのがメンドくさいのでお茶漬けを出すと「接待でこってりした料理が多いから、こういうのが嬉しいよ。マイ・リトル・ラバー」と感謝されこそすれ顔射されず。

 こんなK子に待望の赤ちゃんが誕生した。ところがK子、一か月で子育てに「飽きた」ので、実家に預けてしまう。すると実家では「毎日、孫を抱かせてくれるなんて、なんて親孝行なコだろう」と、「良妻」のハンコをもらってしまうのだ。

 僕はこの話を聞いて、驚いてケツから小腸が飛び出てしまった。僕のこれまでの33年間など、彼女の幸せの3時間分にも満たないではないか。そして飛び出た小腸を掻き集めながら、そんな非の打ち所のないシアワセ、どうしても納得できなくて、こう切り返した。「この不景気に外車メーカーなんてヤバイに決まってる。そんな幸せ、今だけだよ」

 ところが、不景気で家をあきらめた人が「車なら買える」と殺到し、さらに円高もあってますます大繁盛なのだそうだ。東京には、このように、どうやっても、どう転んでも、どうあがいても、どう見繕っても幸せにしかなれない星の下に生まれた女が存在するのである。

 さて、もうひとつの東京と大阪の違い。それはマクドナルドを「マック」と呼ぶのは有名だが、松屋は「マッツ」と呼ぶのだ。
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[33]2005年01月19日 14:45.
2003.12 『BREAK MAX』に書いた原稿

 *これもまた、阪神大震災が生んだひとつのドラマでは


 日々続々と現れ、我々の目を楽しませてくれる巨乳グラビアアイドル。しかし、「アタシ、胸が大きいからグラビアアイドルになりた~い」と志願してこの巨乳界に入ってくる娘は少ない。
 
 乙葉はシンガーソングライターになりたかった。MEGUMIはソウル歌手になりたかった。スカウトされた小池栄子は、なんらかの想い出ができれば芸能界を辞めてもいい、という軽い気持ちだった。優香に至っては、スカウトマン自身ですら水着のプロフィール写真を撮影するまで胸の大きさに気付いなかったほどノーマークでのデビュー。そう考えればグラビアアイドルとは、本人の意向と無関係に成立している不思議な職業である。

 なかでもとりわけ奇特な理由でこの世界に入ってきたのが、佐藤江梨子だ。
・夜遊びを許すこと
・朝はニガテなので朝食はあなたが作る

 彼女の作戦は失敗だった。
 ふたりとも返事は「喜んで!」そこで彼女は消去法を取った。Oの趣味は釣りだ。
 釣り、魚、……「なんかクサそうでイヤ」。
 しかしHテクはOのほうが若干上回っている。そこでK子はSと結婚して、Oとは「たまにHする」ことに決める。

 この選択は、まったく正しかった。結婚してK子がまず驚いたのは、Sの両親が結婚祝いに「土地付きの3階建ての家」をプレゼントしてくれたこと(しかもアトリエつき)。 さらにその家がある品川は、勤務地から歩いて10分の距離だった!(でもベンツで行く)。会社をやめ、同じ会社のアドバイザー的存在になった彼女は、アドバイザー料として給料は以前の倍になり、好きな時に行って好きな時に帰っていいという、ますます「遊んでるも同じ」状態に突入。朝はSが腕によりをかけた朝食の香りで目覚め、夜遊びをたっぷりし、ちょっと昼にシタくなるとOを呼び出す。
 夜はSに、料理を作るのがメンドくさいのでお茶漬けを出すと「接待でこってりした料理が多いから、こういうのが嬉しいよ。マイ・リトル・ラバー」と感謝されこそすれ顔射されず。


 彼女のプロフィールには「東京出身」とある。彼女が書いた『東京タワー』という詩にも「私は東京生まれ、あちこち育ち。東京タワーの様に背の高い、色で言うと、赤な女になりたい」という一節がある。彼女が幼少期に東京のなかで住まいを転々としてきたことが窺い知れる一編だ。彼女が転々としていたのは、東京だけではない。父親が転勤族であったため、日本各地を渡り巡っている。大阪にもいた。扶桑社から発売された処女小説『気遣い喫茶』は大阪・肥後橋在住時代の記憶を元にして描かれていたものである。

 関東と関西、多感な少女時代を、なにからなにまでまるで違う土地で過ごした彼女を、ある悲劇が襲った。

 「1995年 1月17日 阪神大震災」

 そのとき彼女は14歳。神戸の東灘区で震災に遭った。東灘区といえば被災地のなかでもとびきりの激震区。一夜にして、街中のなにもかもが倒壊、焼失。住んでいた家も崩壊した。学校もなくなった。避難所生活を余儀なくされた。往時は筆者も被災したが、あの地獄そのものの避難所に彼女もいたのかと思うと、胸が締めつけられる。そして彼女は一命は取りとめたものの、親友は助からなかった。

 厳寒の1月だというのに、暖をとる術はない。電気も電話も通じない。水道もガスもない。トイレもない。復旧は遅々として進まず、食糧も届かない。そして親友が……。そんな絶望のうえに絶望を重ねる日々のなか、彼女の唯一の心の拠り所がラジオだった。ラジオからパーソナリティの励ましの声が聞こえる。その声のみを便りに、彼女は生きた。

 そして彼女にとって、もうひとつショッキングな出来事が起きた。地下鉄サリン事件である。この事件自体もショックだったが、マスコミの報道が一斉にサリン事件に傾き、なんら状況が好転していないのに被災地の情報が日が経つにつれ耳に届きづらくなってきた。自分たちは未だここにいるのに、置いてきぼりにされてゆく。彼女はこれに、憤りよりも「情報が一斉に偏ってゆくマスコミの仕組み」にたいへんな興味を抱くようになったという。そして「自分もこの世界に進もう。あの日、私たちを励ましてくれたパーソナリテーのような存在になろう」と決意する。そこに至るまでにどんな入口があるのか、そもそも自分が目指す具体的な職業は? 幼い彼女には当然、像を結べるはずもなかった。

 のちに関東に戻ってから、彼女は雑誌『Audition』で「大磯ロングビーチ キャンペーンガール」に応募する。そしてイエローキャブの野田社長に見出され、グラビアアイドルとしてデビューした。阪神大震災の被災地から、グラビアアイドルが生まれたのだ。まるで戦後のクラブ歌手の物語のようである。

 先述したが、グラビアアイドルとは虚業である。永遠にグラビアアイドルだけをやり続けてゆくことができない、芸能界のなかでも特殊なジャンルだ。多くのグラビアアイドルが女優や歌手やバラエティタレントへと立ち位置を変えてゆく。あまたにならい、彼女もまたバラエティの世界に進出してゆく。

 彼女のバラエティ進出はめざましかった。深夜番組では、自分がセクシー要員であることを自覚し、まだ10代ながら下ネタも辞さない。八頭身で、しかもグラマー。そんな彼女がエロティックな話題にも引かないとなると、男たちは驚喜。『タモリ倶楽部』などは、下ネタに至りそうな日は必ず彼女を呼んだほど。それは「いつか人を励ます存在になりたい」という覚悟が、そうさせたのだろう。ヒップホップにおおいに影響を受けていた彼女は、独特のラディカルな言語感覚と悲鳴にも似た金切り声で、場を沸かせ続けた。

 しかし、時代が変わった。グラビアアイドルが続々とバラエティに進出し、それにつれ求められるハードルが高くなる。セクシーな話題で大騒ぎ~要員、よりも、進行をキチンと理解し的確にコメントする人材が求められるようになった。胸が大きいとか、ぜんぜんどうでもよくなったのだ。それができたMEGUMIや小池栄子の需要が一気に激増し、のちにMEGUMIは胸の大きさよりもコメント能力のみが要求される『トリビアの泉』で国民的存在となった。それまで現場を意外な方向に転換させるエキセントリックな役回りだった彼女の出番は、なくなった。来る日も来る日も客が20人しかいないような営業の仕事ばかり。さらに、デビュー当時から自分を追いかけてきてくれた熱狂的ファンの死。信じられるものが消失した。

 失い続ける歴史のなかで、彼女はいまの自分の気持ちを書き殴った。目の前にある紙なら、なんでも。ホテルに泊まっている時など、備えつけの便せんに思いのたけをぶつけまくり、便せんがなくなってフロントに注文したほどだ。文章が溢れてくる、溢れてくる。紙がない時は、携帯電話で小説を書いた。携帯電話で小説を配信するのはよく聞くが、「書く」のは前代未聞である。書いていると、読みたくなる。芥川賞、直木賞、受賞作品はかたっぱしから読んだ。そして書評の仕事まではじめた。ゴーストライターの文体が許せず、すべて自分で書いた。編集者が手直しすると、掲載誌を持って編集部に怒鳴り込んだ。そして、その一見荒れ狂ったパッショネイトな文章は、柳美里ら作家や批評家から絶賛された。

 地震で比喩するのは不謹慎だが、彼女の最大の魅力であるアンバランスな精神構造は、被災地の経験から生まれた部分がおおいにあるだろう。安定を求めるバラエティから締め出されたとたんに、むしろその魅力は拡大し、いまや映画界や文学界から引く手あまたである。修羅場、アイドル、を経て文学界へ。彼女は意外にも、正統な女流文豪への道を歩んでいる。
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[34]2005年01月21日 03:12.
2000 『LIVE』に書いた原稿


 ふた股かけているオンナなど断じて許せないが「18股かけているオンナ」となると話はまったく別。尊敬の念しか沸かず、またそのミステリーサークルにぜひ参加させていただきたいものである。

 実はこのオンナ、いや女の子は実在する。
 東村山に住むM子ちゃん19歳は、まだ10代ながら男と女が出会えば起こるであろうありとあらゆるアレやコレやの交悦と修羅場すべてを体験済で、僕の無駄に来してきた35年間の経験など、彼女のたった一日のオヤツの時間にも満たない。僕が恋愛で悩んだ時には的確なアドバイスをしてくださる大先生である。
 M子のモットーは「新しく好きな男ができたからって、なんで今まで付き合ってきた人と別れなきゃなんないの?」。
 そのイズムにしたがって現在カレシが18人、というわけだ。

 「あたし、はじめてのHが3Pだったのね。14のとき、担任と数学の先生とやっちゃって、それからそのふたりと付き合いだしたの。あたしバカだったけど、そのふたりの教科はずっと満点だったよ」
「でもさ、男って独占欲強いから浮気したら怒られるだろ?」
「そんなレベル低い男とは付き合わないよ。それにあたしは恋愛って『礼節を尽くす』ことだと思うから、新しいカレシができたらそれまでの男には全部話すし、新しい人とは会ってもらうし、今まで以上に優しくするもん」。

M子曰く「男と別れただのフラレただの言ってる女は悲劇に浸りたいだけのバカなんだよ」

 カレシたちの考え方はこうだ。M子に新しい恋人ができたら、それまで末席だった男の順位があがる(?)。だから新しい男ができるのは大歓迎なのだとか。
 そうして房総半島をシメている走り屋のヘッドから弁護士まで恋人という名のブレーン集団には血の結束ができてゆく。現在同棲している第一婦人ならぬ第一カレシが事業を起こす際には、なんと全員が出資したという。

「やっぱり信じられないよ。カレシはいっぱいいるんだろうけど、18人ってのは大袈裟だろ?」
「ん? なんなら今から全員呼び出してみようか?」。

 M子は胸元からサッと真っ赤な携帯を取り出した。僕は慌ててそれを遮った。

 このジャンヌダルクはいずれ関東にその名を轟かせることになるだろう。M子が連合赤軍でなくて本当によかった。
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[35]2005年01月23日 11:54.
*この原稿はロレックスの販促誌『LIVE』♯6に寄せたものです。統一テーマは「憧れ」でした。

 文中に出てくる「男」とは、当時「神の国」発言で物議をかもし、有事のおりにのんきにゴルフをやっていたあの宴会好きの元総理。そういえば小室・KEIKO披露宴にも出席していましたね。
 この日、僕は石川県の小松市、小松駅前にいました。別の雑誌の取材で訪れた小松は、なんてことない田舎町。観測史上最高気温を記録し、すべてを焼き尽くさんばかりの強烈な日差しにさらされた小松は、アスファルトからもうもうと湯気がたちこめておりました。
 初めて降りた、なんてことない田舎町。そこで僕が偶然出くわしたのが、あの男だったのです。まさかこんなところで一国の総理と対面するとは思ってもみませんでした。距離にしてわずか30センチくらいしか離れていない距離に、あの男がいたのです。
 氏が凱旋演説を終えたあとの「とっとと帰りぶり」と、町の人の見事なまでの「手のひらかえしぶり」を同時に目撃し、驚いた僕は、しばし人間不信に陥りました。

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 7月30日、日曜日。僕は取材で石川県の小松市にいた。
 その日の北陸地方は、フェーン現象の真っ只中にあり、気温は観測史上最高の38度を記 録。不快指数は混じりけなしの100%。これは気象庁の言うところ「熱気と湿気で、出歩くだけで生命の危機に晒される」状態を指す。

 そんな人間テリヤキ殺人光線が降り注ぐ、お昼2時。駅前商店街は人出でごった返して いた。人々は手に手に日章旗と花束を持ち、「憧れ」のアノ人の出現を待つ。
 地元小学校の鼓笛隊が何度も何度も安室奈美恵の『NEVER END』の演奏リハを繰り返す。商店街のBGMも、ただひたすら『NEVER END』をリピート。僕はサ ミット直前の沖縄も取材したが、かの地ですらこの曲を聴いたことはほとんどなかった。 この日、この国でもっともアムロ率が高かったのは、間違いなく石川県小松市だろう。

 リムジンが到着。
 でっぷりと脂ののったアノ男が降りてきた。一見ヤクザそのものにしか見えぬ男の出現に人々は沸く。
「お帰りなさい!」
「サミット成功、おめでとう!」
「バンザーイ、バンザーイ!」。
 総理就任後初めてのお国入りとあって、まるでハリウッドスターの凱旋帰国を思わせる 歓待。諸外国から「成金趣味」と嘲笑された九州・沖縄サミットも、ここでは成功したこと になっているようだ。

 彼は演台に立ち、
「自由奔放にものを言う私が、言いたいことも言えぬ切迫した状況に置かれています! 山また山、谷また谷。今こそ石川県の皆さんのお力が必要なのです!」
「Wooooー!」。
 石川県の皆さんが力余すことなく旗を振って応える。

 演説が終わり、男がリムジンで帰っていった。人々は所在なげな日章旗や花束を道端に 捨てたり電信柱に挿したり、違法駐車のワイパーにはさんだりして散り散り帰ってゆく。  演台はさっさと片付けられた。地元のお偉いさんたちが集まって話をしている。
「金沢の方じゃ祝賀会の準備してたのに、東京に帰るってんで中止だとさ」
「ありゃあ、駄目だ。地元を大事にしないから、もたねえよ」。

 その日の夜、僕はホテルのベッドで頭痛にのたうちまわった。日射病のせい、だけだろうか。人間は容赦なく憧れ、容赦なく見限る。
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[36]2005年01月25日 18:28.
2001.

*この原稿は『ロック画報』という雑誌で連載していた「日本のロック 原風景の旅」の第一回目。70年代に活躍したグレイト・ローカルバンド「めんたんぴん」の足跡をたどるべく、石川県の小松を訪れた時のものです。数日前に「小松に行ったら、頭が痛くなった」という原稿をアップしましたが(要約しすぎ!)、それはこの雑誌の取材のときの模様だったのです。これから数日は、日本のロックをさかのぼる旅にお付き合いください。
(撮影も自分でやってたんで、ほんとは文章より写真の方を見て欲しいのが本音です)。

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『MENTANPIN SECOND』 めんたんぴん

暑い。
この日の小松はフェーン現象の影響で観測史上最高の38度を記録していた。
駅で借りた自転車で小松の街をぐるり。
行けども行けども青い稲穂の海原。
小松空港に離着陸する旅客機が、筆文字のようにきれいなひこうき雲を吐き出し、恐ろしいまでに澄んだ空を一閃してゆく。
容赦なく肌を焼く日差し、日本海から吹くミネラルたっぷりの風、そのどれもが「めんたん ぴん」を初めて聴いた時に感じた質感、そのものだった。

めんたんぴんは'72年、石川県小松市で結成された。
70年代、日本のロックが関東・京阪神・九州沖縄などで熱い盛り上がりを見せるなか、彼らは「北陸にもロックあり」を見せつけた最大の功労者であり、そのサウンドは大都市のしが らみから断ち切られた環境のなかからしか生まれ得ない、自由でおおらかで野趣溢れる包 容力があった。
地元小松、金沢で活動していた彼らは、地方バンドの多くが東京に拠点を移す潮流に背を向け、ペンキをたっぷり塗り込んだバン「めんたんぴん号」で全国津々浦々を巡るトラヴェリ ン・バンドとなってゆく。
これは彼らがグレイトフル・デッドに音楽面のみならず思想的にも多大な影響を受けて、 のことだろう(彼らのオフィス名は“めんたんぴんヘッズ")。

デッドの『EUROPE'72』の如く、印税のすべてをつぎ込んで全国ツアーに明け暮れためんたんぴんには自らの所信表明とも言える『コンサート・ツアー』という曲がある。
「♪知らない町の人達に、聞かせてあげるいなかを」
田舎の音、ではなく「いなか」そのものを聴かせるという大胆かつフリー・マインドなロッ クンロールは、各地の若者をおおいに力づけた。

とはいえ、めんたんぴんには伝播すべき思想的な背景は、デッドへの憧憬以外なにもなかったように思う。
あるのはただ自然に育まれた滋養ふんだんなロックを日本中にこだまさせる快感、それの みだったのでは。
彼らが歌った「国道8号線」に陽が落ちる。「夕焼けまつり」を背にギターを積んだライトバンが走り抜けてゆく。

補足
『MENTANPIN SECOND』は石川県小松市を拠点に全国ツアーに明け暮れた彼らの代表アルバム。
アメリカン・ロックを基調に「今日も小松の街は」など地域名や方言が飛び出す地域密着ロックの真髄。
小松は歌舞伎「勧進帳」の街としても有名だ。舞台となった「安宅の関跡」では歴史資料を展示。街のいたるところに主人公である弁慶の像が立つ。
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[37]2005年01月27日 17:00.
*昨日に引き続き、『ロック画報』で連載していた「日本のロック 原風景の旅」第二回目です。

 今回は大阪の北新地。大阪の梅田方面(キタ)にある高級クラブ街です(ダンスするクラブではなく、女の子が接客してくれるほうのクラブ)。東京に例えるなら銀座の三越周辺にあたるでしょうか。かつては一束10万円もする花束が飛ぶように売れていた街です。

 そしてルーシー・ブラックマンさんでお馴染み織原容疑者が狂奔するきっかけとなった、うたかたの夢の街。

 取材時は、まさに「宴のあと」。不景気でさびれていました。ラーメン屋とパスタの店ばかりになってました。社用族が姿を消し、超高級外車の違法駐車の列もなくなり、回転寿司やラーメンが目当ての一般層がこの街に流入。その後JR「北新地」駅もできて、街のありようはすっかり変わってしまったようです。

 取材の日から以降、一度も訪れていませんが、北新地はあれからどうなったのでしょうか。景気はさらに悪化し、街の様相は推して知るべし、ですが。

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『ぼちぼちいこか』 上田正樹 有山淳司

織原城二容疑者の夢は、大阪市北区にある約2000平方メートルもの駐車場に壮大な「北新地タワー」を建設することだった。
しかしバブル崩壊後、銀行が融資を引き締め計画は頓挫。負債総額は145億円にまで膨 れ上がった。
彼が極端にオカシクなったのは、まさにこの渦中期である。
この北新地タワーの完成予定図には驚いた。
その形状は、未来世界を描き続け、大阪万博のブレーンでもあったイラストレーター真鍋博がデザインしたような、ある意味ユメいっぱいの、ある意味非現実的な、巨大ロボがつっ立 っているよなナンとも言い難いもの。
新聞には織原容疑者の負債発覚の記事と真鍋氏の訃報が同日に掲載されており、日本人が 見続けていた夢の終焉を思わずにいられない。

上田正樹と有山淳司の『ぼちぼちいこか』('75年6月)は、サウス・トゥ・サウスのデビュー盤にして唯一作『この熱い魂を伝えたいんや』の半年前に発売された。
この『ぼちぼち~』は「熱い魂以外のものをまず先に伝えたいんや」とばかりに、地方から大 阪にやってきて若者が街の澱みの中に埋没せんとする姿を飄々と描き、往時の大阪の空気、街のテンポを温かく(ぬるく)包み込んでいる。
70年代の大阪の街を知るうえでたいへん重要なタイムカプセルであり、大阪市立博物館に 収蔵されてもおかしくない名作なのである。

このアルバムの舞台はジャケットが道頓堀のくいだおれ人形であることからもわかるように主にミナミ(中央区難波~千日前)。
しかし、まったく別の街で展開される曲がひとつだけある。それが『あこがれの北新地』。
北新地とは曽根崎新地一丁目を指す別称で、高級クラブの密集地。
ここで飲むのが夢だったという若者がホステスに「北新地は若い人の来るところやおまへ ん」とやんわりうながされるこの歌を聴くと、誰しも北新地を歩くだけで自分が偉くなっ たような気がした狂奔時代が蘇る。

夢の果てた砂上の楼閣、北新地。この曲を聴きながらこの街を歩くと、残酷なまでの時代の移ろいに慄然とさせられてしまう。

『ぼちぼちいこか』
(75.06.1バーボンBMC-3003 CD TJ TKCA-71788)
サウス・トゥ・サウスの全貌を知るうえで欠かすことのできない、ラグタイムブルースと 大阪弁の奇跡の融合とも言うべき名盤。
ちなみに「俺の借金~」は全部で13600円。

キタノザウルス

曽根崎復興のためJRの新駅は「北新地」駅と名づけられた。駅前の「キタノザウルス」くんは待ち合わせに使われるように設置されたが、残念ながら人通りは少なく、寂しそう。
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[38]2005年01月29日 21:31.
*昨日に引き続き『ロック画報』に連載していた「日本のロック 原風景の旅」第三回。

 今回は福生の米軍横田基地周辺であります。

 まるで何事もなかったようなのんきな原稿ですが、この日の取材はライター生活のなかで、もっともキツかった。なんと取材日は、先にアップしてある「ギックリ腰になって、出会い系サイトで知り合った女性に助けてもらった」翌日なのです。午前中は車椅子、昼から老人用カートを押して福生まで出かけました。

 ルート16の側道を老人用カートを押して歩いてる僕を、黒人たちが怪訝な顔をして見ていたのが思い出されます。転びまくって、地べたで「もう殺してくれ!」と何度叫んだことか。道に倒れて誰かの名を呼び続けたことがありますか?

 あの頃は、そうまでして「締め切りを守らねば」と思っていたんですね(あ、今もモチロンそう思っています!)

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東京都福生市 米軍横田基地周辺

『ベスト・オブ・ルージュ』 ルージュ

奥多摩の雄大な山々を望み、多摩川の清流を汲む、緑まばゆい西郊タウン「福生」。
自然が豊かなだけではなく、この街はジャパニーズロックファンなら、一度は詣でてみたいと願う聖地でもある。

かつては忌野清志郎が住み暮し、ストリートスライダーズが熱い演奏を繰り広げた拠点として知られ、そしてなんといっても大瀧御大が現在も居を構えるなど、日本のロック生誕の地と呼んで大袈裟ではない。
福生と聞いて思わず氏の『福生ストラットPart1.&2.』やナイアガラ・トライアングルの『フライング・キッズ』(仮タイトルは『福生スケッチ』だった)を条件反射的に口ずさんでしまう方は多いだろう。

そして僕にとっての「福生気分でRock’Roll」にとどめを刺すレコードがルージュ唯一のスタジオ録音アルバム『ザ・ベスト・オブ・ルージュ』。

市の32.4%を米軍横田基地が占め(占領?)街中を鉄条網で仕切られた福生は、一歩足を踏み込めば、洋邦の風の対流を肌で感じることができる。
心地よいのか悪いのか、なんとも奇妙な感覚に襲われ、身体の重心がぐらついてくる。この現実離れした気配をぎゅうっと圧縮したのが『ベスト~』なのだ。

ルージュの前身は、横田基地に隣接するジャパマ・ハウスで共同生活をしていた「悪魔色のルージュ」というハードロックバンド。
のちに“福生でもっともうまくてスゴイ”と呼び声高かった逆井オサムが加入。
ポップでグラマラスな色彩をより強め、メンバーがドレスや網タイツを履いたり(ヴィジュアル系の元祖と呼ばれるのは、このためだ)。
ボーカルのタコがアンプから手足を出して歌ったり、ステージで「殺人」を演じるなど演劇的でヤバいパフォーマンスが噂となり、噂は都下はもちろん全国へ広がっていった。

米兵の歓楽街だった通称“赤線”も整理され、かつて村上龍の『限りなく透明に近いブルー』で描かれた頽廃的な福生の姿は今はもうない。
それだけに、この毒花が咲き狂ったようなアルバムが愛おしくてならないのである。

『ベスト・オブ・ルージュ』(ドーナツDTP-72093■1975年10月5日)

田中角栄のモノマネまで飛び出すビックリ箱。紫煙たちこめる地下室で繰り広げられる悪魔の毒々ロックンロールサーカスに酔う。
プロデュースは加藤和彦。

雑貨店の並び

横田基地沿いを走るルート16はアメリカ雑貨、米軍放出品、ミリタリーファッション、米兵の集うショットバーがズラリ。気分だなぁ。

ホームステイ訪問先土産店

ホームステイ訪問先への日本みやげ品店も多い。店内には身の毛もよだつデザインのキモノドレスや妙にエキゾチックな招き猫などが狂おしく並ぶ。まさにルージュの世界。
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[39]2005年01月31日 09:43.
鹿砦社(あのジャニーズ暴露本でお馴染みの悪漢出版社)が取り次ぎに配っていたフリーペーパー『鹿砦社アクセス』に連載していたエッセイの一編です。

 ちなみに文中に出てくる女性編集者は、かつてツーリング雑誌の編集部に在籍していた人で、小池栄子っぽい、アニキっぽい、カッコイイ人でした。うちの事務所までハーレーでやってきて、打ち合せをする前に革のツナギのジッパーをジャキッとおろす、そんな梶芽衣子みたいな人。いまは出版の世界から足を洗ったらしく、どこでどうされているのやら。たぶん今でもどっかの峠を攻めていることでしょう。また会いたいなぁ。

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 先日、某誌の女性編集者とシメジ入りのお好み焼を食べていた時のこと。
 彼女が箸でひょいとシメジをつまみながら、どえらいサイケな話をしだした。

「吉村さん、マジックマッシュルーム、食べたことあります?」
「え、あの幻覚作用を促すキノコのこと? ないよー」
「アタシ去年、男友達と一緒にバリに行ったんです。バリの海岸では屋台でマジックマッシュルームを具にしたオムレツを食べることができるんですよ。もちろん、ただ売ってくれって言ったって『そんなもの、ウチじゃ置いてねーッ』って追い払われますけどね。それでバリツアーの常連から教えられていた☆●◎って合言葉を言ったら、オヤジ、ニヤリと笑って『大きさはどれくらいにする?』だって」

 マジックマッシュルーム入りのオムレツの大きさは、ハーフと呼ばれる半月型のものを頼むのが普通だそう。それでだいたいエエ感じにラリれる。初心者がラージという満月焼きを頼むと、ショックで気絶してしまうこともあるという。

「マジックマッシュルームにもいろいろあって、サイケデリックな色彩が楽しめるもの、魂が宙に浮いてしまうもの、あと『ヤリたくて仕方なくなるもの』なんかもあるんです。アタシ、それ聞いて『そ、それ、焼いてちょうだい!』(笑)」

 なんと彼女、その媚薬効果があるマッシュルームのオムレツを満月焼きでペロリとたいらげてしまった。それから、当然の如く、タリラリに。

 彼女は衆人の前でスッポンポンになり、そのまま林のなかに猛ダッシュ。そして一本の大木の根本でガムシャラに穴を掘り、下半身が座った状態ですっぽり埋まるくらいの穴をあけた。そして、穴のなかに身をかがめ、一日じゅう目をつぶっていたのだという。

 そう、彼女は身も心も「キノコになって」しまい、大地と交接していたのだ。お前はキノコンガか! そう、彼女がヤリたくなった相手は、「地球」だったのである。

 そういえば、こんな話を聞いたことがある。最近、日本の森木がどんどん枯れていっているそうだ。調べてみると酸性雨でキノコが激減し、キノコの菌糸に栄養を運んでもらっていた木々が、その巨体を支えきれず朽ちていくのだという。
 キノコと樹木は共生関係、つまり夫婦なのだ。

 男性のモノがキノコの形をしているのは、なるほどそういう尊い理由があったのか。
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[40]2005年02月02日 01:16.
2000 『鹿砦社アクセス』

 先日、太平かつみさんにインタビューする機会があったのだが、繰り出される凄まじいエピソードの数々に背骨が折れるほど笑いころげ、インタビューどころではなくなってしまった。

 太平かつみとは、元「どんきほーて」という漫才師のツッコミのほう。
 漫才ではツッコミだが私生活では大ボケの連発。とにかく儲け話に目がなく、そのたび大損をこき、経済的アップダウンが猛烈に激しい人なのだ。男っぷりがいいという褒め言葉があるが、かつみさんの場合「バブルっぷり」がよすぎるのである。

 新人の頃から投機に目覚め、北海道のマンションから沖縄のゴルフ会員権まで日本縦断で投機爆撃。28歳という若さで、なんと資産が3億円(!)に。
 しかしバブルが崩壊し30歳で借金が1億7千万にまで膨れ上がる。ここからが「かつみ転落芸」の本領発揮。借金返済のため次々に事業に乗り出す。クワガタの養殖が儲かると聞けば、家中をクワガタのケースだらけにし、
「ゴキブリが出たんでバルサン焚いたら、クワガタみんな死んでまいました」
 100円ショップがクルと聞けば即開店。
「結局200万円の赤字。100円の商品、2万個無料配布したようなもんですわ」

 こうなりゃ競馬だ! といきなり20万円の一点買い。
「賭けた馬がそれまで一等やったのに、ゴール直前で骨折ですワ」(しかもかつみさん、その日に自分も舞台でアキレス腱を切ってしまった)。
 さらにまだ買って3日目で保険に入っていない60回払いのローンが残った高級外車を事故で廃車にするわ(その後購入した2台の車も事故で廃車に)、それでもなんとか返済のめどがつき、さぁこれから心を入れ替えて漫才に打ち込もう、と思った矢先に、相方が「サラリーマンになる」と言い出し去られてしまうわ、もうワヤクチャ。

 一番笑ったのが「ナポレオンフィッシュ事件」。
 かつみさんが香港の居酒屋で食事をしていると、水槽に変わった形の魚が。
「あれ、もしかして、ナポレオンフィッシュちゃうか?」
 ナポレオンフィッシュといえば熱帯魚ファン垂涎の珍魚。日本で買えば一匹200万円はくだらない。
 かつみさん、店員をつかまえ
「あれナンボ?」
「(日本円で)14万円」
「よっしゃ買った!」
 ところがその店員、何を間違えたか水槽からナポレオンフィッシュを掬いとると、かつみさんの目の前で、瞬く間に刺し身にしてしまった!
「14万の刺し身なんか食うたん初めてですワ。味? 泥臭うて食えたもんやおまへん」

 まだまだバブル崩壊話は尽きないのだが、僕は本にしたらどうかと思う。
 題して「太平かつみの太平記」。
 まぁ実際出したところで
「いっこも売れまへんワ。家中在庫だらけで寝る場所おまへん」
と、かつみさんの武勇伝に新たな1ページが加わるだけかな。
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[41]2005年02月07日 00:18.
2001

これは、いまはなき『わあでい』という雑誌に連載していた「東京スーベニール」というコラムの一編です。

 おのぼりさんのおれが「もし帰郷するなら、東京のみやげは何を買うだろう」と考え、毎回東京みやげをセレクトするというというのが連載の主旨でした。

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今月の土産

『どんな苦しみもがまんする鬼』

 「日本三大○○」に数えられるものといえば、いろいろある。

 たとえば日本三大河川といえば信濃川、利根川、石狩川。日本三大名山は富士山、立山、白山。日本三大祭なら三社祭、祇園祭、ヤマザキ春のパンまつり、といったようにトップ3は世界に誇れる実力者揃い踏みだ。

 とはいえ、多くの日本三大なんちゃらは自主申告の世界。なかでも、とりわけチャートインを狙い熾烈な争いが繰り広げられているシーンが「大仏」。

 日本三大大仏といえば、まず不動の一位が奈良の大仏っあん。次いで鎌倉大仏。ここまでは異論ないはず。

 では3番目、となるとコレがいきなり諸説入り乱れる。高岡大仏、越前大仏などビッグブッダが地元を挙げてトップ3入りを宣言。そうかと思えば牛久大仏のように身長120メートル! 全長のみなら世界一で、いきなり一位の座を奪取しにくるツワモノもいる。また「日本で三番目 石切大仏」を正式名称にしちゃう頭脳プレイヤーも。大仏バトルロワイヤルは、みなパンチパーマだけにコワさもひとしおである。

 で、日本三大大仏を謳ってはばからない新参者が東京にもいる。
 その名もズバリ「東京大仏」!
 しかし当の東京都民でも彼の存在を知る人は少ない。それもそのはず。大仏ニューカマーは、なんと板橋区の住宅街にひっそりと建っている(ていうか座っている)のだから。

 東京大仏は板橋区赤塚の乗蓮寺境内にデンと構えている。台座も含めて総高13メートルと決して背は高くはないが、住宅地の高台にあり、大仏殿のない「青空駐車状態」なので、その迫力はド肝抜くものがある。隣がバッティングセンターなので、まるで大仏がキャッチャーやっているように見える。シュ、シュール……。

 建立が昭和52年と新しく、それゆえ顔つきは今ふう。ASAYAN男子ボーカリスト落選者のネスミスに似ている。ブロンズ製で黒光りする肌がセクシーなイケメンだ。

 この乗蓮寺は境内に三途の川があったり、謎の「がまんの鬼」なるキャラクターも(由来がまったくわからないが、とにかくなんでも我慢する鬼だそうだ)いたりアミューズメントも充実。さすがTOKIO大仏。でもどこが日本三大? 日本三大オットコ前大仏ってことなのかな

買った場所

乗蓮寺(板橋区赤塚)
値段 400円

 東京大仏名物「がまんの鬼」。クロムハーツっぽくて思わず首にかけたくなるヤバメのデザイン。とにかく何にでも耐えるマッスルマン。でも、この表情はガマンもそろそろ限界?
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[42]2005年02月09日 01:44.
2002.11 『朝日新聞』

 僕は健康法は「商店街浴」だ。「商店街浴」、耳慣れぬ言葉だろう。当然だ。僕が作った言葉なのだから。とはいえ、こんな素晴らしい健康法が、なぜこれまで提唱されることがなかったのか、不思議でならない。

 「商店街浴」とは、日光浴、月光浴、海水浴、森林浴などと同じく、外気に身をさらすことでストレスを解消しながら、同時に有酸素運動を促進しアシコシを鍛えてゆく健康法である。

 他の「浴」たちと違っている点は、目にまばゆい緑や、胸をすく澄んだ空気、濁り詰まった血管を洗うようなおいしい清水、雄大な渓谷のワイドビューなどとまったく無関係だということだろう。歩くのは、大安売りを叫ぶガラガラ声や、脱力を強いられるゆるゆるのBGM(例えば大正琴インストゥルメンタルによりモーニング娘。)、呼び込みのしつこい風俗店の猥雑な光景などが交錯する、ゴチャゴチャ混沌とした商店街である。

 「そんなところを歩いて、健康にいいはずがない」とお怒りの声も聞こえてきそうだが、どうぞ落ち着いて。商店街浴には、いいところがあまりにもたくさんある。

 まず、けっこうな距離を歩いていながら、その間、退屈することがない。江東区にある直線型商店街の「砂町銀座」は全長670メートル。往復するだけで1.3キロメートル近くを歩くことになる。同じく直線型の商店街として有名なのは大阪の「天神橋筋商店街」だが、これなど端から端までぶらつくだけで2.6キロメートルもの歩行運動をしたことになる。こは大阪市北区を縦断するのと、ほぼ同じ距離!。

 直線型の商店街ですらこうなのだから、縦横にwebしてゆく品川区の「武蔵小山パルム商店街」~「戸越銀座」を完歩するとなると、翌日は筋肉痛必至である。僕のように俗っぽい人間は、同じ距離だけ山道を歩けと言われても、とてもじゃないが耐えられない。

 タオル一本を鞄にしのばせて歩けば、気の向いた銭湯で入浴できる。フィットネスのコースとして完璧だ。また古本屋にぶらり立ち寄れば、「こんな本が出てたんだ!」と知的好奇心が満たせる。明治・大正のゴージャスな看板建築がいまなお商店として機能している景趣に出くわすこともあり、目の保養になる。そして疲れたならば、ちんまり愛らしい喫茶店で、さきほどの古本をめくりながら甘苦いコーヒーをすすれば、また楽し。

 たとえ雨の日でもアーケードが張りめぐらされた商店街も多いので、徒歩可能。気候を選ばない。「ガシャーン!」「ガシャーン!」と次々にシャッターが開けられる朝は躍動感がほとばしり、ランチタイムにはウマイ料理のにおいで溢れ、奥様方の買い物で賑う夕げどきはほんのりイロっぽく、夜になると赤ちょうちんがまたたき、これまたオツ。商店街浴は時間さえも選ばないのだ(途中どうしてもカリッと揚がったコロッケのにおいに誘われ、つい食っちゃったりするのでダイエットには向かないが……)。

 そう、商店街浴のポイントは「生命力」の享受である。商店街は、売る人、買う人の生きざまの集結地帯。高度成長期を生き抜き、怪しいバブルの恩恵に目もくれず(ときに甘言に惑わされ)、死ねと言わんばかりの不景気に果敢に抗う人々の生きざまの、魂のぶつかりあいだ。商店街はパワー漲る日本の動脈。そこから発せられる生命力という名の壮絶な量のオーラを「浴びる」ことで、明日もまた、辛い現実に立ち向かえるのである。

 しかし、哀しいかな景気回復の美名のもと、駅前商店街はザックリえぐり取られ、複合型ショッピングモールへと姿を変えてゆく。そしてうまく集客できず、結局どこにでもあるディスカウントショップに店舗を明け渡すことになる。なんと寒々とした絵ヅラだろう。高齢者社会が進めば、今後もっとも重要視されるべきは商店と密着したコミュニケーションだ。「こんにちわ」「あら、もう風邪は治ったの?」という会話が日常に交わされていた、古いようでもっとも新しい「商店街」というスタイルは、なんとしてでも残さねばならなかったのに。コギレイなショッピングモールでは息ができない、猥雑な風情のなかでこそ心いやされる人々は確実に存在するのだ。たとえば、僕。

 商店街は日本の動脈。動脈硬化を防ぐためにも、僕は「商店街浴」を強くお勧めする。
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[43]2005年02月15日 01:27.
 これは2000年3月発売『音楽誌が書かないJポップ批評5』(宝島社)に書いた、古内東子の本『恋愛日和』の書評です。先日、「お前、なんで古内東子なんか好きなん?」と尋かれました。この原稿がその解答になれば(ならんならん)。

 それにしても、この頃の古内東子はホント良かった。電気ビリビリ電波ゆんゆん(でも結婚したら病気なおっちゃった。なーんだ、そんなもんか)。ではフルーティ東子の「狂った果実」な世界をお楽しみください。しかし、「東子」て!

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 古内東子の、およそ100曲に及ぶ恋愛の歌を聴き終え、彼女が自曲の解説という形を取りながら恋愛論を語った『恋愛日和』(祥伝社)を今やっと読了したところだ。正直、もうヘトヘト。フルマラソンを走りきったかのよう。いますぐ湯治に出かけたいほどくたくたである。

 それにしても、この文字の級数が極めて小さく、ビッシリギッチギチに語りおろされたこの恋愛論は凄い。自作曲について、こんなに言いたいことがある人は大瀧詠一、山下達郎、山本正之以来、いやそれ以上ではないだろうか。(他に幻冬社から『会えないときこそきれいでいよう』という本が出ているが、これは未読。しかしタイトルがすでに本の内容のすべてを語り尽くしているだろう。タイトルだけで読んだも同然だ)。

 そして毎日毎日、古内世界に浸りまくった感想をひとことで言うなら「怖い」。
 古内東子はホラーである。この怖さがどこから起因するのか。それは「20代女性の等身大の恋愛像を描くOLのカリスマ」と謳われる彼女だが、意外にも歌に対象となる男性の実像が見えないからだ。男性不在なのだ。まるで、喫茶店でコーヒーをふたつ頼んで、彼女だけに見えているらしい理想の男性と明るく談笑している女性のよう。
 「あのぅ、店長、あそこの席の人、さっきからずっと独りごとを言ってるんですけれど」
 「ああ、あの娘ね、毎日来てコーヒー2杯頼むんだよ。可哀想なコなんだ。そっとしておいてあげてヨ」
 と厨房でコソコソ話されている、そんな姿すら目に浮かんでくる。そして、そんな危険な古内世界に僕はすっかり虜になっている。メロウなサウンドとは裏腹の、恋愛過食症の果ての「妄想上のリアル」な設定に、瑠璃色のねじれた彼岸を見てしまうからだ。   
 まず彼女が貫く「リアル」なはずの恋愛世界の恐ろしいまでのリアリティのなさは、恋愛を数量に換算してしまうけったいな思考法にある。

 彼女は自著でこう語る。
「悲しいけれど、永遠に、相手のことを100%想い続けることは、まずないと思うのね。付き合いが進むにつれて、最初は100%だった愛情が、仕事に10%取られて、趣味に10%取られて、気が付けば80%になっている。片方が80%になったとき、もうひとりが100%だったっら、それはバランスが崩れてるわけでしょ」

 このあとも“恋愛バランス論”が延々と続き、対処法として「自分も80%までさげて相手に合わせる」という! ほかにも「女の子の9割が『彼氏のために可愛くならなきゃ』と思っている」「相手を待てる時間の限界は30分」と。

 そして彼女は、臨界点を15分越えて携帯に『今日は行けない』と男が連絡してきた実体験だけで『45分』という曲まで作ってしまう。そう、30分+臨界点15分という計算が、この曲だ。こうして彼女はどんどん恋愛を数値化して計測してていく。新譜『winter star』に収められた『45分』は、なんじゃそりゃと拍子抜けするほど他愛もない恋愛のワンシーンを歌ったものだが、彼女が唱えるマディな45分臨界説を踏まえると、一挙に聴き方がかわり、俄然味わいが深まる。もしや彼女は普段から架空の「私の恋愛公式を破ったしまうダメな人」を作り上げ、そこから生じる悲劇を甘~く味わっている人ではないかと。

 しかし、なんなのだろう、この換算は。ダイエット中の女性は菓子パンひとつ買う時でもパッケージ裏のカロリー成分表を見る。脂質が何グラムで、ナトリウムが何グラムでカロリー総量が352calだから、一緒に飲む牛乳は三分の一残さなきゃ、そうやって食生活のバランスを摂る事が思考根基になっている。そういった点では彼女の恋愛成分表はリーズナブルでわかりやすく、彼女が「OLの恋愛の教祖」と崇められる理由もひじょうによくわかる。

 しかし、恋愛はお料理じゃあるまいし、そんなカロリー計算ピッタリの男が存在し得るはずがない。近似値や概数の存在しない恋愛論、そこに圧倒的な男性の不在を見るのである。

 彼女のバランス感覚は秀逸だ。彼女の言葉を借りるなら、恋愛でもっとも重要視するのはプライオリティー(優先性)であると。だから
「多少の犠牲を払ってくれるとか、そういうことで100%の愛情を感じさせてほしい。例えば、私が出張に行ってるときに、そこまで日帰りでも会いに来てくれたりしたら、100%の愛情を感じ取れる」
 という。こういった論から生じるトゲトゲしい絵空事感を、ハーマン・ジャクソンらによるメロウなアレンジで見事に緩和してしまう。甘いサウンドに糖衣されたその中には、なんだかよくわからない恋愛化学式によってはじきだされた「男性がいないのに恋愛している気になってくる」劇薬が密んでいるのだ。

 古内ドラッグでトリップしたいならアルバム『恋』に収録された『どれくらい』という曲をお勧めする。
「どれくらいの想いでとどめれば、あなたを壊さないでいられるの」
 と、どれくらいどれくらいねぇどれくらいさぁどれくらいと数値を求める女が迫ってくる。背筋が凍るようなつぶやきで詰め寄ってくるこの曲には、ミザリーに比肩し得る恐怖があるから。
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[44]2005年02月17日 02:56.
 これは2001年5月、ネット古書街サイト『ふるほん横丁』に書いた原稿です。「BOOKりしたなもう」という連載でした。一日1500アクセスあるという大人気サイトであり、そこで好きな古本についてのエッセイを書かせてもらえることが嬉しかったです。

 いち執筆者という立場だったので「読み応えのある面白いサイトだなぁ」とのんきに読んでいたのですが、ネット古書店をよく思っていない店舗古書店や有料の古書検索サイトの管理人、思い上がった古書マニアから嫌がらせを受けたり掲示板を荒らされたり、内情はたいへんだったようです。
 結局、相継ぐいやがらせやお門違いの苦情の多さのため、このサイトはなくなりました。人気サイトの維持の難しさ、蛇のように執念深い(もちろん悪い意味で)ネットユーザーの存在を知りました。それまでインターネットってもっとクールなものだと思ってたけど、そうじゃないんだということを知りました。「インターネットって、ネットユーザーって、キショい」と思いはじめたのは、この頃だったと思います。
 いまはもう、そうは思ってません。キショいやつはネットどうこう関係なく、どこの世界に行ってもキショいのでしょう。

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 芸人にはコレクターが多いが、古書蒐集ナンバー1は、間違いなく河内音頭の河内家菊水丸だろう。

 河内音頭は日本の伝統歌舞音曲のなかでも極めて特異なジャンルだ。浪曲や講談に強い影響を受け、さらに時事根多(ネタ)が入ってくる。だから河内音頭の音頭取りは、ほとんど即興で謡わなければならない。えんえんアドリブで進行してゆくという、おそるべき音楽なのである。強引に例えれば、その日のニュースをエスノリズムをバックに何時間もラップをやっているようなもの。日本で大阪南部だけ異様にラガマフィン(レゲエ+ラップ)が盛んなのは、若者が河内音頭のDNAを受け継いでいるからだろう。

 河内音頭に関する資料は全体像が把握できないほど膨大な数にのぼる。菊水丸氏は日々全国の古書店や古書市、骨董市に繰り出し、明治から昭和初期にかけての速記本、元ネタになった国定忠次や清水次郎長伝などの時代小説、SPレコード、ライブテープなどを蒐集し、なんと2万点以上を蔵書。さらに京都の南山城村の自宅を改装し、地上一階・地下一階の『河内音頭の館』という私設博物館まで作ってしまった! 伝統芸能文化を絶やさじとする熱意たるや、叙勲に匹敵する偉業である。

 さては皆々様、ここまではいいのだ。ここでやめときゃいいのだが、菊水丸氏は河内音頭資料蒐集に輪をかけてお熱をあげて集めているものがある。彼はまた稀代の「アイドルコレクター」でもあるのだ。アイドルコレクターといってもレコードやグッズを並べるようなナマ易しいものではない。彼はなんとアイドルの「分泌液」を採集しているのである。

 テレビ局の控え室で一緒になった安室奈美恵の飲みかけのミネラルウオーターが欲しくて、彼女が席を立ったすきに、ボトルにフーフーと息を吹きかけ一旦ゴミ箱に落として持ち帰ったり(そのまま持ち去るとドロボウになるから)、小泉今日子のライブでは、汗をかいた彼女に手ぬぐいを差し出し、汗をぬぐったものを即ビニール袋に入れて持ち帰る。観月ありさがケーキをたべたあとのフォークを鞄に入れ、家に帰ってその部分をペロペロ。そう、まぎれもなく変態なのだ(しかもそれらは河内音頭の館に丁重に展示されている)。

 しかし、マニアの世界はさらに深い。菊水丸氏は極秘ルートで「松田聖子の噛んだガム」を入手。早速、知り合いのアイドル研究家に見せることにした。しかしただ見せては面白くないので、まず自分の噛んだガムを松田聖子のだと偽って差し出した。するとその研究家曰く「これは聖子ちゃんのではない!」と一発で見抜いたという。

 上には上がいる。いや下には下が、と言うべきか。
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[45]2005年02月24日 00:55.
 これは2002年11月に発売された別冊宝島『100万人のアイドルポップス』に書いた原稿です。文字数指定が異様に少なくて、書くのにえらい苦労したのが、まるで3年前のことのように思い出されます。ま、3年前なんですが。

■つちやかおり『秘密じゃないけど秘密』(1983) TO・ETP-17462

 金八先生のOBで、『ヤンヤン歌うスタジオ』のヨッちゃんの妹役を経てフックンの奥さんになった人。「オリエンタル・フィフティーズ・ブリッコソング」とも呼ぶべき奇妙な曲調を歌いこなす技量に改めて驚く。ちなみに長渕剛作曲。(吉村智樹)

■北原佐和子『スウィート・チェリーパイ』(1982) T・CE-504

 モデル3人で結成された“女たのきん"こと『パンジー』のリーダー格。タケカワユキヒデ作によるゆったりした曲調のうえで思う存分音程がグラつく。それゆえあまりに甘ずっぱく、胸キュンがパイのように多層構造で襲いかかる。(吉村智樹)

■杉浦幸『六本木十時軍』(1986) WP・L-1988

 のちに「アイドル時代は王様ゲーム三昧」とカムアウトし、パチドルに変貌したモモコクラブ初のヤンキー娘の将来を既に予言していたエルサレムをも焼き尽す壮絶歌唱曲。でも十時なんて彼女にとってまだ宵の口だったんだろうな。(吉村智樹)

■武田久美子『シャワーホリデー』(1983) WP・L-1631

 貝殻ばかり話題になる彼女だが、今じゃ地下声優アイドルでもなかなか聞けない金切り声寸前のロリボイスはもっと評価されていい。マッチのファンから送られたカミソリのシャワーを蹴散らす、気も遠のく超アッパーブリブリソング(吉村智樹)

■倉沢淳美『プロフィール』(1984) WP・L-1680

 「私はわらべのかなえじゃありません」とばかりに、題名通り生年月日から身長、果ては「自分のことは呼び捨てにしろ」「着やせするほうだ」と聞いてもいないことを延々答え続ける歌う履歴書。「伊代はまだ16だから」への返歌か? のちに“のぞみ"こと高部知子がもっと赤裸々なプロフィールを語ることになるのだから、わらべ恐るべし。映画のタイトルを連呼する『ある愛の詩』とともに、モンド歌謡として語り継がれるべし名迷盤。(吉村智樹)

■堀ちえみ『待ちぼうけ』(1982) CA・7A0210

 5人もの子供を抱えリアル天までとどけ状態の堀ちえみ。同期の中森明菜や小泉今日子らに比べ地味な印象を受けるが、84年、85年には『クレイジー・ラブ』『リ・ボ・ン』がたて続けにオリコン2位を記録。スチュワーデス物語以外でもちょっとしたちえみブームがあった。また初期のほんわか少女路線から、鮎川誠作のロックナンバー『Deadend Street Girl』、テクノ歌謡の『Wa!ショイ!』などジャンルも幅広く、最近ではコンプリートBO Xが発売されるなど再評価の声高い。作品的にも、まさに子だくさん。なかでも僕は彼女のほんわか天然ボケ世界を絶妙に表わした『待ちぼうけ』を推す。「デートの約束をしたの に彼が40分待っても来ない。仕方なく家に帰ったら、時計の針が2時間進んでた」という 、大木こだまでなくても「そんな奴おらへんやろ!」とツッコミたくなる漫才のオチみたいな詞。携帯電話がある今では再現不可能なノンキ節だ。作詞の竹内まりやは、のちにドジでノロマなカメと呼ばれる彼女のボケの才能をいち早く見抜き、鈴木茂がさらにハーフトーンなアレンジでネタを盛り上げる。87年に「胃が痛い」という名言を残しアイドル業を退き、大阪に戻ってからは1日5番組を掛け持ちする人気ナニワンママドルとして活躍。浪花漫才チックなこの曲を聴いていると、人にはそれぞれ合う水というものがあるのだと、つくづく。(吉村智樹)

■河合奈保子『ラブレター』(1981) C・AH-150

河合奈保子の経歴は異色づくめだ。「秀樹の妹募集」の応募テープから既に『オリビアを 聴きながら』をピアノで弾き語り。デビュー曲の『大きな森の小さなお家』を譜面で憶え周 囲を驚かせ、コンサートでは早くもマンドリンの腕前を披露。テレビで「わかんな~い」と首を振る姿の裏に潜む彼女のアーティスト性に括目した人は多く、それまでアイドルに曲を書いたことがなかった竹内まりやが「この子に自分の曲を歌ってほしい」と『けんかをや めて』を提供。そして86年の『ハーフムーン・セレナーデ』以降、殆どの曲が河合自身の作 曲となり、アイドル初の日本作曲家協会会員に認定。作られたアイドル像のアイコンと思われがちだが、彼女自身が自分のイメージを作っていたのだ。そういう点で「河合奈保子 から語られるアイドル観」がもっとあっていい。はっぴいえんど礼賛に行き着くばかりの 松田聖子史観は、もうウンザリ! 河合奈保子の凄さは『ラブレター』で存分に堪能できる。好きだけど、言えない、そんなちんまい切なさをハードロックばりのギターが、狂おしく乱れ打つパーカッションが、豪快なホーンが、クラスメイトの一致団結を思わせるブ厚いコーラスが、ナオコ・ファンカデリック軍団がUNバランスなまでに盛り上げる。こんな凄い曲を生バンドで歌えた時代を幸福な時代だと言いきって「疑問符」を打つ人がいるだろうか?(吉村智樹)
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[46]2005年03月02日 16:40.
 これは2002年3月に発売された、『モダン古書案内~昭和カルチャーの万華鏡 古くて新しい本のたのしみ』(マーブルトロン・中央公論新社)という共著に書いた原稿の一編です。1970年に開催された日本万国博覧会にまつわる本を紹介し、想い出を書きました。

 本文にも書きましたけど、僕が人に自慢できることは「万博に行ったこと」、後悔していることは「沖縄海洋博に行けなかったこと」、人生の汚点は「愛知デザイン博に行ったこと」です。

 しかし、なんだったんでしょう。あの万博のスゴさ。ライトショー、音響、アブストラクトデザインの嵐。国家事業でヤヴァいパーティやってたんですね。デザイナーやアーティストたちが、パンキッシュなまでに燃えるような才能をぶつけまくった、まさに博覧狂気な、万博。あんな時代、2度と来ないんだろうな。

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 37年も生きてきて、人に自慢できることといえば「万博に2回行った」、それだけだ。

 ジャスト1970年、日本万国博覧会、通称“万博”が開催。

 それまで長閑な田舎だった大阪・千里丘に、突如現れた、甲子園球場の83倍もの大怪獣バンパク。僕らナニワっ子はもちろん、全国の老若男女、いや世界中の人々がアレヨアレヨと飲み込まれた。いやもぉスゴかった!

 万博のテーマは「人類の進歩と調和」。

 しかし会場に足を踏み込めば、どこがどう調和やねん! とツッコミ倒したくなるほどの「乱調」ぶり。奇々怪々な形状のパビリオン群と先鋭的すぎるデザインの嵐。初めてナマで見るピカソやダリの絵画群、サンヨー『人間洗濯機』、豚の蚊取り線香立てが巨大化したような『ガス・パビリオン』(テーマは“笑いの世界”)、眼球が空中をさまようリコー館『天の目』、天井から豪雨のように数千の“受話器”がぶらさがった狂おしい『電気通信観』(すでに携帯電話の前身『ワイヤレスフォン』の展示も!)などなど、各々のパビリオンがコレデモカコレデモヨと自己顕示。全国津々浦々のお子さんからお年寄りまでが一同に、このサイケデリックでハッピーにもほどがある音と光とデザインの“レイブ”パーティに酔ったのだ。

 『せんい館』は鉄筋丸出しの未完成形をあえてさらけだし(コンパニオンの帽子はヘルメット!)、『三井グループ館』は24台の映像モニターに囲まれた観客席が回転&上昇。『三菱未来館』は暴風雨や火山の爆発を再現。驚いた観客がおしっこを漏らしたという。また脳味噌のような形状の『みどり館』は「アストラマ」なる全周囲映画に人々を閉じ込め、猛スピードで走る車の映像など観せ、驚いた観客はおしっこ以上のモノをもらした。

 そして極めつけが、ご存じ『太陽の塔』。

「ベラボーなものをつくらなければ」という岡本太郎のモットーは、雨をしのぐためのお祭り広場の屋根をブチ抜き、その意味を剥奪。他の施設との「調和」などナンセンスと考えた。岡本太郎だけじゃない。小松左京、堺屋太一、映画ゴジラのプロデューサー田中友幸、アヴァンギャルド映像作家の勅使河原宏、いち早く電子音楽を取り入れた黛敏郎、そして横尾忠則ら万博プロジェクトに参加したソリッドなクリエイターたちが、人類が進歩と調和を手に入れるには、まず固定概念を破壊すべし! とばかりにほとばしる衝動をこの祭りにぶつけた。

 そして、デザインとはこれほど刺激的であるのか、未来はこれほど官能的なのれしゅか、とイヤというほど体感し酔い痴れた幼い僕は『住友童話館』で迷子になった。あんときゃ恐怖の混雑ぶりで2度と家には帰れないと思ったけど、憧れの「迷子ワッペン」(カッコイイんだコレ!)をコンパニオンのお姉さんにつけてもらい、ちょっと嬉しかった。

 パビリオンの写真集を見返しても、ノスタルジィなど微塵も感じない。むしろ息を飲む新しさ。あれから人類は、進歩も調和もしなかったんだなぁ。太陽の塔に申し訳ないっすよ。
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[47]2005年03月07日 12:43.
 これは2002年3月に『sabra』に書いた、当時“美人巨乳女子高校生作家”と謳われた、綿谷りさタン、おっと綿谷りささんのインタビュー記事です。

 美人ったって実際に会えたわけではなく、インタビューも僕じゃなくて編集者がやって、そのテープを渡されただけ。テープを聴いてもインタビュアーが何を訊きたいんだかちっともわからないし(綿谷さん、困ってました)、待てども待てどもレイアウトがあがってこないは、納期はないは(なんと文字数が出て数時間後に締め切り!)、文字数はもらえないはで、慌ただしいだけで、なにがなんだかサッパリな仕事でした。ほんま、蹴りたいわ! おもろいこともなんともない原稿です。

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「チャットは日常から離れるための遊び道具だったんです」

 『インストール』で第38回文藝賞を受賞した綿谷りさ。この作品の話題が席巻したのは単に「最年少17歳での受賞」、のみではない。あまりに内容がショッキングだったのだ。

 登校拒否を決め込んだ女子高生が、ゴミ捨場で出会った醒めた小学生の誘いを受け、人妻風俗嬢と偽り風俗チャットで一儲けを企むという、純文学とエンタテインメントをグルーヴィに往き来するカオスな世界。

 一介の女子高生の想像力で補える物語とは、誰しも信じられなかった。さらに稀代の美少女作家ゆえ読み手の妄想は否応なく飛躍してゆく。

「いえ、すべて想像です。モデルもいません。この本で唯一、私の心情が入っていたとすれば『受験は大変だ』という、ただその一か所だけ」

 同世代の女子高生を主役にしながら自己投影することはなかったという。それなのに、このディティールの細やかさ。いったい、なぜ。

「高校一年生のときから母親のパソコンでインターネットばかりやってました。特にチャット。チャットは家や学校や、そういう日常とはぜんぜん離れていて、ほんまにバーチャルな遊び道具でした。毎日やっても遊び道具の域を越えなかった。プレステみたいなもの。だから小説でも、自分とはかけ離れた世界が書けたんだと思います」

 ネットに親しみながらも決して耽溺せず、俯瞰視する。だから冷徹にチャットの世界を描けた。ネットが生活の一部である女子高生たちに芽生えた、新たな感性なのだろう。
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[48]2005年03月09日 12:21.
 これは、いまはなきDVD&ビデオ専門雑誌『DVD&VIDEO野郎』に書いた原稿です。内容は哀川翔・松方弘樹W主演の映画『修羅のみち』のリポート。1日に大御所俳優・ ベテラン監督5人にいっぺんにインタビューし、緊張しまくりでした。哀川さんも松方さんも気さくでいい人だった。萩原流行さん、面白かったなぁ。それにしても渓谷での爆破シーンの迫力、一生忘れられない。いまだに爆音が耳の奥に残ってますよ。

 東京・多摩のはずれの「鳩ノ巣」というファンシーな名前の場所で、地名とは真逆の世界が展開されていました。鳩ノ巣は自然の光景のなかで爆破シーンが撮影できる都内唯一の場所だそうで、Vシネの撮影にもしょっちゅう使われているそうなので、一度訪れてみてはいかがでしょうか。キャンプの名所でもあります。
 いやぁ、いいお仕事をいただきました。

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 戦うことだけを運命づけられた鬼神を“修羅”という。そして東映映画『修羅のみち』シリーズは、ふたりの鬼神の激しい抗争を描いた痛快ノワール・アクションだ。

 方や“仁義礼智信”を重んじ、任侠道を貫く関東共生会本部長補佐・大神組二代目若頭の吉田晴男。
 演じるは出演本数130本以上を誇る極道ジャンル・ナンバー1の“漢”俳優・哀川翔。

 対するは「極道にキレイも汚いもあるかい!」をモットーに、極悪非道の限りを尽す、関西山王会きっての武闘派軍団・黒田組組長の黒田虎男。
 演じるは『仁義なき戦い』など日本映画の金字塔的作品で鮮烈なやくざ像を演じ続けた名優・松方弘樹。

 西と東の列島分断! 任侠の王道VS.腐れ外道! そして俳優としての意地を賭けた壮 絶なバトル! この映画は「巨星激突」なのだ。獅子座流星群は見逃しても、この巨星どうしのぶつかり合いを見過ごしては、末代まで後悔必至だ。

 そして、いよいよ待望の3作目『修羅のみち 広島四国全面戦争』が公開となる。
 奥多摩の某所で激しい銃撃戦と爆破シーンの撮影があると知った我々は、矢も盾もたまらず撮影現場に乗り込んだ。現場は今まさにクライマックスシーン撮影の真っ只中。ここもまたスタッフ一丸となって面白い作品を作るべく闘う、修羅場であった。

 この映画の観どころのひとつに松方弘樹の猛烈なワルぶりがある。
 ゼニのためなら手段を選ばず、“正道”を貫徹する哀川翔の命(タマ)を奪うためなら、どんな汚い手でも使う。松方氏がここまでヒールに徹した悪を演じるのは、なんと約30年ぶり。役作りのために、好きなお酒も絶って挑んでいるという。

松方「悪役はずっとやりたかったんですよ。以前NHKの大河ドラマで忠臣蔵を撮るときでも『ぜひ吉良上野介を演らせてくれ』って頼んだんです。でも『松方さんは正義のイメージだから』って断られてね。だから念願かなって嬉しいですよ。僕の眉毛、見てみて。ないでしょ。剃ったんですよ。どうしたら黒田が憎たらしく見えるか考えてね。役を掘り下げると敵対する翔ちゃんが際立つ。すると翔ちゃんも役を掘り下げてくる。それが映画の面白さだよね。お互いの存在を際立たせることが大事だと思うんですよ。今の世の中、魑魅魍魎で、何が正義か悪かわからない。だから映画はハッキリしきゃいけない」

 役づくりのために役者の命である顔の眉毛を落とすとは! 凄絶な意気込みだ。加えてアクションシーンの激しさには感服してしまう。インタビューした現場では、すさまじい銃撃戦のすえ血の飛沫が吹きまくり、松方氏の白いスーツは血のりで真っ赤に染まっていた。

松方「今回は吊り橋を爆破しますし、次回作では船のうえから落っこちちゃう(4作目も同時進行で撮影)。絶対いい加減にはできない。酒を抜いて挑まないと翔ちゃんに失礼ですよ。しかし演じてる本人が言うのもおかしいけれど、黒田はすごい男だね。普通だったら、とっくに死んでるよ(笑)」

 『修羅のみち』は迫真のアクションが尺の半分を占める痛快極まりない作品だが(しかもアクション場面は回を追うごとに過激に!)、この作品の魅力はこれにとどまらない。観るべきは宿命を背負った男たちのドラマ。それぞれが背負ったドラマが作品の滋味を深めている。今回キーパーソンとなるのが吉田と義兄弟の盃を交わした広島山鍋一家総長・山鍋一也。吉田との友情が今作の重要な縦軸となっているのだ。この広島一本どっこの心意気漲る山鍋を演じるのが今井雅之だ。

今井「もともとトレンディドラマとか苦手なんですよ(笑)。私生活でも恋愛より友情を大事に考える人間なので役にはすんなり入れました。男どうしの映画、大好きなんです」

 吉田組に友情があるなら、対する冷血な黒田組にもドラマがある。このシリーズ“名物”とも言えるヒットマン。今回は前シリーズ『修羅がゆく』で外道・伊能を好演した萩原流行がその役を演じる。1作目が佐藤蛾次郎、2作目は内田裕也と怪優続きだが、それまでが正体の定かでない謎の男であったのに較べ、萩原ヒットマンには複雑な背景があるのだ。

萩原「もともと黒田組の配下で、14年前に黒田のさしがねで他の組のやつのタマを取ってム所に入ってたのね。ところが出てきたら、自分の女を黒田に取られてた。組も壊滅させられてて。だから女を人質に取られてヒットマンになるんだけど結局は……(おっと、ここからは意外な逆転劇があるらしいのでオフコメ)。だからヒットマンにもストーリーがあるの。役作り? 特にない(笑)」

 そして、なんといってもこの作品に、思わず背筋が伸びるような気品、凛として筋を通しているのが当代きっての人気俳優・主役の哀川翔である。鉄砲玉役でこのジャンルを開拓した哀川氏の組長役は、氏を追い続けているファンには感慨深いものがあるのではないだろうか。

哀川「前シリーズ『修羅がゆく』に続いて組長役をやらせてもらってます。一周まわったって感じかな。本人はちっとも組長タイプじゃないんだけどね(笑)。ただ『修羅のみち』の吉田は、共生会の親分への恩義と子分への愛情と、人間の幅が広いよね。僕も年齢を重ねて、そういう役も捉えられるようになった。この映画の魅力? 小澤監督の歯切れのよい演出で白黒ハッキリしてるところじゃないかな。松方さんも『白なら白。黒なら黒。役をつきつめなきゃ』って繰り返しおっしゃってますし」

 役をつきつめる。『修羅のみち』が多くの人にカタルシスを与えているのは、見事なまでに両極端な男の生きざまの対比だ。殺しても死なない憎っくきダイハード黒田。黒田から受けた凶弾が今にも心臓に刺さりそうで、常に死と直面する哀しきヒーロー吉田。実に正統なヒーロー像である。

哀川「ただ誤解しないでほしいのは、僕は“正義”を演じてるつもりはないんだ。黒田も吉田も、どちらも全国制覇という野望があるのは変わりない。正義というより、いま忘れ去られてる義理人情、もっと言うと“魂”。みんな魂ってあるだろ? っていうのがこの役なんじゃないかな。映画では僕はシロとして描かれてますけど、現実に帰ってみると吉田のほうが時流に逆らってるんだよね。吉田のような男の気持ち、みんな忘れてないか? そういうことを見てもらう役だと思うんだ。アクションシーンの怪我ですか? ないです。特別に身体を鍛えたりもしてない。僕は年間300日は現場にいるから。現場が僕を鍛えるんですよ」

 そして最後に小澤啓一監督からお言葉をいただいた。小澤監督と言えば、かつては西部警察、そして『修羅がゆく』シリーズ計6作を撮りあげた「流血と爆破映像のエキスパート」である。

小澤「勧善懲悪のドラマじゃないんです。生きざまの違う男の“美学”を賭けた生死を決す戦い。世の中が鬱屈しているでしょう。この映画で閉塞した状況を吹っ飛ばせれば、と渾身の力でやってますよ」

 そう言って監督は、哀川・今井両氏を吹っ飛ばすために崖に爆薬を仕掛けるようスタッフに指示した。我々の期待も、もはや破裂寸前である!
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[49]2005年03月11日 20:16.
 これは2003年1月、ミュージックマガジン増刊号『ザ・ゴールデン80's』に書いた原稿。これは「80年代の洋楽大ヒットアルバムをもう一度振り返ろう」という企画。僕が紙媒体に書いた唯一の洋楽原稿。後にも先にも、これだけ。たまに、気まぐれにこんな原稿依頼もあるのです。カーマは気まぐれ。ま、それが珍しいってだけの原稿でして……。内容は特にどうっちゅうことなく……。

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■ロッド・スチュワート

『トゥナイト・アイム・ユアーズ』

 大酒飲みだが酒の席の約束は必ず守る。そしてズボンの寝押しは忘れない(憶測)。そんな几帳面セクシースターがハリウッド移住後遂に「叙情とロックンロール」の融合点を見つけた祝祭感に溢れる1枚。乾いたアメリカンロックサウンドと僅かに湿ったロッドの声が絶妙に絡まり、じゃがバターを頬張りながらロックショーを観ているよな、ほっこりした気分に。ブロンドだけでなく黒髪少女も包み込む大らかさ。嗚呼、抱かれたい(吉村智樹)。


■ブロンディ

『オートアメリカン』

 厳格な家庭に反発し、ひとり部屋で妄想し続けたロックGALが『Call Me』の大ヒットで、いよいよ「好きなことを思う存分やったる!」状態に。この作品はそんな妖女の幼女期の想いが爆発。懐メロチックなポップスから、レゲエを取り入れた『The Tide is High』(夢みるNo.1)、早くもラップに挑戦した『Rapture』など爽快なまでに統 一感を無視し、やりたい放題。なお『Call Me』は再 発CDのボーナストラックとして収録。(吉村智樹)

■ヨーロッパ

『ザ・ファイナルカウントダウン』

 森と湖に囲まれた宮殿で催すヘヴィメタル舞踏会へようこそ。27ヶ国でNo.1を記録したメガシングル『The Final Countdown』を冠 し、北欧重金属の味を地球全域に知らしめた、お国自慢名盤。まるで蝶ネクタイを締めているかのよに朗々とクトゥルー神話的世界を歌いあげるジョーイ・テンペスト、歌声をまろやかに包み込むジョン・ノーラムのストラト・トーンの匠の技。ハリーポッターがウケる今だからこそ再聴されるべき聖典だ。(吉村智樹)


■クワイエット・ライオット

『メタル・ヘルス』

 「あのランディ・ローズが一時期在籍した、らしいバンド」でしかなかったクワイエット・ライオットが、氏の飛行機事故による他界のため注目され、遂にヘヴィメタル初のビルボードTOP1に輝いた。全米で600万枚を売り尽くし、静かなる暴動どころの騒ぎではなくなったのがこのアルバムだ。シングルヒット『METAL HEALTH』『CUM ON FEEL THE NOISE』(原曲 はスレイド)の2曲はもとより全曲構成が豪快かつ端正で、コーラスの置き所、そして“血の騒ぎどころ”の配置も絶妙。LAメタルの中核を担うに充分な実力だったことがわかる。のちにランディ・ローズに続き元オジー・バンドのベーシストであるルディ・サーゾが脱退。完全に“サタニック隠し味抜き”になり一発屋呼ばわりされることになるのが残念。(吉村智樹)


■ストレイ・キャッツ

『ビルト・フォー・スピード』

 ストレイ・キャッツの登場は80年代の若者にとって音楽、ファッション、いや“青春”の全てに抵触する事件だった。恋愛の形まで変えてしまったバンドは当時ほかにないだろう。それほどネオロカのブームは凄かった。いや往時の若者にとって50~60年代のロカビリーを回顧するいとまなどなかったはず。あの野良猫達こそ「ピュアロカ」だった。だってストレイ・キャッツのサウンドには「新しい何かが始る予感」で一杯だったんだから! このアルバムは3rd.よりも早く発売されたベスト盤(2nd.に納得いかない彼らが急いで出したという噂)。胸の深いところを掻き毟る切ないグレッチの音は今も「こんなことしてていいんか俺は?」と人生を焦らせる。齢を重ねてもなおブライアン・セッツアーの熱い問いかけはやまない。(吉村智樹)
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[50]2005年03月15日 21:19.
 これは2003年2月、レコードショップ『JET SET』が発行していたフリーペーパー『CONTRAIL』に書いた一編。JET SETの在庫のなかから共通項のある5枚を探し出し、それをもとにエッセイを書くという連載でした。

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 いまからワケのわからないことを書くから、覚悟しやがれ。

 クレイジー・ケン・バンドは、なぜ人気があるのか。若造には醸し出せない中年男のダンディズム、ィヨコハマのエキゾチズム、いまはやりの昭和歌謡テイスト、永遠の不良スピリッツ、ジャズやボサノヴァなどオシャレな音も貪欲に取り入れる東洋一のサウンドクリエイター魂、などど世間は分析しているが、果たしてそうだろうか。

 僕はこう思う。「横山剣にホクロがあるから」。ほら、最初に言った通り、ワケわかんないでしょ?

 でも本当にそう思ってるんだ。僕もご多分に漏れずCKBが大好きだが、剣さんの鼻の横のゴージャスなホクロがなかったら、そんなに夢中になってなかったかもしれない。あのファイヤー&ドラゴン級のでっかいホクロがあるから、剣さんにはイカツイ存在感と色気があるんだ。顔にホクロのないのっぺりした、単なる中年のリーゼントのおっさんが『グランツーリズモ』や『発光! 深夜族』を歌っているところを想像してみて欲しい。そんなのただの外車屋オーナーの趣味バンド。顧客に無理やりチケット売りつけて渋谷の黒子おっとクロコダイルを満席にするのが関の山の、凡百のオールディーズバンドだ。ホクロから放たれる威圧感、素敵な「ウサンくささ」が、彼らを発光! ブレイクさせたのだ。ホクロは、得体の知れぬ力を秘めたビームを発射するレーザーポインターなのである(ありゃホクロではなくイボだという説もあるが)。

 そういえばこの冬、テレビで千昌夫と吉幾三が韓国を旅する紀行番組を観た。夕方の時間帯を穴埋めするための、かッなりどうでもいい番組だったが、それにしてもなんのフックもない内容だった。原因は千昌夫の眉間のホクロだ。ないのである。ホクロが。あの名物ホクロが。千昌夫といえば『千とホクロの金隠し』と呼ばれるほどのMr.ホクロマン。 氷室京介をヒムロックと呼ぶのと同様、千はホクロックと呼ばれてきた男だ(呼ばれてなかったっけ?)。その代名詞たるホクロを、千は取ってしまった。

 訊けば「実は永年ホクロが視界に入り、うっとうしくて仕方なかった」らしく除去手術を施したのだが、結果どうなったか。普通のおっさんである。普通のおっさんが普通に韓国の街を歩いているだけ。岩手弁も喋らずに。ホクロと同時に、芸能人の命たるオーラすら除去してしまっていたのだ。そんなもん観て、誰が面白いと思う? ホクロのない千昌夫など百昌夫ほどの価値もない。隣の吉幾三も気付いてるなら言ってやれよ。早くホクロをリフォームしようよ、と。それくらいホクロはスターにとって重要なアイテムなのだ。

 僕はどうもホクロのある人に強く魅かれる性質を持っているようだ。思えば、初恋の人もホクロちゃんだった。小学校のとき、好きな人ができた。その女の子は顔にはホクロはなかったが、膝小僧に大きな豆状のものがあった。僕はその膝のホクロが愛らしく思えてならなかった。もともと女の子がするリボンやピンどめやアップリケなどの装飾に異様にヨワいタチで、なかでも膝のホクロはとびきりキュートなチャームナップ・ワンポイントに見えた。ジュエリーと言ってもいい。そう、ホクロという名の宝石だ。

 しかし本人は相当気にしていたようで、ある日、彼女はイボコロリでそれを取ってしまったのだ。コロリと。イボでもないのに。それ以来、不思議なまでに彼女を想う気持ちが霧散してしまった。僕は彼女に恋をしていたのではなく、彼女のホクロに恋をしていたのだ。彼女本体が、僕のなかではアップリケを縫う土台でしかなかったのだ。

 自分にはカッコいいホクロがない。そういう引け目からだろうか、好きになったり気になって仕方ない芸能人は、ホクロ保持者が多かった。まず、テレビドラマというものに初めてハマったのが『飛び出せ! 青春』。この学園ドラマの教師を演じたのが村野武範。氏の眉間にはさん然と輝くホクロがあった。あのホクロがあったからこのドラマにレッツビギンしたのかもしれない。君はなにをいま見つめているの? もちろんホクロさ!

 その後、沢田研二が歌番組に頬のホクロにダイヤを貼りつけて出てきて、それがごっつセクシーでイカシていて、以来大ファンになった。ジュリ~! 樹木希林の気持ちがよーくわかった。山口百恵にはホクロはないが、大ヒット曲『イミテーションゴールド』で「声が違う歳が違う、ホクロが違う、アッアッアッ~」と去年のカレとの比較論を歌い、僕はそれを観て卒倒した。ホクロの違いがわかるってことは、裸! あの百恵ちゃんが、モモをほりだして、ヤラシイ営みをしているなんてぇええ~、と身体中に赤い激流が走った。そして、のちの南野陽子、キューティ鈴木と、夢中になった人はみなホクロちゃんだ。そういえば谷村有美も好きだったな。彼女の『しあわせの泣きぼくろ』という本、買いましたよ。いまモーニング娘。が好きなのもホクロ畑とも言える吉澤ひとみがいるからかもしれない。ホクロは「黒子」と書くが、黒子どころか僕には主役なのである。

 ではJET SET ONDEのストックのなかからホクロ盤を探してみよう。前述の横山剣といえば元クールス。だが剣さんの在籍していたポリスター時代のものがない。でもクールスはどれもイイので、買っておいて損はないですよ。次にホクロのロッカーと言えば、思いつくのが「GS界の真中瞳」こと元モップスの鈴木ヒロミツだが、これも今んとこない。

 残念だな……と探しているうちに、さすが驚異の品揃えのJET SET。ありました! まずは椎名林檎。林檎大好き! 椎名林檎ほどホクロの迫力が楽曲に影響しているアーティストはいないよ。もしも林檎にホクロがなかったら、いったいどうなってたか。ヤイコのパクリとかとんでもないこと言う奴が出て来かねないよ。それくらい説得力ある神々しいホクロだ。

 続いてザ・ピーナッツ。双子で、しかも目尻のホクロが左右逆という奇跡。ほんに、ため息の出るようなミラクル(ニセボクロ説あり)。あ! 当時「ちあきなおみ・森山加代子」と並んで三大ホクロ美人と呼ばれた中村晃子もあった。よく和モノレアグルーブ系のDJイベントで中村晃子のファッションをしてくるコがいるけど、中村晃子モデルの付けボクロしてこなきゃ完璧じゃないよ。'60sファッションを学ぶなら、彼女がヒロインで出演した映画『進め! ジャガーズ敵前上陸』がお進め、ならぬ、お薦め。カワイすぎてブッ倒れますよ。さらにおお! テキ屋で初の国民栄誉賞を受賞した、眉毛のホクロさえ描けば似顔絵ができあがる渥美清もある。あんなけっこう毛だらけパーフェクトなホクロの持ち主、いないっすよタコ社長!

 さて最後の一枚。これが困った。千昌夫でシメたいところなんだが、あんな味噌汁クサイ歌がJET SETのストックにあるはずもなく。と、再度探してみたところ、なぜかあるんだよなこれが。千昌夫じゃないけどコロッケが。しかも千昌夫のモノマネで吹き込んだ歌が。いつもながらここのストックの底知れなさに驚かされた。ホクローさまです。

 しかし本人がホクロ取っちゃったから、これから困るだろうな、どうするコロッケ。
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[51]2005年03月17日 01:30.
 鈴木亜美、無事エイベックスに移籍。長かったねぇ。新天地がラブ・アイランドであることを願うばかりです。そういうわけで、鈴木亜美にまつわる原稿が出てきましたので、アップします。これは2004年『ブレイクマックス』5月号に書いた原稿です。

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 鈴木亜美の復帰記者会見を観て、イラクで拘束された人質3人の会見とダブって仕方なかった。「同情されぬ被害者」というか……。会見がほぼ同時期だったこと、そしてどちらも復帰や帰国を祝うのもではなく、不透明な隠遁・拘束の期間をえぐりだそうとするものであったのも、なんという奇遇だろう。

 そもそもなぜ鈴木亜美には、こんなにもダーティなイメージがついてしまったのだろうか。「350万円もの高額な給料を要求した」「父親が銭ゲバだった」「娘の給料で世田谷に豪邸を建てた」など黒い噂が飛び交い(確かにそれらが事実である部分もなくはないだろうが)、それにともない長い間アーティスト活動ができなかった鈴木亜美。しかしこれは、そもそもは所属事務所エージーコミュニケーション社長の2億2000万円にものぼる法人税違反(脱税)から端を発し、不透明な給与明細の開示と契約終了の確認を要求したのみの、至極まっとうな裁判から始まったこと。つまり鈴木亜美は、当初はあきらかに被害者だったはずだ。いったいなぜ、こんなにもコジレてしまったのか。彼女の側にも本当に「自己責任」があったのか。ここでは鈴木一家が東京地裁に提訴した平成12年12月から今日までの、鈴木あみならぬ鈴木亜美という生き方を振り返ってみよう。

 今年4月22日、レコード会社ではなく文藝春秋社から“書籍扱い”として3年半ぶりにシングル『強いキズナ』をリリースした鈴木亜美。現在10万枚を出荷する大ヒット、ならぬ大ベストセラーとなった。アーティストがCDを書籍扱いで発売するのは、なんと森昌子以来だというから、これはひじょうに奇特なことなのだ。書籍ゆえオリコンにチャートインすることはないし、CDとしてなら決してメガヒットとは呼べない売り上げだ。しかし出版不況の書籍界ゆえ、大型書店では軒並みベスト3に入るなど、鈴木亜美の“新刊”は、おおいに話題となった。その話題は、曲よりも付属(いやメイン?)の写真集に掲載されたインタビュー記事の方に衆目が集まったのも、哀しい事実。やはりこれは、あくまで本なのだ。そしてそこには、謎を解く点と点を結ぶ発言が多数収録されていた。

 そもそも彼女がまだ「鈴木あみ」だった頃、事務所に対して不信感を抱いたのは金銭的なことではなく、歌手としてデビューしたのに、いつの間にかドラマやバラエティ番組の司会業でスケジュールが埋まってゆくことにあった。契約更新を前に路線を元に戻すことを求めた鈴木あみと事務所の間に話し合いがもたれたが、自分ではアーティストだと思っていた鈴木あみと、あくまでアイドルだと位置づける事務所の思惑が食い違い、決裂。

 ここに相談役として弁護士が登場。この弁護士が「契約の書類が切れているから話し合いは難しい」と裁判を持ちかける。この裁判が鈴木あみに3年半もの活動停止をもたらすものとなるとは、本人もまだ知る由もなかった。「未成年のあみに出廷させるわけにはいかない」と父親が出廷し、のちにバッシングの嵐が吹き荒れたのも、別の会社に移籍するわけでもないのに所属のレコード会社ソニーミュージックエンタテインメント(以下SME)にアーティスト自ら専属契約の終了確認を求める前代未聞の裁判に発展したのも、吉本興業への移籍に動いたのも、実はこの弁護士の示唆だったのだ。オウム裁判でもわかる通り、弁護士が裁判の長期化を狙うのは、よくあること。鈴木あみは「次の裁判ですべて終わるから」という言葉を信じ、長い長い自宅待機となった。

 そして平成13年3月、鈴木あみはすべての仕事を失うことになる。皮肉にも最後期の仕事は歌手活動とは関係ない、BSフジ『アイドルダウンロードショー』でのお料理対決と、NHKのドラマ『深く潜れ~新宿八犬伝2001』での千原浩史とのキスシーンだった。まさに「深く潜った」のである。

 その後、平成14年7月に文藝春秋社より『亜美 '02夏』を出版。これにともない芸名を本名の「亜美」に変更。同年11月、公式ホームページを立ちあげ、「亜美」への改称を正式発表。二日間で10万ものアクセスを記録する。平成15年3月に、SMEとの訴訴で、鈴木一家側の主張が認められる一審判決。SMEはこれに「アーティトとマネジメント側が契約を終了しただけで、レコード会社との契約は継続している」と控訴。同年9月、文藝春秋社よりDVD&写真集『ami book』を発売。平成15年11月、弁護士を変え、SMEとの和解成立。翌月に契約解消。そして今年4月に晴れて『強いキズナ』が発売となった。しかし大手レコード会社まで相手取り訴訟しまくった鈴木亜美の行動を怖れてか、新たに契約に乗りだすレコード会社もプロダクションも、未だまったくない。

 いろいろ、あった。一介のアイドルがかぶるには、ありすぎるほどの波乱である。実はこの『強いキズナ』も、インディーズレーベルから発売する予定で一年前に作られた曲。これも裁判の長期化から、お流れになっていた。じつに「もろいキズナ」のうえでできた曲なのである。鈴木あみ&亜美へのバッシュは「大きいものへ逆らうと、酷い目にあうよ」という見せしめのように思えてならない。マスコミが同調して鈴木一家を攻撃したのも、大きな敵に対してパンクな行動をとったひとりの少女に「大人に逆らうんじゃないよ、お嬢ちゃん」と鼻でせせら笑う、卑劣なものを感じてしまう。実際彼女たち家族は、マスコミに煽動された一般人から、真夜中にしつこく呼び鈴を押される被害に遭っている。

 では、鈴木亜美側になんら問題はなかったのか。僕は彼女にもまた、果たすべき自己責任の放棄、責任転嫁を感じるのだ。「私と同じ年齢の子が経験しなくていいことを経験しちゃった」「気づいたら裁判が起きてた」「私は歌がうたえればいいと思ってただけだったから」「裁判が終われば歌えるって言われてたから」「いつか自分の口から話せる日が来ることを信じてた」。彼女の語る言葉には、どこか他人事の感があるのだ。このたびの復帰で『アッコにおまかせ!』に出演した彼女は、「年をとったら、ピアノを弾きながらジャズを歌いたい」と語った。そういった姿形だけカッコイイ姿をうすぼんやり想起するのみで、実際にジャズが好きだったりジャズを勉強しているわけではない。

 なんだろう、この現実感のともなわない浮ついた感じは。確かに『ASAYAN』で華々しくデビューしたシンデレラストーリーに、のちに「裁判」「書類」「契約」「起訴」などのカタい熟語が書き込まれるとは夢にも思わなかっただろう。未成年だからと出廷させなかった親御さんたちの気持ちもわかる。しかし、彼女はもう22歳。この二年は自ら出廷すべきだった。そして「いつか自分の口で語る」日は、もう来ている。いまがその時のハズなのだ。そう、彼女が鈴木あみだった頃に出した最後のシングル、タイトルは『リアリティ』である。彼女はすでに自分が今後すべきことについて、歌っていたのだ。
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[52]2005年03月19日 01:04.
 おれの好きな言葉は寺山修司の「人生は平均値ではない」です。でも現在は平均値を大事に生きることがもっとも良いとされているからな。すごくいいことがあっても、「いいことがあると、そのあと悪いことがある。油断するな。慢心するな」という考え方が蔓延っているじゃないですか。あとあとのことなど気にせず、有頂天になったり天狗になったりする一夜があってこその人生だと、おれは思うんですが、どうやら違うようです。

 というわけで、これは2003年1月『漫画ナックルズ』に書いた、ワイルドなスポットの喫茶店をめぐる連載の一編。寺山修司の言葉をもとに書きました。ただ掲載されたものはリライト要請を受けて書き直しているため、この原稿ではありません。ゆえに初公開ということになります。だからどうっちゅうこともないんですが……。

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 巨大場外馬券場「WINS」。東京には11箇所のWINSがあるが、とりわけ異彩を放つのが立川WINS。なんせ広漠たる多摩地区で、場外馬券場といえば、ここのみ。郊外の人々にとって立川は公営博打の聖地なのだ。

 立川WINSの特徴は、周辺にズバリ「WINS通り」と名付けられた幾筋もの博徒ストリートがあることだろう。WINS本館の膝元には「必勝ラーメン」「大吉」「すじ魂」「勝庵」とゲンを担ぎまくった店名の飲食店がズラリ並び、ワキには風俗店がいたるところに。勝負に勝てばヌキ天国、負ければ涙にむせびラーメンを。この街は競馬を中心に見事に循環している。

 馬券場周辺の喫茶店は、まるで義務規定でもあるかのごとく競馬専門CS「グリーンチャ="letter-spacing:0px;"/>
 では、鈴木亜美側になんら問題はなかったのか。僕は彼女にもまた、果たすべき自己責任の放棄、責任転嫁を感じるのだ。「私と同じ年齢の子が経験しなくていいことを経験しちゃった」「気づいたら裁判が起きてた」「私は歌がうたえればいいと思ってただけだったから」「裁判が終われば歌えるって言われてたから」「いつか自分の口から話せる日が来ることを信じてた」。彼女の語る言葉には、どこか他人事の感があるのだ。このたびの復帰で『アッコにおまかせ!』に出演した彼女は、「年をとったら、ピアノを弾きながらジャズを歌いたい」と語った。そういった姿形だけカッコイイ姿をうすぼんやり想起するのみで、実際にジャズが好きだったりジャズを勉強しているわけではない。

 なんだろう、この現実感のともなわない浮ついた感じは。確かに『ASAYAN』で華々しくデビューしたシンデレラストーリーに、のちに「裁判」「書類」「契約」「起訴」などのカタい熟語が書き込まれるとは夢にも思わなかっただろう。未成年だからと出廷させなかった親御さんたちの気持ちもわかる。しかし、彼女はもう22歳。この二年は自ら出廷すべきだった。そして「いつか自分の口で語る」日は、もう来ている。いまがその時のハズなのだ。そう、彼女が鈴木あみだった頃に出した最後のシングル、タイトルは『リアリティ』である。彼女はすでに自分が今後すべきことについて、歌っていたのだ。
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[52]2005年03月19日 01:04.
 おれの好きな言葉は寺山修司の「人生は平均値ではない」です。でも現在は平均値を大事に生きることがもっとも良いとされているからな。すごくいいことがあっても、「いいことがあると、そのあと悪いことがある。油断するな。慢心するな」という考え方が蔓延っているじゃないですか。あとあとのことなど気にせず、有頂天になったり天狗になったりする一夜があってこその人生だと、おれは思うんですが、どうやら違うようです。

 というわけで、これは2003年1月『漫画ナックルズ』に書いた、ワイルドなスポットの喫茶店をめぐる連載の一編。寺山修司の言葉をもとに書きました。ただ掲載されたものはリライト要請を受けて書き直しているため、この原稿ではありません。ゆえに初公開ということになります。だからどうっちゅうこともないんですが……。

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 巨大場外馬券場「WINS」。東京には11箇所のWINSがあるが、とりわけ異彩を放つのが立川WINS。なんせ広漠たる多摩地区で、場外馬券場といえば、ここのみ。郊外の人々にとって立川は公営博打の聖地なのだ。

 立川WINSの特徴は、周辺にズバリ「WINS通り」と名付けられた幾筋もの博徒ストリートがあることだろう。WINS本館の膝元には「必勝ラーメン」「大吉」「すじ魂」「勝庵」とゲンを担ぎまくった店名の飲食店がズラリ並び、ワキには風俗店がいたるところに。勝負に勝てばヌキ天国、負ければ涙にむせびラーメンを。この街は競馬を中心に見事に循環している。

 馬券場周辺の喫茶店は、まるで義務規定でもあるかのごとく競馬専門CS「グリーンチャ="letter-spacing:0px;"/> では、鈴木亜美側になんら問題はなかったのか。僕は彼女にもまた、果たすべき自己責任の放棄、責任転嫁を感じるのだ。「私と同じ年齢の子が経験しなくていいことを経験しちゃった」「気づいたら裁判が起きてた」「私は歌がうたえればいいと思ってただけだったから」「裁判が終われば歌えるって言われてたから」「いつか自分の口から話せる日が来ることを信じてた」。彼女の語る言葉には、どこか他人事の感があるのだ。このたびの復帰で『アッコにおまかせ!』に出演した彼女は、「年をとったら、ピアノを弾きながらジャズを歌いたい」と語った。そういった姿形だけカッコイイ姿をうすぼんやり想起するのみで、実際にジャズが好きだったりジャズを勉強しているわけではない。

 なんだろう、この現実感のともなわない浮ついた感じは。確かに『ASAYAN』で華々しくデビューしたシンデレラストーリーに、のちに「裁判」「書類」「契約」「起訴」などのカタい熟語が書き込まれるとは夢にも思わなかっただろう。未成年だからと出廷させなかった親御さんたちの気持ちもわかる。しかし、彼女はもう22歳。この二年は自ら出廷すべきだった。そして「いつか自分の口で語る」日は、もう来ている。いまがその時のハズなのだ。そう、彼女が鈴木あみだった頃に出した最後のシングル、タイトルは『リアリティ』である。彼女はすでに自分が今後すべきことについて、歌っていたのだ。
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[52]2005年03月19日 01:04.
 おれの好きな言葉は寺山修司の「人生は平均値ではない」です。でも現在は平均値を大事に生きることがもっとも良いとされているからな。すごくいいことがあっても、「いいことがあると、そのあと悪いことがある。油断するな。慢心するな」という考え方が蔓延っているじゃないですか。あとあとのことなど気にせず、有頂天になったり天狗になったりする一夜があってこその人生だと、おれは思うんですが、どうやら違うようです。

 というわけで、これは2003年1月『漫画ナックルズ』に書いた、ワイルドなスポットの喫茶店をめぐる連載の一編。寺山修司の言葉をもとに書きました。ただ掲載されたものはリライト要請を受けて書き直しているため、この原稿ではありません。ゆえに初公開ということになります。だからどうっちゅうこともないんですが……。

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 巨大場外馬券場「WINS」。東京には11箇所のWINSがあるが、とりわけ異彩を放つのが立川WINS。なんせ広漠たる多摩地区で、場外馬券場といえば、ここのみ。郊外の人々にとって立川は公営博打の聖地なのだ。

 立川WINSの特徴は、周辺にズバリ「WINS通り」と名付けられた幾筋もの博徒ストリートがあることだろう。WINS本館の膝元には「必勝ラーメン」「大吉」「すじ魂」「勝庵」とゲンを担ぎまくった店名の飲食店がズラリ並び、ワキには風俗店がいたるところに。勝負に勝てばヌキ天国、負ければ涙にむせびラーメンを。この街は競馬を中心に見事に循環している。

 馬券場周辺の喫茶店は、まるで義務規定でもあるかのごとく競馬専門CS「グリーンチャ="letter-spacing:0px;"/>
 なんだろう、この現実感のともなわない浮ついた感じは。確かに『ASAYAN』で華々しくデビューしたシンデレラストーリーに、のちに「裁判」「書類」「契約」「起訴」などのカタい熟語が書き込まれるとは夢にも思わなかっただろう。未成年だからと出廷させなかった親御さんたちの気持ちもわかる。しかし、彼女はもう22歳。この二年は自ら出廷すべきだった。そして「いつか自分の口で語る」日は、もう来ている。いまがその時のハズなのだ。そう、彼女が鈴木あみだった頃に出した最後のシングル、タイトルは『リアリティ』である。彼女はすでに自分が今後すべきことについて、歌っていたのだ。
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[52]2005年03月19日 01:04.
 おれの好きな言葉は寺山修司の「人生は平均値ではない」です。でも現在は平均値を大事に生きることがもっとも良いとされているからな。すごくいいことがあっても、「いいことがあると、そのあと悪いことがある。油断するな。慢心するな」という考え方が蔓延っているじゃないですか。あとあとのことなど気にせず、有頂天になったり天狗になったりする一夜があってこその人生だと、おれは思うんですが、どうやら違うようです。

 というわけで、これは2003年1月『漫画ナックルズ』に書いた、ワイルドなスポットの喫茶店をめぐる連載の一編。寺山修司の言葉をもとに書きました。ただ掲載されたものはリライト要請を受けて書き直しているため、この原稿ではありません。ゆえに初公開ということになります。だからどうっちゅうこともないんですが……。

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 巨大場外馬券場「WINS」。東京には11箇所のWINSがあるが、とりわけ異彩を放つのが立川WINS。なんせ広漠たる多摩地区で、場外馬券場といえば、ここのみ。郊外の人々にとって立川は公営博打の聖地なのだ。

 立川WINSの特徴は、周辺にズバリ「WINS通り」と名付けられた幾筋もの博徒ストリートがあることだろう。WINS本館の膝元には「必勝ラーメン」「大吉」「すじ魂」「勝庵」とゲンを担ぎまくった店名の飲食店がズラリ並び、ワキには風俗店がいたるところに。勝負に勝てばヌキ天国、負ければ涙にむせびラーメンを。この街は競馬を中心に見事に循環している。

 馬券場周辺の喫茶店は、まるで義務規定でもあるかのごとく競馬専門CS「グリーンチャ="letter-spacing:0px;"/> なんだろう、この現実感のともなわない浮ついた感じは。確かに『ASAYAN』で華々しくデビューしたシンデレラストーリーに、のちに「裁判」「書類」「契約」「起訴」などのカタい熟語が書き込まれるとは夢にも思わなかっただろう。未成年だからと出廷させなかった親御さんたちの気持ちもわかる。しかし、彼女はもう22歳。この二年は自ら出廷すべきだった。そして「いつか自分の口で語る」日は、もう来ている。いまがその時のハズなのだ。そう、彼女が鈴木あみだった頃に出した最後のシングル、タイトルは『リアリティ』である。彼女はすでに自分が今後すべきことについて、歌っていたのだ。
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[52]2005年03月19日 01:04.
 おれの好きな言葉は寺山修司の「人生は平均値ではない」です。でも現在は平均値を大事に生きることがもっとも良いネル」が放映され、競馬新聞、勝ち馬投票券が完備されている。客は競馬新聞を睨みながら、慌ただしく軽食をかき込む。赤鉛筆とフォークの二刀流は見ていて惚れ惚れ。

 なかでもお薦めなのが『喫茶&パブ パッション』。

 個室ビデオ&媚薬ショップの隣という最高のシチュエーションにあるこの店は、先述の競馬ファン御用達アイテムを当然フル完備。それでいてママの趣味である手作りカントリーふう雑貨で溢れ、さらに夜はスナックに変身するためサントリーの角瓶が並ぶという三律背反な混沌ブリに驚かされる。

 ボリューム満点のナポリタン(900円)をいただいていると、どうやらハズしたらしい男がカウンター越しに甘えた声でママに「いいんだもん。俺ぁ12Rなんて真剣にやってねーんだもん」と強がる声が聞こえた。するとママが「競馬は勝った時に喜べれば、それでいいのよ」と慰めた。寺山修司の名言「競馬はトータルで勝ったか負けたかが重要なのではない。人生は平均値ではない」に通ずる精神だ。

 僕はこのママに「タチカワプリンセス」という称号を与えたい。
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[53]2005年03月22日 01:36.
 これは2002年10月「JET SET」が発行していたフリーペーパー『CONTRAIL』に書いた原稿。JET SETの在庫のなかから共通項のある5枚を見つけ出し、それをもとに音楽エッセイを書く、というものでした。が、5枚の共通項をひねり出すのが精一杯で、肝心の音楽のことはサッパリなんも書いてないです。

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「逃げっぷりのいい人たち」

 皆さんは、「ある日突然、友達がなんの前ぶれもなく姿を消してしまう」という経験をしたことはないだろうか。クラスメイトが、会社の同僚が、バイト先の仲間が、バンドメンバーが、クラブで知りあい、いつも仲良く好きな音楽について話をしていた友達が、そして恋人が、忽然と姿を消してしまう。そんな経験がおありではないだろうか。

 あれは小学校4年生の、まさにこの季節。突然クラスのとある女の子が学校に来なくなった。当然クラスは彼女の話題で持ち切り。「転校したんじゃないの?」「転校だったら、お別れ会とかするだろが」「病気か」「登校拒否じゃない?」「まさか……死んだんじゃ……」。確かにそれは不思議な出来事だった。病気や不登校なら、先生が家庭訪問をするだろう。行方不明なら捜索願いを出さなきゃ。しかし先生は彼女について口を閉ざすばかり。何も言ってはくれない。

 決して目立つことのなかった彼女は、「いない」ということで逆に存在感を増大させた。ちょうどオカルトブームだったことも手伝い、いつの間にやら「彼女は宇宙人だった」というスターボーな結論で皆、納得。それから僕らはウマい給食を食べたり女子の着替えを覗いたりするのに忙しくなり、宇宙に帰還した彼女のことをスッカリ忘れたまま卒業した。

 そして27年の歳月を経て、遂に彼女が姿を消した理由が発覚した。夜逃げだった。先日、往時の同級生と飲む機会があり、彼は急にこんなことを言い出したのだ。「突然いなくなった女の子、おったやろ」「いたいた!」「あの子が夜逃げするところ、俺、見たんや」。

 彼曰く、女の子の家族は真夜中、リヤカーに家財道具を積み込み、坂を登っていた。父親がリヤカーを引き、母親、女の子、その子の弟が後ろから荷台を押している。あまりにもザ・昭和の現風景に遭遇した彼は、その場に立ちすくんだ。思わず「よ! 夜逃げ屋!」と声をかけたくなるほど完成度の高い夜逃げスタイルに見蕩れていたと言った方がいいかも。「なんでクラスの皆に言わんかった?」「うん……たまたま、まったく別の街で、その子とe="letter-spacing:0px;"/>
 なかでもお薦めなのが『喫茶&パブ パッション』。

 個室ビデオ&媚薬ショップの隣という最高のシチュエーションにあるこの店は、先述の競馬ファン御用達アイテムを当然フル完備。それでいてママの趣味である手作りカントリーふう雑貨で溢れ、さらに夜はスナックに変身するためサントリーの角瓶が並ぶという三律背反な混沌ブリに驚かされる。

 ボリューム満点のナポリタン(900円)をいただいていると、どうやらハズしたらしい男がカウンター越しに甘えた声でママに「いいんだもん。俺ぁ12Rなんて真剣にやってねーんだもん」と強がる声が聞こえた。するとママが「競馬は勝った時に喜べれば、それでいいのよ」と慰めた。寺山修司の名言「競馬はトータルで勝ったか負けたかが重要なのではない。人生は平均値ではない」に通ずる精神だ。

 僕はこのママに「タチカワプリンセス」という称号を与えたい。
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[53]2005年03月22日 01:36.
 これは2002年10月「JET SET」が発行していたフリーペーパー『CONTRAIL』に書いた原稿。JET SETの在庫のなかから共通項のある5枚を見つけ出し、それをもとに音楽エッセイを書く、というものでした。が、5枚の共通項をひねり出すのが精一杯で、肝心の音楽のことはサッパリなんも書いてないです。

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「逃げっぷりのいい人たち」

 皆さんは、「ある日突然、友達がなんの前ぶれもなく姿を消してしまう」という経験をしたことはないだろうか。クラスメイトが、会社の同僚が、バイト先の仲間が、バンドメンバーが、クラブで知りあい、いつも仲良く好きな音楽について話をしていた友達が、そして恋人が、忽然と姿を消してしまう。そんな経験がおありではないだろうか。

 あれは小学校4年生の、まさにこの季節。突然クラスのとある女の子が学校に来なくなった。当然クラスは彼女の話題で持ち切り。「転校したんじゃないの?」「転校だったら、お別れ会とかするだろが」「病気か」「登校拒否じゃない?」「まさか……死んだんじゃ……」。確かにそれは不思議な出来事だった。病気や不登校なら、先生が家庭訪問をするだろう。行方不明なら捜索願いを出さなきゃ。しかし先生は彼女について口を閉ざすばかり。何も言ってはくれない。

 決して目立つことのなかった彼女は、「いない」ということで逆に存在感を増大させた。ちょうどオカルトブームだったことも手伝い、いつの間にやら「彼女は宇宙人だった」というスターボーな結論で皆、納得。それから僕らはウマい給食を食べたり女子の着替えを覗いたりするのに忙しくなり、宇宙に帰還した彼女のことをスッカリ忘れたまま卒業した。

 そして27年の歳月を経て、遂に彼女が姿を消した理由が発覚した。夜逃げだった。先日、往時の同級生と飲む機会があり、彼は急にこんなことを言い出したのだ。「突然いなくなった女の子、おったやろ」「いたいた!」「あの子が夜逃げするところ、俺、見たんや」。

 彼曰く、女の子の家族は真夜中、リヤカーに家財道具を積み込み、坂を登っていた。父親がリヤカーを引き、母親、女の子、その子の弟が後ろから荷台を押している。あまりにもザ・昭和の現風景に遭遇した彼は、その場に立ちすくんだ。思わず「よ! 夜逃げ屋!」と声をかけたくなるほど完成度の高い夜逃げスタイルに見蕩れていたと言った方がいいかも。「なんでクラスの皆に言わんかった?」「うん……たまたま、まったく別の街で、その子とe="letter-spacing:0px;"/> なかでもお薦めなのが『喫茶&パブ パッション』。

 個室ビデオ&媚薬ショップの隣という最高のシチュエーションにあるこの店は、先述の競馬ファン御用達アイテムを当然フル完備。それでいてママの趣味である手作りカントリーふう雑貨で溢れ、さらに夜はスナックに変身するためサントリーの角瓶が並ぶという三律背反な混沌ブリに驚かされる。

 ボリューム満点のナポリタン(900円)をいただいていると、どうやらハズしたらしい男がカウンター越しに甘えた声でママに「いいんだもん。俺ぁ12Rなんて真剣にやってねーんだもん」と強がる声が聞こえた。するとママが「競馬は勝った時に喜べれば、それでいいのよ」と慰めた。寺山修司の名言「競馬はトータルで勝ったか負けたかが重要なのではない。人生は平均値ではない」に通ずる精神だ。

 僕はこのママに「タチカワプリンセス」という称号を与えたい。
.
[53]2005年03月22日 01:36.
 これは2002年10月「JET SET」が発行していたフリーペーパー『CONTRAIL』に書いた原稿。JET SETの在庫のなかから共通項のある5枚を見つけ出し、それをもとに音楽エッセイを書く、というものでした。が、5枚の共通項をひねり出すのが精一杯で、肝心の音楽のことはサッパリなんも書いてないです。

 ▼ ▼ ▼

「逃げっぷりのいい人たち」

 皆さんは、「ある日突然、友達がなんの前ぶれもなく姿を消してしまう」という経験をしたことはないだろうか。クラスメイトが、会社の同僚が、バイト先の仲間が、バンドメンバーが、クラブで知りあい、いつも仲良く好きな音楽について話をしていた友達が、そして恋人が、忽然と姿を消してしまう。そんな経験がおありではないだろうか。

 あれは小学校4年生の、まさにこの季節。突然クラスのとある女の子が学校に来なくなった。当然クラスは彼女の話題で持ち切り。「転校したんじゃないの?」「転校だったら、お別れ会とかするだろが」「病気か」「登校拒否じゃない?」「まさか……死んだんじゃ……」。確かにそれは不思議な出来事だった。病気や不登校なら、先生が家庭訪問をするだろう。行方不明なら捜索願いを出さなきゃ。しかし先生は彼女について口を閉ざすばかり。何も言ってはくれない。

 決して目立つことのなかった彼女は、「いない」ということで逆に存在感を増大させた。ちょうどオカルトブームだったことも手伝い、いつの間にやら「彼女は宇宙人だった」というスターボーな結論で皆、納得。それから僕らはウマい給食を食べたり女子の着替えを覗いたりするのに忙しくなり、宇宙に帰還した彼女のことをスッカリ忘れたまま卒業した。

 そして27年の歳月を経て、遂に彼女が姿を消した理由が発覚した。夜逃げだった。先日、往時の同級生と飲む機会があり、彼は急にこんなことを言い出したのだ。「突然いなくなった女の子、おったやろ」「いたいた!」「あの子が夜逃げするところ、俺、見たんや」。

 彼曰く、女の子の家族は真夜中、リヤカーに家財道具を積み込み、坂を登っていた。父親がリヤカーを引き、母親、女の子、その子の弟が後ろから荷台を押している。あまりにもザ・昭和の現風景に遭遇した彼は、その場に立ちすくんだ。思わず「よ! 夜逃げ屋!」と声をかけたくなるほど完成度の高い夜逃げスタイルに見蕩れていたと言った方がいいかも。「なんでクラスの皆に言わんかった?」「うん……たまたま、まったく別の街で、その子とe="letter-spacing:0px;"/>
 個室ビデオ&媚薬ショップの隣という最高のシチュエーションにあるこの店は、先述の競馬ファン御用達アイテムを当然フル完備。それでいてママの趣味である手作りカントリーふう雑貨で溢れ、さらに夜はスナックに変身するためサントリーの角瓶が並ぶという三律背反な混沌ブリに驚かされる。

 ボリューム満点のナポリタン(900円)をいただいていると、どうやらハズしたらしい男がカウンター越しに甘えた声でママに「いいんだもん。俺ぁ12Rなんて真剣にやってねーんだもん」と強がる声が聞こえた。するとママが「競馬は勝った時に喜べれば、それでいいのよ」と慰めた。寺山修司の名言「競馬はトータルで勝ったか負けたかが重要なのではない。人生は平均値ではない」に通ずる精神だ。

 僕はこのママに「タチカワプリンセス」という称号を与えたい。
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[53]2005年03月22日 01:36.
 これは2002年10月「JET SET」が発行していたフリーペーパー『CONTRAIL』に書いた原稿。JET SETの在庫のなかから共通項のある5枚を見つけ出し、それをもとに音楽エッセイを書く、というものでした。が、5枚の共通項をひねり出すのが精一杯で、肝心の音楽のことはサッパリなんも書いてないです。

 ▼ ▼ ▼

「逃げっぷりのいい人たち」

 皆さんは、「ある日突然、友達がなんの前ぶれもなく姿を消してしまう」という経験をしたことはないだろうか。クラスメイトが、会社の同僚が、バイト先の仲間が、バンドメンバーが、クラブで知りあい、いつも仲良く好きな音楽について話をしていた友達が、そして恋人が、忽然と姿を消してしまう。そんな経験がおありではないだろうか。

 あれは小学校4年生の、まさにこの季節。突然クラスのとある女の子が学校に来なくなった。当然クラスは彼女の話題で持ち切り。「転校したんじゃないの?」「転校だったら、お別れ会とかするだろが」「病気か」「登校拒否じゃない?」「まさか……死んだんじゃ……」。確かにそれは不思議な出来事だった。病気や不登校なら、先生が家庭訪問をするだろう。行方不明なら捜索願いを出さなきゃ。しかし先生は彼女について口を閉ざすばかり。何も言ってはくれない。

 決して目立つことのなかった彼女は、「いない」ということで逆に存在感を増大させた。ちょうどオカルトブームだったことも手伝い、いつの間にやら「彼女は宇宙人だった」というスターボーな結論で皆、納得。それから僕らはウマい給食を食べたり女子の着替えを覗いたりするのに忙しくなり、宇宙に帰還した彼女のことをスッカリ忘れたまま卒業した。

 そして27年の歳月を経て、遂に彼女が姿を消した理由が発覚した。夜逃げだった。先日、往時の同級生と飲む機会があり、彼は急にこんなことを言い出したのだ。「突然いなくなった女の子、おったやろ」「いたいた!」「あの子が夜逃げするところ、俺、見たんや」。

 彼曰く、女の子の家族は真夜中、リヤカーに家財道具を積み込み、坂を登っていた。父親がリヤカーを引き、母親、女の子、その子の弟が後ろから荷台を押している。あまりにもザ・昭和の現風景に遭遇した彼は、その場に立ちすくんだ。思わず「よ! 夜逃げ屋!」と声をかけたくなるほど完成度の高い夜逃げスタイルに見蕩れていたと言った方がいいかも。「なんでクラスの皆に言わんかった?」「うん……たまたま、まったく別の街で、その子とe="letter-spacing:0px;"/> 個室ビデオ&媚薬ショップの隣という最高のシチュエーションにあるこの店は、先述の競馬ファン御用達アイテムを当然フル完備。それでいてママの趣味である手作りカントリーふう雑貨で溢れ、さらに夜はスナックに変身するためサントリーの角瓶が並ぶという三律背反な混沌ブリに驚かされる。

 ボリューム満点のナポリタン(900円)をいただいていると、どうやらハズしたらしい男がカウンター越しに甘えた声でママに「いいんだもん。俺ぁ12Rなんて真剣にやってねーんだもん」と強がる声が聞こえた。するとママが「競馬は勝った時に喜べれば、それでいいのよ」と慰めた。寺山修司の名言「競馬はトータルで勝ったか負けたかが重要なのではない。人生は平均値ではない」に通ずる精神だ。

 僕はこのママに「タチカワプリンセス」という称号を与えたい。

 そう、さまざまな事件のなかで、「失踪」には特別な神々しさがある。それまでそこにいた人が、まるでタイム・トラベラーの如く、怪盗のように痛快に、消えてしまう。そこから想起させられるロマンチックなときめき。そう、誰もが「失踪」には、ほのかな憧れを抱いている。こんなこともあった。友人のバンドに実際に起こった話。ライブを目前に控えた彼らに残された練習時間は少なかった。なのにいつまで経ってもドラマーがスタジオに現れない。ドラムがいなきゃ練習ができない。電話をしてもいっこうに出ないので、怒り心頭に発した彼らはドラマーの住むアパートに向かった。すると部屋は、もぬけの殻。畳のうえに一枚の紙切れ。「探さないでください」と。さらに「皆さんで召し上がってください」と、不二家のハート型のパイが一箱。メンバーはハートのパイを噛りながら「ナニがあったか知らんが、許そう!」という気になったという。彼はきっと、ジョーカーだらけの日本で生きるのが辛くなり、ハートでいっぱいの国に帰っていったのだと。

 もちろん失踪は他人に迷惑をかける行為。礼賛するわけにはいかない。以前ある夜逃げコンサルタントを取材した。氏曰く「なかには夜逃げを指南した礼金が払えず、夜逃げした人がいる」とのこと。探偵業を兼ねるエキスパートの氏ですら、この夜逃げ犯の足取りは掴めなかったそうだ。ランナ上には上がいるものだ。しかし、こういう話を訊くとなお、「逃げる、という人生」のカッコよさにシヴィレずにはいられない。

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
.
[54]2005年03月25日 01:58.

 そう、さまざまな事件のなかで、「失踪」には特別な神々しさがある。それまでそこにいた人が、まるでタイム・トラベラーの如く、怪盗のように痛快に、消えてしまう。そこから想起させられるロマンチックなときめき。そう、誰もが「失踪」には、ほのかな憧れを抱いている。こんなこともあった。友人のバンドに実際に起こった話。ライブを目前に控えた彼らに残された練習時間は少なかった。なのにいつまで経ってもドラマーがスタジオに現れない。ドラムがいなきゃ練習ができない。電話をしてもいっこうに出ないので、怒り心頭に発した彼らはドラマーの住むアパートに向かった。すると部屋は、もぬけの殻。畳のうえに一枚の紙切れ。「探さないでください」と。さらに「皆さんで召し上がってください」と、不二家のハート型のパイが一箱。メンバーはハートのパイを噛りながら「ナニがあったか知らんが、許そう!」という気になったという。彼はきっと、ジョーカーだらけの日本で生きるのが辛くなり、ハートでいっぱいの国に帰っていったのだと。

 もちろん失踪は他人に迷惑をかける行為。礼賛するわけにはいかない。以前ある夜逃げコンサルタントを取材した。氏曰く「なかには夜逃げを指南した礼金が払えず、夜逃げした人がいる」とのこと。探偵業を兼ねるエキスパートの氏ですら、この夜逃げ犯の足取りは掴めなかったそうだ。ランナ上には上がいるものだ。しかし、こういう話を訊くとなお、「逃げる、という人生」のカッコよさにシヴィレずにはいられない。

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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[54]2005年03月25日 01:58.
 そう、さまざまな事件のなかで、「失踪」には特別な神々しさがある。それまでそこにいた人が、まるでタイム・トラベラーの如く、怪盗のように痛快に、消えてしまう。そこから想起させられるロマンチックなときめき。そう、誰もが「失踪」には、ほのかな憧れを抱いている。こんなこともあった。友人のバンドに実際に起こった話。ライブを目前に控えた彼らに残された練習時間は少なかった。なのにいつまで経ってもドラマーがスタジオに現れない。ドラムがいなきゃ練習ができない。電話をしてもいっこうに出ないので、怒り心頭に発した彼らはドラマーの住むアパートに向かった。すると部屋は、もぬけの殻。畳のうえに一枚の紙切れ。「探さないでください」と。さらに「皆さんで召し上がってください」と、不二家のハート型のパイが一箱。メンバーはハートのパイを噛りながら「ナニがあったか知らんが、許そう!」という気になったという。彼はきっと、ジョーカーだらけの日本で生きるのが辛くなり、ハートでいっぱいの国に帰っていったのだと。

 もちろん失踪は他人に迷惑をかける行為。礼賛するわけにはいかない。以前ある夜逃げコンサルタントを取材した。氏曰く「なかには夜逃げを指南した礼金が払えず、夜逃げした人がいる」とのこと。探偵業を兼ねるエキスパートの氏ですら、この夜逃げ犯の足取りは掴めなかったそうだ。ランナ上には上がいるものだ。しかし、こういう話を訊くとなお、「逃げる、という人生」のカッコよさにシヴィレずにはいられない。

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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[54]2005年03月25日 01:58.

 もちろん失踪は他人に迷惑をかける行為。礼賛するわけにはいかない。以前ある夜逃げコンサルタントを取材した。氏曰く「なかには夜逃げを指南した礼金が払えず、夜逃げした人がいる」とのこと。探偵業を兼ねるエキスパートの氏ですら、この夜逃げ犯の足取りは掴めなかったそうだ。ランナ上には上がいるものだ。しかし、こういう話を訊くとなお、「逃げる、という人生」のカッコよさにシヴィレずにはいられない。

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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[54]2005年03月25日 01:58.
 もちろん失踪は他人に迷惑をかける行為。礼賛するわけにはいかない。以前ある夜逃げコンサルタントを取材した。氏曰く「なかには夜逃げを指南した礼金が払えず、夜逃げした人がいる」とのこと。探偵業を兼ねるエキスパートの氏ですら、この夜逃げ犯の足取りは掴めなかったそうだ。ランナ上には上がいるものだ。しかし、こういう話を訊くとなお、「逃げる、という人生」のカッコよさにシヴィレずにはいられない。

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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[54]2005年03月25日 01:58.

 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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[54]2005年03月25日 01:58.
 アーティストにも失踪伝説を持つ人がたくさんいる。ソニー・ロリンズなど失踪が風物詩だ。そして日本には「失踪5大アーティスト」と呼ばれる人たちがいる。しっかしONDEのなかから全てコンプリートできてしまうとは、JET SETの品揃えの豊富さに唸るばかり。これであと中村晃子の『恋の逃避行』とソフトクリームの『クラスメイト失踪事件』があれば完璧だった。

 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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 まずはグループサウンズのタイガース。トッポこと加橋かつみが失踪事件を起こし、脱退。替わって参加したのがシロー(現・岸部四郎)。交替したメンバーふたりともが時を経て同じく失踪しているのだから凄い。失踪賞として「花の首飾り」をかけてあげたい。 続いてフォークからは岡林信康。『山谷ブルース』などのヒットで反体制の旗手、フォークの神様という偶像に祭り上げられた岡林は、嫌気がさし失踪。翌年フォークをエレキに替えて復帰したものの、一旦ついたイメージはエンヤトットと頑張っても払拭できず、現在も極めて親しい数人しか連絡先がわからないという。数年前、早川義夫が「もう一度やらないか?」と手紙を出したところ「当時のことは思い出したくもない」という返事が届いたそう。よっぽどいやだったんだろう。『私を断罪せよ』には、当時の岡林の精神的軋轢が生々しく刻み困れており必聴だ。

 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

 最近ではアーティストの失踪騒ぎなど滅多に聞かないが(ほんとはあるんだけど、うまく隠しちゃう)、秋はこういった「失踪感」溢れるメランコリックな音盤に浸るのに、うってつけの季節だろう。
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 ロックからは「独眼竜ロック」と呼ばれたチャコ&ヘルスエンジェル。「メンバーが愛パッチ」という、のちのタモリと去年の安倍なつみ以外いまだ後継者を見ないショッキングないでたちで登場した彼らだったが、ロックから「いかにも歌謡曲」への路線変更を嫌ったか、チャコこと田中まさゆきの失踪で幕を閉じた。彼らのレコードはロックバンドが歌謡曲へ移行を強いられた時代の遺跡であり、再評価の声が高いグループのひとつだ。

 最後にアイドルから、まず風吹ジュン。テレビ局前で数人の男に襲われ誘拐されるという前代未聞の事件に巻き込まれた彼女。実はそれは移籍をめぐる事務所間のトラブルだった。清純派だった彼女の事件を芸能記者が調べるうちに、かつてクラブホステスをやっていたことを暴かれ、彼女は一気に評判を落とす。そして失踪事件を起こし(実は事務所のダブルブッキング)完全に干されてしまう。しかし、そういう過去が現在の演技派女優たる糧となったのだから、人はやはり事件がミルフィーユ状に層を重ね、味となるのだとつくづく。そしてプレイボーイ後藤次利との道ならぬニューヨーク逃避行で話題となった木之内みどり。アイドルとスタジオミュージシャンの恋が空を翔るという、あまりにエエ感じのロマンスに嫉妬したマスコミは、彼女を一時期引退に追いやるまでに責め続けた。が、恋の歌を作る者たちが恋をする、それは歌謡曲に身を置く人々にとってもっとも正しい対峙ではなかっただろうか。

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[55]2006年07月12日 03:26.
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2005.11 レコードコレクターズ増刊
『クイーン アルティメットガイド』に書いた原稿

 僕はフレディ・マーキュリーとキャッチボールをしたことがある。もちろん、夢の中でだ。海が見える夏の丘陵公園で、麦わら帽子にランニングシャツ姿のフレディは、うまく球を受け取れぬ僕に優しく微笑んでくれた。そして口元には、あのこんもりとしたヒゲ。
 シングル『プレイ・ザ・ゲーム』のジャケットは、夢に出てくるほど強烈だった。ロングヘアなフレディしか知らなかった僕の前に現れたのは、革ジャンに身を包んだ、危険な薫りを放ちまくるヒゲ男。多くのファンが戦慄し拒否反応を示した風貌を、僕はその夢のおかげで素直に受け容れることができた。いな、むしろフレディをアーティストとして認識するようになったのは、ヒゲ以降。大阪で育ったため、ヒゲ=江本孟紀=野球という安直なイメージで結びついた夢だったろうが、このコワモテだけど優しそうなおじさんは、きっとどこか楽しいところへ道づれにしてくれるという確信をジャケットから感じてもいたのだろう。
 フレディ・マーキュリーは1946年9月5日、当時英国領だったアフリカはタンザニアのザンジバル島で、ペルシャ系インド人夫婦の間に生まれた。そして5歳の時に叔母を講師としてピアノを習いはじめている。『オペラ座の夜』の右早弾きアルペジオと左メロディラインが交錯する運指は泣けるほど美しいが、そういった絢爛かつ細密な世界を描く絵筆を早くもこの時期に握っていたのだ。
 その後、イギリス軍官吏だった父親の仕事のため、インド、イラン、そしてイギリスに移住。この転居の繰り返しが、好む好まざるに関わらず、氏のボヘミアンな性格を形成したのかもしれない。全寮制学校時代にボーカル/ピアノでロックンロールバンド『ザ・ヘクティクス』に加入。アーティストとしての才を発芽させた。このバンド、地元では大人気だったという。10代のフレディが喝采を浴びる姿、観てみたかったな。
 フレディが往時に受けた刺激は60年代のロックムーブメントにはとどまらない。「尊敬するアーティストはライザ・ミネリ」と広言するだけあって、オペラであり、クラシック音楽であり、舞台美術であり、服飾であり、それらすべてを飲みこみ時代を彩るデザインにあった。そして、これは本人の口から発せられてはいないが、サビで盛りあげ放題盛りあげてゆく曲調、4オクターブのさらに上に突破せんとオーヴァードライブするシャウト、娯楽の煮込みのようなプロモの数々は、幼少期に過ごしたインドの影響もあるように思う。インド映画や神話絵などの“これでもか”感が、「贅沢は僕の美学」が信条なフレディの根基となる刷り込みではなかっただろうか。
 そしてフレディは、イーリング・カレッジ・オブ・アートに進学。ここでグラフィック・デザインとイラストレーションを学ぶ。卒業後もアマチュアバンドでボーカル/キーボードを担当しながら、デザイナー業で生計を立てていた。メンバー4人の星座を組み合わせたエンブレムやステージ衣装などがフレディのデザインであることは先刻ご承知だろう(というよりも、クイーンそのものをデザインしたと言ってもいい)。
 時を同じくして『スマイル』というバンドの仲間だったブライアン・メイとロジャー・テイラーが「ブリティッシュロックに一撃を加えるような新バンドを作りたい」と画策。カレッジで友人となったフレディにその旨を打診し、意気投合した。そりゃそうだ。フレディしかいやしまい。
 半年で3枚分もの曲を書き溜めてデビューにのぞみ、遂に発売となった『戦慄の女王』。しかし本国イギリスではウケがよくなかったと聞く。「グラムロックのなれの果て。それはTレックスの時代で充分」と。そして、このアルバムをもっとも早く評価したのが日本の女子たちであったのも有名なエピソードだ。
 実際、僕の通っていた学校でも、ベイ・シティ・ローラーズ、KISSに次いでクイーンが人気があった。長い脚、長い髪、女王ならぬ王子様なファッション、美形フェイス、現実感を伴わないカッチョよさに、女子たちは足腰立たぬようになりチビッていた。美麗な衣装に「宝塚ロック」と揶揄された記事も読んだが、それはてっきり褒め言葉だと勘違いしていた。大阪府民にとって、宝塚という名の威光はとてつもないものであったから。それはもう、オペラ座どころではなく。クイーンは「宝塚のように神々しいバンド」だった。
 それゆえに、ヒゲこんもり、タイツなんだかよくわからない衣装、それを着ての深読みしたくないボディ・ランゲージ、ムチをしならせるよな短マイクパフォーマンスが際立ってから、あまりのバッドガイっぷりにそれまでファンだった女子は見事に引き潮となった。あくまで僕周辺の話でしかないが、引いた潮が再び満ちるには『RADIO GA GA』でニュ ーウエーヴファンが再評価するまで待たなくてはならなかったと記憶している。
 しかし、僕にとってのフレディは、この時期からこそ始まった。ヒゲタンクトップ、ヒゲ革ジャン、ヒゲサスペンダー、だからこそ「ママ~」という切ない声がさらに説得力を増して耳に響いた。それは「人生最大の罪は退屈すること」であるフレディのメッセージが、嬉しいまでに見た目で表わされたと思ったから。ライザ・ミネリとジミ・ヘンドリックスを愛したフレディの、その異世界どうしの結合、退屈するはずのない奇妙で甘露な世界が遂に始まるのだと。実際は何もわかっちゃいなかったかもしれないが、当時芸大を目指していた僕には、そのヒゲが美しき“シュール”に見えたのだ。
「クイーンは、やっぱり70年代」と頑なな方も多いし、それもわかる。しかしクイーンのために我慢していたようなオペラ趣味が地獄の蓋を開けて炸裂したソロ『バルセロナ』(ヒゲは剃っているけれど)など、僕は80年代のフレディも大好きだ。
 フレディ・マーキュリーがもし生きていたら、59歳。還暦間近。齢を重ねたフレディを見たかった気もするし、遺作『イニュエンドウ』を聴くと、そんなことは初めからありえなかったのだとも思う。ただ、キャッチボールの相手をしてくれたフレディは「坊主、退屈しなかっただろ?」と、いまも微笑んでくれている。
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[56]2006年07月14日 11:54.
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2005.6 別冊宝島『サンボマスターと青春ロック地獄変』


 ゴールデンウイークの真っ只中、僕は自転車もろとも田んぼのあぜ道に突き落とされた。
 ここは福島県会津若松市、北会津地区。かつて*「北会津村」と呼ばれた場所。そう、山口隆が十八歳まで住み暮した場所だ。山口が「冬になると、りんご畑に吹雪がフワーッと吹きましてね、あんな美しいものは、世界を見渡してもないんじゃないか、と思うくらい」と語った場所に自分も立ってみたいと思い、会津若松駅で自転車を借り、ここまでやってきた。
 しかしその道のりは決して安楽なものではなかった。周囲の山々は5月になってなお雪化粧を落とさず、いただきから吹きおりてくる風は猛烈に寒く、強く、痛い。コートを着込み、手袋をはめていないと寒さで指がかじかんでしまう。比喩ではなく「そのぬくもりに用がある!」と叫ばずにはいられないほど。そしてアゲインストな強風に煽られて自転車は一進もできぬまま宙に舞い、僕は歩道から田んぼのあぜ道に突き落とされた。顎を強打したため、これを書いている今もじんじんと痛む。
 泥を払いながら、周囲を見渡した。ただひたすら眼前に広がる田んぼ、畑、田んぼ、畑のリフレイン。そしてイトヨが棲息し、夏はホタルが舞うという澄んだ阿賀川。山口がいた往時は人口が約七000人だったというが、おそらく僕が一望してい
るこの光景に、すべての家屋が収まっている。ふるさと創生事業一億円により今は区画整理がなされているが、山口の幼い頃はさらに絶望的なまでに幸福な光景がひろがっていたに違いない。音のないこの村で山口は何年もかけて、ジャズを聴き、ロックを聴き、落語を聴き、古書を読みふけ、オレたちひょうきん族で脳内週末ソウルに興奮し、そして将来自分たちがかき鳴らすであろう轟音を夢想しては構築していたのだろう。よくぞ耐えた! そしてこのいやがおうにも集中力と思考力が昂まらざるをえない東北のこの寒村でなければ、サンボマスターの音、言葉、そして寒さに耐えうるあの奇跡の体格はできあがらないと痛感した。
 田んぼから自転車を引っぱり起こし、高田街道を西にひた走り、山口の通った福島県立会津高等学校に着いた。明治二十六年創立、会津藩校以来の伝統を持つ会津一の進学校。モットーは「文武不岐」。まさにサンボという「武」を冠し、強烈なブルースで「文」を叩きつけてくる彼らを表すに相応しい四文字熟語。
 この学校は平成十四年から共学となったが往時は男子校だった。山口の輝かんばかりの童貞臭は、この時期の蓄積(堆積?)であったと思われる。実際、山口は幼い頃からギターが弾けたが、高校時代は「女にモテるためにバンドをやるやつはバカだ」と、一切バンド活動をやらなかったという。ご本人は否定するだろうが、僕も同類項のチビブ男なので、思いッきり勝手に共感してしまう。チンカスまみれの高校時代に周りが男だらけという劣悪な環境、女性への憧憬の裏返しとして「モテるための行為」を激しく憎み、それにいともたやすく翻る女性たちを憎み、それが思想へと昇華してゆくさま(人はそれを情熱と呼ぶ)に、僕はサンボマスターへの一方通行な思い入れを抱いたのだ。
 実際、この会津という街は、山口に修練の日々を送らせたことは想像に難くない。
 会津高等学校から会津若松方面に北上すること僅か、いきなり一大歓楽街が現れる。
 なにもない北会津村からこの街に出ると、初めてここを訪れた僕ですらギャップに悶え狂いそうになる。「エステいちご」「ポルノ★スター」「エロスの館 カリペロ」。ほどよくさびれた路地という路地に、扇情的にもほどがある店名のエロスポットが続々登場。さらに「伝統こけし」など、無駄な想像力をカキたて青少年の股間をいたぶる看板が。発情期と呼んで差し支えない青春期にここを通り抜けねばならない山口の来してきた日々は、それはもう厳しい修業と対自核の積み重ねであったろう。
性春と狂想的な闘争を繰り広げていたに違いない。上京し、「これで自由になったのだ」と叫ぶ気持ちは刺さるほどよくわかる。そして、オナニーマシーンのイノマーと邂逅するのも、しごく自然なわけですよ。
 歓楽街を抜け、今度はワカモノの街に出る。ここでもまた、サンボマスターのかけらたちを目にすることとなる。女にモテるためにバンドをやるやつ同様、自分探し、ルーツ探しにニューヨークへ行くようなアーティストへの嫌悪感もまたインタビューなどでよく吐露しているが、確かに洋品店には自由の女神、そしてヒップホップファッションらしきものが並んでいた。こういったアンチな光景を目の当たりにするたびに、頭のなかでサンボマスター像が結実・熟成していったのではないか。また、音楽スタジオの看板を見て仰天。これはまさにジャズではないか。いまだかつて音楽スタジオでこのような看板は見たことはなく、音楽の女神だけは彼に微笑んだ街なの
だ。
 会津に来た理由のもうひとつが、山口のロックの原体験となった、当地に一軒しかなかったという『空飛ぶ円盤』という店の跡地におもむくことだった。店内はフランク・ザッパやキャプテン・ビーフハート、パーラメントなどマニアックなレコードが並び、山口にサディスティック・ミカバンドを教えた、小室哲哉に似た主人がいるという店。山口をして「この街で、誰が買うんだ」と思い、案の定、潰れてしまった。結局、跡地は特定できなかったものの、店のあった商店街が「野口英世青春通り」というファンシーなんだか矜持を正すべきなのか判断に迷う名に変わっていることがわかった。このコンフュージョン、まさに空飛ぶ円盤なネーミングではないか。山口に与えた混沌という名の青春の日々は、当地にまだ感覚として息づいている。もしかしたら『空飛ぶ円盤』は、山口のために本当に宇宙から遣わされたレコードショップだったのかも。そして、その音楽精神のすべてが伝承したと判断したのち、空飛ぶ円盤は宇宙に還っていったのではないかとさえ……。
 日光街道を南下し、山口が高校の窓から毎日眺めていたであろう鶴ケ城に向かった。約四00年前に建立された会津観光のシンボルであり、七層にも渡る天守閣が威風堂々。そして会津高等学校のすぐそばにある。古城を毎日のように見上げるという生活が、青年にどのような影響をもたらすのか、知りたかったのだ。実際に行ってみると、城のデラックスさもさることながら、周囲がラブホテルなのにも驚いた。清濁を合わせ飲む、飲んで受けて立つ。許容量の大きさと、許容することでの攻撃。僕が予備知識なしにサンボマスターを初めて聴いた時に抱いた好ましさが、すべて光景としてつながってゆく。
 そして城をはすに撮ろうとすると、どう頑張ってもソフトクリームが画角に入ってくるのだ。最初は困ったが、ふと気がついた。勇壮な城の真ん中に屹立する甘いソフトクリーム。これこそサンボマスターではないか。僕は初めてサンボマスターを聴いた時に、ちっともパンクだとは思わなかった。闘おうとしているけれど、壊そうとはしていない。騎兵が寒風のなかで演奏している極限状態下のスィートソウルだと思ったのである。そうでしょう皆さん!

*「北会津村」 2004年11月1日に会津若松市と合併。ゆえに「会津若松市出身」というプロフィールも、間違っているわけではない。
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[57]2006年07月17日 02:07.
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2001.4 『BUBKA』 うまい棒徹底研究


●「やおきん」エピソード1

 石井俊夫さん(52歳)。30歳で「(株)やおきん」に入社。現在常務取締役。入社半年で「うまい棒」企画に携わった、言うなればうまい棒の父である。

石井「もともと、『やおきん』は先先代が始めた青果業者『八百金』だったんです。英語でエイトハンドレッドゴールド(笑)。のちに碧南のおせんべい工場の商品を全国に売る代行をはじめ、今に至ります。だからうちは企画・販売はやるけど専門の製造工場はないんです。『うまい棒』はパフ・マシーンっていう機械が開発されてできた商品で、それまで駄菓子の世界ではコーンを牽引装置で引っ張って作るスナックは、そんんなになかったんです。だから、よく真似されましたよ。50種類以上もの類似品がいっぺんに出ましたから(筆者も、よっちゃん食品の『うまい象』を憶えている。子供が象を丸呑みするアバンギャルドなパッケージだった)。ヒットの原因? 発売した'79年といえば食べ歩きが定 着した時代だったというのが大きいと思います。歩行者天国を歩きながら、とか自転車に乗りながら食べられるという便利さがあったんじゃないでしょうか。あ、(慌てて)自転車に乗りながらは危険だからやめてくださいね」

吉村「ところでパッケージの『ウマえもん』のモデルは、まさかドラえ……」

 この質問をするのはひじょうに心苦しかったのだが、実は一番訊きたかったことでもある。たぶん誰しもがそう思うだろうアノこと。パッケージのキャラクターが「ドラえもん」のパク……いやインスパイアされたものではないか、ということだ。

石井「それに関してはコメント避けたいんだけど(笑)。でも僕に言わせたら、猫をモチーフにしたら、どうやったって似ると思うんだよね。それによく見たらゼンゼン表情が違いますよ。あと、あの猫は宇宙から来たという設定でね。それも違いますしね」

 あー良かった。あれはうまい棒オリジナルの「猫」なんだ(とはいえやっぱり猫だったのか)。ドラえもんはロボット。ウマえもんはミュータント。まったく違ったのだった。ならばいっそ、逆手にとって『どら焼き味』など出してみてはいかがだろう。

●うまい棒「ダウンサイジング疑惑」

 うまい棒の話題が酒席の俎上にのぼると、必ず出てくるのが「昔より小さくなってない?」「いや大きくなってるよ」「まったく変わってないがな」というサイズの記憶の相違である。筆者の記憶では、昔より太くなっている気がするのだが。

石井「たまに『短くなった』って言う人がいるんですよ。でも、これは間違いです。今はもともとの大きさより15%は大きくなってます。実はうまい棒は円高円安の影響で伸びたり縮んだりするんです。長くしてから短かめに戻すこともあります。そうやって利益を調節するんです。ただ、もともとの長さより短くなったことは一度もありません」

 なんと! うまい棒は経済の動きの棒グラフだったのだ!

●うまい棒の今後

 うまい棒をリスペクトしてもしきれない部分に、その値段がある。10円という、これ以上あげようもさげようもないギリギリのプライスで、よくぞ品質をキープしながら20年以上もやってこれていると思うのだ。好調不調の波もあったであろうことは想像に難くない。

石井「消費税が導入された時は卸値から3%引いちゃったもん。駄菓子屋さんが子供達から消費税を取れないことは重々わかってましたから。でも、本当に危機を感じているのはむしろ『今』ですね。消費者のお金の感覚が読めない。高いものも安いものも売れない時代でしょう。携帯やモバイルなんて家族全員で持ってたら月に4~5万いっちゃうけど、みんな買うもんね。ユニクロにしたって、もっと安い店はあるのに、そこは売れないでしょ。満足感を得る値段がいくらなのか。基準が何処なのか。難しい。うまい棒の味にしたって、もっと冒険したい。でも、こうもPOS管理が厳しくてはね……。本当はキライな人は絶対食べない、でも好きな人は探してでも買う、そういう個性のある味を出したいんです。味だけは絶対譲りたくないんだよね」

 潮流に対して如何ともしがたい苛立ちを憶えながら、なおも、うまい棒の穴を通して「誰も到達していない出口」を見つけようという姿勢。素晴らしい。脱帽、いや脱棒だ。なんで僕が駄菓子に心魅かれるか、わかった気がした。

石井「でも最近は、『うまい棒世代』の人たちが世の中に出てきている気がするんです。『うまい○○』っていうネーミング、よく見かけるでしょう。あれ絶対うまい棒で育った人たちだよ」

 うまい棒世代! イイ言葉だなァ。『SPA!世代』なんかより、ずっとリアリティのある言葉ではないか。


●うまい棒あれこれ

・うまい棒は一日140万本、月になんと3千500万本! も生産されている。

・うまい棒の真ん中にチクワ状の穴が空いているのは、なにも原料をケチっているからではない(むしろ穴を空ける方がコストがかかる)。

 チューブ状することで強度が増し、輸送の際に崩れることがなくなるのだ。また単なる棒より、穴が開いている方が食感がいいらしい。

・新製品は特に定期的に企画するわけではなく、「モヤモヤしてきたら作る」んだそうだ。

●ウマえもんプロフィール

生年月日/'78年9月13日生まれ
    ちなみにうまい棒発売は翌年7月
星座/乙女座
血液型/A型
出身/遠い宇宙のとある星
(ウマえもんは異星人だった!)
年齢/2歳
(10年でひとつ歳を取る)
趣味/コスプレ

吉村「ウマえもんっていう名前は、やっぱりアノ有名なネコ型ロボットから?」

石井俊夫(やおきん常務取締役)「いや、そうじゃなくてね、ネットでみんな勝手にそう呼びだして、まあそれでいいかって。本当は名前はまだないんですよ」。

 名前はまだない……まるで夏目漱石の世界。

●やおきんホームページ

 http://www.yaokin.co.jp/

 やおきんイチオシ商品が詳細な解説付きで一覧できる。もちろん「うまい棒」情報もたっぷり。自社製品のほか「リスカ」や「菓道」など関連メーカーの商品情報も観られるので駄菓子ファンなら一時間ごとに訪れよ。

 将来的には工場見学が擬似体験できるコンテンツも作りたいとのこと。残念なのはトップページがウマえもんではなく、石井さん曰く「あんまり人気ない犬」が出てくること。会社のマスコットをそう言い切るなんて、なんてクール サイト!


●サラミ味には元祖があった

 うまい棒と言えば「サラミ!」と脊髄反射で即答される方も多いだろう。さくら色したサラミの空に。

 サラミ味は'79年発売開始。うまい棒の第一号商品であり、現在もインストアナウな超 ロングセラー商品が『サラミ味』。駄菓子に酒のツマミを取り入れるとは、うまい棒は誕生時から画期的。大人に憧れる子供の心理を絶妙に衝いたチルドレン・アダルトな味わいだ。

石井「もともとサラミ味は兄弟会社のリスカが『スナッキー』という名前で発売していたんです。でもスナッキーっていう名前がすでに別の会社が商標取ってたと知って、慌てて『Mr.スナッキー』に変えました(笑)」

 いきなり「スナッキーで行こう!」と即断したかと思えば、あっという間に品名を変えてしまう。このやり逃げ、いや機敏きわまりない姿勢こそが駄菓子の本領なり。

 また長命商品ゆえパッケージデザインの変化ももっとも多く、現在は「キックボードに乗ったAIBO」という流行最先端のイラストが描かれているんDAYONE。ナウいYO!

●うまい棒人気No.1はメンタイ味

 売り上げナンバーワン商品はメンタイ味。世間の激辛ブームを先駆け'82年登場。以来 人気トップの座を守り続けている。

 次いで2位は'92年発売のコーンポタージュ味。3位は'80年発売のチーズ味と、'87年 発売の元祖さすがたこ焼味。しかし最近はコンポタの巻き返しがスゴイらしく、メンタイ味の首位を脅かしている。やはり駄菓子にも癒し系の波が?

●キャラクターの身長が縮んだ!

 名物キャラクター『ウマえもん(これは便宜上の名前。実は名前はまだない)』は複数のイラストレーターによって描かれている。だから眉毛があったりなかったり、目が離れていたりくっついていたりとマチマチ。なかにはカラーリングが間違ってるのも。なんてアバウト、なんて駄イナミック。

 特に『やさいサラダ味』は'80年登場と歴史が古く、そのため初期はキャラが固まって いなかった。新旧ウマえもんを見比べてほしい。初期はこんなに背が高くスリムなのだ。ちょっとコワイ。


●コストがもっともかかっているNo.1は「元祖さすがたこ焼味」

 とりわけ人気が高い『元祖さすがたこ焼味』。元祖を名乗るだけあってソースはちゃんと甘辛く、青海苔たっぷり、ご丁寧に紅ショーガまで。外側はカリッと香ばしく、中のコーンがふんわりやわらかい。この食感、まさに名店のたこ焼き。「たこ焼き味」を名乗りながらしょっぱいソース味なだけの駄菓子が多いなか、本当にたこ焼きの味がするとは、さすが元祖うまい棒。

 それもそのはず。シーズニングしたうまい棒を焼き、さらにもう一度味つけしてまた焼くという「2度づけ」をやっているのだ。これはウマイたこ焼き屋の製法そのもの。それだけにコストがかかり、発売当時はサイズが小さかった。

石井「ファンが多いし売れるから仕方なく作ってる部分もあります。だって儲け全然ないもの(苦笑)」

 ちなみになぜか“元祖さすが”の文字がはずされていた時期あり。

●お金持ちの子のおやつ? リッチなディナー「20円うまい棒」

 うまい棒は10円というパブリックイメージがあるが、実はかつてゴージャスな「20円バージョン」が存在したのを知っているか? その名もズバリ『デラックスうまい棒』。

 短命ゆえ、やおきんにも資料がほとんど残っていないのだが『テリヤキビーフ味』『ホルモン味』『カニ味』『抹茶クリーム味』『デラックスチョコクリーム味』『キャラメルクリーム味』など6種が確認されている。DXだけあって素材も高級食材ばかり。特徴は長さが2倍近く、真ん中の穴に特製クリームがたっぷり詰まっている。これで20円なんてリーズナブリすぎ!

石井「そう言っていただけると嬉しいんだけど『高い』って言われて売れなくてね。最後の方は抹茶かけたり、わけわかんなくなりましたよ」

 かつて発売された20円のチョコ味は現在は10円で売られている。夏は溶けてしまうため出荷されないが、発売されるやいなや売り上げトップに躍り出る待望の商品。


●伝説の超レア商品「マリンビーフ味」

 うまい棒には20年以上生き永らえる長寿商品もあれば、アッちゅう間に姿を消したアダバナ商品もある。なかでも「うまい棒じゃなくUMA棒」とまで呼ばれ、食べたことある人がほとんどいない伝説の商品が、'82年に一瞬リリースされた『マリンビーフ味』。

 そもそもマリンビーフという食べ物自体、聞いたことがないのだが……。ま、まさか水牛味?!

石井「いやこれは、かなり力を入れて作ったんですよ。“海の旨味と牛肉の旨味の融合”を表現したくて、生地にイカの粉を練り込んだんです。生地に味をつけること自体、うまい棒では画期的なことだったんですよ。これに牛肉の味をつけてね。マニアックすぎた。時代が早過ぎたね。いまだったら絶対おいしいと評判になるはずなんだけどね」。

 もはやこれは、うまい棒の「スマイル」。幻のマリンビーフ味、食いてー! パッケージがヤフオクに出たら俺は1万円、いや1万2千円出すぞ!

●味つけに苦労した思い出の商品「ギョ!The味」

 伝説の商品といえば、思い出深いのが『ギョ!The味』。餃子を「ギョ!The」とパルプフィクションに表現するなんて、メジャーな製菓メーカーでは絶対製品化不可能な「駄菓子ソウル」を感じたものだった。

 が、これも'82年から5年間発売されて息絶えた幻の棒。ネーミングだけでなく餃子と いう複雑な味に挑んだ心意気に拍手(ちゃんと本当に餃子の味がするだよコレ)。ちなみに筆者にとってこれがもっとも「うまい」棒だった。

石井「これも苦労したんですよ。『亀戸餃子』など美味しいと評判の餃子店からいっぱい買い込んで、一番食べごろの温度の時にすり潰して、匂いの分析して、科学的なもの駆使してよーぉ(思わず声を荒げる石井さん)。シーズニング、エッセンス、全部自分たちで作りました。うまい棒は『ギョ!The味』のように本物から味を作る場合と、そうじゃない場合がある。たとえばカニ味やエビ味は想像力で作るね。だってカニやエビってどんな味? すごい哲学的な話になっちゃうでしょ(笑)」

 そしてこのブットンだネーミングは「私の若気の至り(笑)。あ、でもネーミングは全部私がやってるわけじゃないよ。あとでみんな私のせいにされちゃうんだよなー」

●無念! 人気があるのに消えた「なっとう味」

 数々のレボリューショナリアーミーなアイデアがうず巻くうまい棒だが、なかでも仰天したのが『なっとう味』。納豆を駄菓子に……。

 いまでこそ納豆味のお菓子はよくあるが、これが発売された'93年は、まだシスコの『 納豆玉』がブームになるずっとずっと前なのだ。流行に便乗するのが駄菓子の常套手段だが、流行を先取りした稀有の例だろう。
 だが残念ながら2000年に姿を消した。

石井「工場が茨城県にあるんで地場のものを作りたかったんです。関東では売り上げトップになったこともあるんだけど、地方で伸びなかったね。売れるまで何度も味を改良し続けたんだけど。あと工場が『もうカンベンしてくれ』って言ってきてカット対象になった。よっぽど臭かったんだろうね~。今でも熱烈なファンから『もう一度発売してくれ』って声をいただきますし、同じ納豆味のスナックが何倍もの値段つけて売られているの見ると悔しいね。復活させたい商品のひとつですよ」

 そして納豆のように糸を引くほど粘り強いファンのネットによる嘆願署名により、このたび遂に復刻された! もう早いところではコンビニ店頭に並んでいるはず。ネットでナットーが……。

●これぞ駄菓子の真骨頂! テキトーネーミングNo.1「豆リカン」

 これも'93年に一瞬発売された一発屋。筆者は食べたことある人をいまだひとりも確認 できていない。

石井「これはえんどう豆の味がするんですよ。豆とアメリカンをかけたんです。意味? ない(笑)。クダラナイよねー。ハハハハ」

 伝説の豆リカンは社内でもオチになっているようだ。これからは石井さんを「Mr.ビーンズ」と呼ぶことに決めた!

 さて気になるのは新製品。駄菓子好きのキミなら、うまい棒のニュータイトルが岡村ちゃん新譜情報なみに知りたいハズ。

石井「いまインターネットで『あなたの食べたいうまい棒』のアイデアを募集したんですよ。1位がエビフライ、2位がマヨネーズだったんです。そこで1位と2位をミックスして『エビマヨ味』を出すことにしました。これなら1位と2位に投票してくれた人を同時に満足させられるでしょ(笑)。以前1位が『刺し身味』だったこともあるんですよ。さすがにこれは商品化は無理だったなぁ(笑)」

 エビマヨ味、なんと初のアメコミふうパッケージ。しかもウマエもんがエビをいじめる悪役として登場。ネットでのファンの声からうまい棒が生まれ、しかもパッケージがマーベラス。こういう話を聞いていると、駄菓子が「昔なつかしいお菓子」だなんていまだに言ってるヤツはまったく見識違いだと痛感せずにいられない。駄菓子こそ、もっともストリートムーブメントに敏感でフットワークの軽いメディアなのである。


 やおきん常務取締役・石井さんの現在の夢は『やおきん駄菓子ショップ』の開店だ。

「最近は『夢や』さんのような“近代駄菓子屋”(その専門用語、はじめて知った!)が増えてたいへん喜ばしいのですが、私たちは“駄菓子イコール懐かしい”だけではなく、お子さんや若い人がもっと今の感覚で楽しめる駄菓子屋を作りたいんです。そして、そこでしか売ってないオリジナル商品を置きたい。電車を途中で降りてまで立ち寄ってくれるような、修学旅行生が買ったものを地元の友達に自慢できるような、そんな『ここだけしかない店』を作りたい。早ければ年内に実現したいですね。そのために、まだ発売していないけれど“うまい棒グッズ”をいろいろ作ってみたんですよ」
イイネ!返信
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[58]2006年07月21日 01:12.
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2005.10 ダチョウ倶楽部 結成20周年インタビュー

 いつもテレビのどこかにいて、いじられ、いじめられ、それなのにちっとも悲壮な空気にならず、和みの世界に連れていってくれる。それがダチョウ倶楽部。しかし3人の織りなすリラクゼーションなおもろさは、“お笑い第三世代”と呼ばれた宿命の星のもと、生き残りを賭け芸能界の波を泳ぎ抜いたからこそ醸し出されるもの。タフだから、優しいのだ。遂に結成20周年を迎えた彼らに、今日までの戦跡を振り返っていただこう。

「芸能人になりたい」と家出同然に上京

――以前から疑問に思っていたことを、まずお訊きします。肥後さんは沖縄出身ですよね? 肥後さんの幼少期にお笑いに目覚めるきっかけが沖縄にもあったのでしょうか。
肥後 今でこそガレッジセールとか沖縄出身の芸人がたくさんいるけど、当時はまったくいなかったですね。僕だけだったんじゃないかな。
上島 あと具志堅用高さんとかね。
肥後 そうそう、具志堅さんが唯一お笑いで、ってコラ!(笑)。東京や大阪なら寄席や劇場もたくさんあるけど沖縄にはなかったですね。テレビも2局しかなかった。ただ公開番組をよくやるんですよ。特に沖縄海洋博(75年)の年は『8時だヨ!全員集合』(TBS)が『海洋博だヨ!全員集合』に名前を変えてやったり。まだ志村けんさんじゃなく荒井注さんの頃かな。そういうのは全部観に行ってました。
寺門 リーダーは公開番組の追っかけだったんだよな。
――なんでもコント55号(萩本欽一・坂上二郎)についての研究をノートにたくさん記していたそうですね。
肥後 いやいや、研究ってほどじゃ。ビデオなんかないからネタを書き写してたんですよ。欽ちゃんが好きだったから。
――ネタを書き写すほどお笑いが好きだった少年は、確かに往時の沖縄では珍しかったでしょうね。方や上島さんと(寺門)ジモンさんはお笑いのメッカである関西の兵庫県ご出身ですが、お笑いはお好きでしたか?
上島 吉本新喜劇は好きだったけど、僕はお笑いより映画でしたね。外国の俳優が「何億のギャラを貰った」と雑誌に書いてあるのを見て、憧れてね。将来は俳優になりたいと思ってました。
寺門 こいつ、自分でスケジュール帳を買ってきて、“○月○日 撮影”とか書き込んでんの。映画のポスターにマジックで“友情出演:上島竜兵”って書いたり。おかしいよ。
上島 バカだったからね。空想人間。でも、まともだったら芸能界は諦めてたよ。
寺門 俺も芸能人になりたかっただけ。小学校の卒業アルバムに「芸能人になりたい」って書くほど。同級生に褒められるもの。「芸能人になる」って書いて、本当になったやつはお前だけだって。
――ジモンさんが芸能人に憧れたきっかけは、なんだったんですか?
寺門 俺も映画でしたね。『ベンハー』とかスペクタクル映画が好きで。あとから『お笑いウルトラクイズ』で凄いスペクタクルやってるんで、あながちハズれちゃいないんだけどね(笑)。それで映画俳優になりたくて、小学校の時、黒澤監督に手紙を出したの。
――黒澤監督って、まさかあの“世界のクロサワ”こと黒澤明監督ですか?
寺門 そうだよ。なんかの映画で落ち武者の役を募集してたの。“36歳前後の男性俳優募集”って。俺、小学生なのに上半身裸の写真を10枚くらい送ってさ。バカだよね。でもなんと黒澤監督から直筆の返事が届いてね! 「あなたは今回の募集の要項には合致していませんが、夢を持ち続けてください」って。もう感激でね。凄い世界だと思ったよ。
――そうして、それぞれ夢を抱いて上京するわけですが、親御さんの反対はありませんでしたか?
肥後 沖縄だから“芸人になる”って意味すら理解してもらえないですよ。両親も友人もすべて。「なに言ってるさ~」って。だからもう、半分家出ですね。脱北するような気持ちで。デザイナーになるって嘘をついてね。
寺門 うちも親父が銀行員で、親戚や先祖も学校の先生や医者とか堅い仕事ばっかり。だから、お母さん泣いてました。「この子はなにを言い出すんだ」と。ただ親父がね、「自分たちの考えが及ばない世界だし、芸能人になることを許すわけじゃないけれど、一切援助なしでやっていくんなら何も言わない」と。それで早稲田大学受験のために親から貰った金でテアトルエコーって養成所に通ったの。忘れもしない。30万円だよ! 大金だよ。
――じゃぁ、勘当同然で上京されたんですね。上島さんは?
上島 うちは親から「東京に行くなら資格つけていけ」って言われて簿記の専門学校に通ってね。それからバイトで金貯めて上京して、大ファンだった西田敏行さんのいる青年座に入ったの。でも親が病気で倒れちゃって。半年で辞めて神戸に帰ったんです。
――あ、一度ご実家に戻られてるんですね。
上島 ただ俳優への夢が捨てきれなくてね。また青年座を受けたんですよ。試験が“バケツを持ったまま犬に追いかけられる”っていうパントマイム。それで「わっ、犬だ! 助けてくれ~」とかやったんですよ。そしたら大爆笑でね。あ、こりゃ受かると思ったんですよ。あとでわかったんだけど、パントマイムって声を出しちゃいけなかったんだね(笑)。それで案の定落ちて、寺門くんのいるテアトルエコーに入ったんです。
肥後 そのパントマイム、観てみたかったな~。

渡辺正行の号令で集められた3人

――皆さんはそれからどのようにしてお笑い芸人への道を進まれたのですか?
肥後 僕はうまくデザイン事務所に潜り込めたんだけど、やっぱり芸人になりたいから好きになれないんですよ仕事が。それで当時、萩本欽一さんが『欽ちゃんのドーンとやってみよう!』(フジテレビ)って番組で素人をイジッて笑いを取ってたんですよ。それを観て「俺も素人だからイジッてくれるんじゃないかな」と思って、自宅に押しかけていったんです。
――え! いきなり萩本さんのご自宅にですか?
肥後 そしたら運よく欽ちゃんがいてね。和室の奥にドーンと。もう嬉しくなっちゃって、「あ、ナマ欽ちゃんだ! 弟子にしてくださ~い」って横にちょこんと座ったの。そしたら欽ちゃんが、『キミ、それ、違う』と(笑)。
――確かにちょっと失礼かも(笑)。
肥後 「キミね、ふすまを開けた時からここに来るまでに人生が懸かってるんだよ」と。そっから延々説教ですよ。そして「君は才能があると思うよ。ウチに来るより、他のところに行きなさい。そのほうがいいよ」と。才能があるって言われて嬉しくなっちゃって。でもあとでよく考えたら、ていよく断られてただけなんだよね(笑)。
寺門 あとで恨まれないように。
肥後 そうそう。欽ちゃんマジック。それで渋谷の道頓堀劇場っていうストリップ小屋に行ったんですよ。「芸人になりたいんですけど」「いいよ~」って。欽ちゃんもビートたけしさんもストリップの幕間コント出身じゃないですか。僕もそういう昭和の芸人さんみたいなことがやりたかったんだね。当時、劇場には中村ゆうじもいたね。
寺門 僕はテアトルエコーで、こう言われたの。「君は正直言って、芝居の世界では残らない。そのかわりガタイがいいから大道具をやらないか?」って。それでもう“寺門”って刺繍がしてある黒いトレーナーができてるんだよ。「このトレーナーが君を待ってる!」って(笑)。ふざけんじゃないよと思ってね。それで当時、コント赤信号や野沢直子さんらテアトルエコー出身の芸人がいたから、自分もお笑いをやろうと思って赤信号の渡辺正行さんのところに何十回も電話した。
――いきなり電話したんですか。
寺門 そうだよ。辛いよ~。だって渡辺さんは俺のこと知らないんだから。電話に出ても「誰お前? なんの用? 今忙しいから」って切られちゃう。だから電話は朝かけるんだよ。渡辺さん、朝しかいないから。そしたら「……なんだよもう」って。そりゃそうだよ、寝てるんだもの。でもそうやってしつこく電話してたら何十回目かに会ってくれることになって。竜ちゃんを誘ってネタ見せに行ったの。
上島 正直、俺はやる気なかったね。お笑いを自分がやれるとも思ってなかったし。
寺門 でも俺は絶対に竜ちゃんは才能があると見込んでた。それでネタを観てもらったんだけど、渡辺さん、目にはサングラス、耳にはウオークマンはめてんだよ。
――見てもいないし聞いてもいないじゃないですか。
寺門 見る前からダメだってわかったんだろうね。それでネタが終わったあと、「はい、わかった。あと10年かかる」って。そして「ストリップ劇場に行って修業しろ」と。
肥後 渡辺さんたち赤信号もそうしてたから。
寺門 でも俺は「イヤです」って答えたの。ストリップは生理的に受けつけない。そしたら渡辺さんが煙草のハイライトを指さして、「これは何に見える? ショートホープだろ?」って言うんだよ。「いえ、これはハイライトです」「バカヤロウ! この世界は先輩がショートホープって言ったらショートホープなんだよ!」って。ストリップから出発しないと芸人にはなれないって事を煙草に置き換えて説明してくれたんだよ。今考えれば、それが渡辺さんの優しさ。でも当時の俺には理解できなかった。
――もしかして、そこで芸人になることを思い止まらされたのですか?
寺門 それが違うんだよ。渡辺さんが優しい人でさ、俺たちのことを気にかけてくれてたんだね。「ストリップ劇場に出入りしている若い芸人たちを集めてパフォーマンス集団を作りたいから、お前らもそいつらと会ってみないか?」って声をかけてくれてね。
肥後 れがダチョウ倶楽部の前身、“キムチクラブ”ですね。一世風靡セピアが流行ってたから、あれのお笑い版をというコンセプトだったと思います。20人くらいいたかな。南部虎弾さん(現:電撃ネットワーク)や俳優の近藤芳正もいて。
――ということは、ダチョウ倶楽部は渡辺正行さんの号令の元に集められたんですか。

肥後 そうです。そこで僕はふたりに初めて会ったんですよ。ふたりが否定したストリップ劇場の側から(笑)。驚いたよ。ふたりは演劇青年でしょう? みんなでネタ作ろうって言ってんのに、いきなりジャージ着てマラソンしたり腹筋運動しだしたり。
寺門 「あえいうえおあお~」とか発声練習したり(笑)。でもリーダーだって酷かったよ。毛玉だらけのネズミ色のジャージ着て。廃人かと思ったもの(笑)。

売れない芸人がダチョウ倶楽部として残った

――その20人から選抜されてダチョウ倶楽部になったんですか?
上島 逆だよ。カスだけ残った(笑)。
寺門 売れてる人はみんな他の仕事に行っちゃうでしょう。仕事のない4人(含む南部虎弾)だけが残ったんだよ。
――肥後さんは、その頃からリーダーだったんですか?
肥後 いや、最初はそれぞれが別の分野で活躍してるってことがポリシーで、特にリーダーを設けてはいなかったんです。ただ取材のたびに「リーダーはいないです。それはこれこれこういう理由があって……」って説明するのがめんどくさくなっちゃって。なら身長が一番高い僕がリーダーってことに。ドリフターズも玉川カルテットもそうだから、ま、それでいいかって。年齢で言えば南部さんがひとまわり上だったし、今のメンバーなら竜ちゃんが一番年上(44歳)だしね。
上島 でも僕、リーダーできないから(笑)。
寺門 南部さんがリーダーだったこともあったんですよ。3日間だけ。
――僕は4人時代のダチョウ倶楽部のことを、よく憶えてるんです。『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)や『冗談画報』(フジテレビ)で観て衝撃を受けました。ド派手な衣装でダンスをしながらネタをやって、凄く新しかった。PARCOのポスターにもなったり、オシャレな人たちだと思いました。“お笑い第三世代”の波に乗って、めっちゃカッコよかったです。
肥後 いやいやいやいやいやいや!
寺門 俺たちオシャレじゃないよ! モテた憶えないもんな。テレビに出てもさ。「今日のゲストはダウンタウンです」「ギャー!」「ウッチャンナンチャンです!」「ギャー!」「B21スペシャルです」「ギャー!」「ちびっ子ギャングです」「ギャー!」「ダチョウ倶楽部です」「…………」(笑)。ちょっと間があって、クスクス笑いが起きる。
上島 確かにね、4人時代には一瞬ポーンといったんです。それで南部さんが辞めて3人になって、ポーンとさがって(笑)。
肥後 早かったね~。人気が落ちるの。

『お笑いウルトラクイズ』で人気再沸騰

――ダチョウ倶楽部と電撃ネットワークに袂を分かちてから、言いにくいですが傍目にも人気が落ちていたように感じました。そして人気が再沸騰したのが『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)じゃないかと思うんですが。
肥後 今じゃ絶対テレビでできないですよね。
上島 だってスタントマンが危険だからって拒否したことを芸人がやってたんだから。

寺門 前日は必ずみんな、部屋を片付けて、靴を揃えて、生ゴミを全部捨ててからロケに行ってたんだよ。
――それはまた、なぜですか?
寺門 だって、生きて帰れるかどうか、わかんないじゃん。
――ひえ~!
肥後 熱海でロケして、そのまま熱海の病院に入院して一週間以上帰ってこれない芸人、いっぱいいましたからね。
――確かにバスに芸人を閉じ込め、海に吊して上げ下げするとか、恐ろしい企画満載でしたね。
上島 溺れないよう、ずっとラッシャー板前にしがみついてました(笑)。スタッフからとにかく「常に人数を確認してくれ」って言われてたんです。海に溺れて流されてるやつがいないかどうか。そして数えてみたら9人しかいない。「9人しかいない! 9人しかいない!」って大騒ぎになっちゃって。あとで考えたら、自分を数え忘れてた(笑)。
――ワハハハ! 肥後さんは頭が燃えたこともありましたね。
肥後 燃えましたね~。リュックサック爆弾が破裂して、僕と竜ちゃんの髪が燃えました。
寺門 あんときゃ悔しかった。俺は運動神経があるから、火の粉を除けれたんですよ。でもリーダーと竜ちゃんは髪が燃えて抜けてる。だから竜ちゃんの抜けた髪を掴んで「俺も抜けた~!」って(笑)。
――そんな極限状態のなかで、ダチョウ倶楽部はたくさんの流行語を生みだしましたよね。「聞いてないよ~」や「これが俺の芸風だ!」などなど。
上島 モーターボートが爆発して海に落ちて、上がってきたら僕が全裸になってて。「これが俺の芸風だ!」は、そんときに言ったのかな。アソコにモザイクが入っててね。たけしさんが、「小さすぎて笑えないよバカ!」って(笑)。
寺門 テレビの規制が厳しくなってきて、「ケツは出すな」ってお達しがあったんだよ。そしたら竜ちゃんと井出らっきょさんと春一番が3人で「これからどうしようか、俺たちの人生」って悩んでんの。その絵が面白くてね。そんなこと真剣に悩むなって(笑)。
――でも、あの番組で“リアクションの王者”と賛賞されましたよね。
寺門 簡単にリアクションって言うけど、自分たちのコント作りで培ってきたものを応用したんだよ。「聞いてないよ~」にしたって、本当に聞いてないならリアクションなんてできない。あそこに爆弾が埋まってて、どんなふうに破裂して、そういう確認作業を一個一個丁寧にやる。30分くらい綿密に。コント作りと同じ。それで本番で「聞いてないよ~」って言うからスタッフが笑うんだよ。「あんなに説明したのに!」って。
肥後 最初はね、スタッフを笑わせたかったんですよ。それが世間に広まっていって。
寺門 だからあれはダチョウ倶楽部のコントなんだよ。リアクションという名のコント。

上島 そういうところを、たけしさんがちゃんと見ていて評価してくれたんでしょうね。たけしさんが週刊文春に「いまダチョウ倶楽部が面白い」って書いてくださって。あれがなかったら僕たち、生き残ってないですよ。だから番組って言うより、人だよね。凄い人に引っ張ってきてもらったんだよ僕ら。

偶然から生まれたモノマネが大ヒット

――人といえば、モノマネ番組でも、ご本人を前にしておやりになられたこともありましたよね。お笑いウルトラクイズのほかに、モノマネもまたダチョウ倶楽部の転機ではかなったかと思うのですが。
肥後 そうですね。テレビ東京のモノマネ番組でウルトラマンの真似をやってたんですよ。それを観たフジテレビが「うちでも、ぜひ」って。言わばヘッドハンティング(笑)。
寺門 お子さんが観て喜ぶものが欲しかったんでしょう。怪獣ショーみたいなもんだわ。
肥後 ウルトラマンのキャンデーズとか、モノマネなんだかよくわかんない(笑)。でも『ものまね王座決定戦』で一年半以上ウルトラマンを引っ張って、「もう飽きたな」って言われたんですよ。それで中学時代からやってた名古屋章さんの真似をしたんです。
――名古屋章さんというセレクトが、またシヴイですね。しかも中学時代から。
寺門 これはもうリーダーの貯蓄だよ。芸の貯金だよ。
肥後 それで、まぁ、どんどんネタがマニアックになっていって。森本レオさんをやろうってなったとき、メイクさんから「髪型どうします?」って訊かれたんです。そこまで考えてなかったから悩んじゃって。髪の毛を掻き毟ったの。そして鏡を見たら、「あ、森本レオだ!」(笑)。
――あのちょっと髪が小汚い感じは、偶然の産物だったんですか!
寺門 それよりもっと凄い偶然があったんだから。その日の審査員が、なんと森本レオさん!
肥後 あれは驚いたね~。
寺門 新しいモノマネの夜明けだよ。それまでモノマネといえば歌だったんだから。リーダーは森本レオさんのモノマネで人気が出て、車を買いましたからね。
肥後 言わなくていいよ、そんなこと(笑)。
上島 でも、僕らのモノマネは特殊メイクですから。モノマネじゃない。だって声が似てないんだもの。SFXみたいなもんだわ。
肥後 橋田寿賀子さんとか、まさに特殊メイクだよね。
寺門 ある意味、ビジュアル系だよ俺たち(笑)。

来る仕事にすべて応じた結果が……

――そうしてダチョウ倶楽部の人気はさらに上昇し、『つかみはOK!』(TBS)や『名門! パープリン大学日本校』(テレビ東京)などゴールデンタイムの冠番組を2本も同時に持たれ、24時間テレビではマラソンランナー(95年)にも選ばれましたよね。ダチョウ倶楽部の黄金期と呼べるのでは。
寺門 マラソンはSMAPとダチョウ倶楽部、どっちにするかって話だったんだから。

肥後 あれはSMAPが断ったんだよ(笑)。
――そんな時期に有頂天になったり天狗になったりはしなかったんですか?
上島 ならないならない。来た仕事をやるので精一杯。
肥後 目先目先でやってたからね。
寺門 だって『つかみはOK!』の裏番組にも出てたからね俺たち。しかもこの日に視聴率が良くないとヤバイって時に。とにかく各局「ダチョウ倶楽部が欲しい、ダチョウ倶楽部が欲しい」って思ってて、それに全部応えてた。裏番組に出たことをTBSがさすがに怒って、ワンクールで打ち切りになった。でも当時は何が正しいことなのか考えられなかったし、今もあの時どうすることが正しかったかなんて、わからない。ただ言えるのは、俺はこのふたりには才能がある、このふたりがなんとかなるようにってずっと考えてやってきたよ。俺はただの人間。このふたりに出会ってなかったら、芸能人にはなれなかったんだから。
肥後 ダチョウ倶楽部をやってなかったら、たぶんお前、どっかの病院に入院してんだろうな(笑)。

上島竜兵の酒ぐせの悪さに遂に説教

――お話を伺っていますと、お3人さんの結束の固さや信頼の篤さに圧倒されるし、惚れ惚れとしてしまうんです。よくこれだけ個性が違う人間が永くやれてるなと。
寺門 健康番組に出るとさ、お医者さんが驚くもの。「デブとノッポと筋肉質、よくこれだけ違ったサンプルが揃った」って(笑)。
――リーダーには3人を束ねる秘訣があるのでしょうか。
肥後 ないない。なんにもまとめてないですよ。ていうか、相手にしてない(笑)。怒ったって話を聞かない人たちだし、怒るのもうっとうしい(笑)。
――例えば、上島さんがお酒がお好きなので、飲み過ぎを注意したとか。
肥後 あ~、昔あったね! バナナパワーってショーパブで演ってたとき、竜ちゃんが酒を飲みすぎてベロベロになっちゃって、セリフはぜんぜん憶えてないし、ケツ出して暴れてるしで。ネタを固める大事な時期だったから、そんときはさすがに説教したね。
上島 バナナパワーって、楽屋袖がないんです。だから出番をカウンターの中で待つんだけど、やることないから客がボトルキープした酒を飲んじゃうんですよ。
肥後 昔は太田プロの稽古場でも竜ちゃんが飲んだワンカップの空き瓶が山積み。「神聖な稽古場で酒なんか飲むな!」って怒られてね。
上島 しょうがないからチューハイを飲むようにして(笑)。だってリーダーと寺門くんがネタのことで討論してても、ついていけないんだよ。聞いてても何がなんだか、頭がもたないんです。酒飲まないと座ってられないんだよ。本番の時でも、段取りがあるとわかんなくなる。こう言われたら、ああ言うみたいな。頭ガーッとなっちゃって。それでワンカップ2本くらい開けちゃう。普通のサラリーマンだったら、とっくにクビでしょうね。
寺門 ふたりとも酒飲みでしょう。俺、酒飲まないから、もう臭くて臭くて。「ヤーッ!」ってやるじゃない。ふたりが吐いた息で酔っ払うから俺(笑)。まぁでも、このリーダーがいるから成り立ってるんだよ。「ん? いいんじゃない? いいんじゃない?」って心が広いから。リーダーってさ、車を買う時でも、この3人が乗れる車を選ぶんだよね。
肥後 俺は本当は小っちゃい車が欲しいんだよ。でもお前らが「これじゃ俺たちが乗れない」って言うからさ。

肥後の助言から生まれた「豆しぼりくん」

――優しいですね~。上島さんの「豆絞りくん」も、肥後さんからのアドバイスがあったとお聞きしたのですが、本当ですか?
上島 豆しぼりくんはね、最初マネージャーから「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで(日本テレビ)から出演依頼が来てるんですが」って言われたの。「ハイテンション・ザ・ベストテン」って企画で。他に誰が出るのか訊いたら、雨上がり決死隊とかそうそうたるメンバー。もう、ふたつ返事でOK。でもあとで、3人だったらなんとかなるけど、ひとりで出てどうしようかって悩んじゃってね。それで前日にリーダーに相談したの。
肥後 頬っかむりに褌で、やるしかないよなぁ、って。
上島 それでリーダーが、「みんな大騒ぎするだけだろうから、竜ちゃんは最後に泣いた方がいいよ」って言ってくれて。
――あ、最後に豆しぼりくんが泣くアイデアは肥後さんがお考えになったんですか! 最後に豆しぼりくんがポロリと涙を流すところは、笑いを越えて感動しましたよ。
肥後 そこは竜ちゃんの俳優になりたかった頃の心をくすぐったんです(笑)。「テンションって、いろいろあるだろ? 叫ぶテンションもあれば、泣くテンションの上がり方もあるはずだよ」って。そしたら竜ちゃんが「そうか!」って涙ぐんじゃって。内心「バカだなぁ、こいつ」と思ってましたよ(笑)。
上島 それにあれは浜田さんに救われたね。最後に「豆しぼりくん、さよ~なら~」って言うんだけど、「じゃぁ、お前は誰やねん!」って(笑)。うまく拾ってもらえて。
――よく考えたらシュールですよね。豆しぼりくんだと思ってずっと見てたら、違う人だったという衝撃の結末。
上島 そういう拾ってくれる人がいたら成立するんだけど、もう最近どこでも「豆しぼりくん、やって」って言われるから困っちゃって。温泉番組で豆しぼりくんをやったって普通でしょ?(笑)。24時間テレビでやらされた時は、さすがにみんなヒいてましたよ。
――でもなんだか、お3人さんの関係が羨ましいです。これまで20年、解散の危機はなかったんでしょうか。
肥後 解散? ないない。必要ないもの、解散なんて。めんどくさいし。
寺門 毎日仕事精一杯だから、考えたこともないよ解散なんて。それにひとりひとりの仕事もあるから。
肥後 でも一回解散してみるのも面白いかもね。そしてすぐ再結成コンサートをやって儲けるっての、どう?
寺門 そんなの誰が観に来るんだよバカヤロ(笑)。
――でも再結成コンサートとは言わないまでも、せっかく20周年なのですから、なにかイベントを催されてみてはいかがでしょう。
肥後 いや、ぜんぜん考えてないです。でも20年間の集大成に、これまで竜ちゃんがやったバンジージャンプとか収録したDVDなんか出すのも面白そうだね。竜ちゃんにもう一回やってもらって。
上島 もうやりたくないわ!
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[59]2006年08月14日 07:13.
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2005.6 見た目が不自由な人の表現について


 編集部から「見た目が不自由な人の表現について」書くように命じられた時、さすがに「ひでぇお題だなぁ」とヒいた。また、それについて書くことに、わずかながらある良心も痛んだ。

 しかしサンボマスターは、山口隆の「顔と体型」について語ることが避けては通れない道であり、そこに光を当てざるをえないバンドであることも重々承知。実際、僕がサンボマスターに好感を抱いたのは、まだCDをデッキに投入する前、ジャケットを見た瞬間だった。もう聴く前から「好きになる」確信を抱いていた。それは僕と同じ、ブサイクの国の人だったからである。

 そして『愛しき日々』『そのぬくもりに用がある』『それでもかまわない』がかかった瞬間、「嗚呼、これはニール・ヤング」だと膝をバシバシ叩いた。『愛しき日々』でフリーキーなギターで音の空間を埋めて盛りあげる手法(そうやって盛りあげずにはいられない業?)は、まさにニール・ヤング。そして曲の最後部分でテンポが落ちるところは実にニール・ヤング&クレイジーホース。

 誤解があってはいけない。決してニール・ヤングの模倣をしているバンドだと思ったわけではない。同じ「顔」のにおいがしたのだ。「顔」が作り出す「音」(僕はそれは絶対にあると思っている)。そして『朝』にカーティス・メイフィールドの「顔魂」を感じ、味のありすぎる顔に生まれた人だけに押される刻印を曲のなかに見た。

 その後、ご本人のインタビューでニール・ヤングやカーティス・メイフィールドを愛聴していたと知り、自分はいかに顔魂伝承、顔音一致音楽が好きであるかを改めて対自核。和製ニール・ヤングと言えば脊髄反射で思い出すのが遠藤賢司だが、山口氏もまた、それを呼称されるに相応しい人物である。

 ご本人が好む好まざるにかかわらず、事実として山口氏はブサイクである。ブ男である。男ドブスである。『はねるのトびら』の“ブサンボマスター”にご本人は相当落ち込んでいるという風の噂も聞くが、芸人たちが自分たちのソウルに触れてノルるのは無理からぬこと。あの顔、あの大仏様のような地に根を張ったようなミラクル体型、そして背の低さ、これがなければサンボマスターは同じ曲をやっていても、評価はずっと先伸ばしになっていたのではないだろうか。もしもサンボマスターのボーカルがスキマスイッチのアフロじゃないほうみたいな男だったら、果たしてメッセージはそう簡単に届いただろうか? 聴衆の耳に轟いただろうか? ギターバンド好きな一部の人たちの間で噂になるにとどまり、埋もれてしまったのではないだろうか。

 いや、もっと言うと、山口氏がインパクトのない風体であったら、果たして同じ曲が生まれただろうか。同じ場所に生まれ、同じ風に吹かれ、同じジャズやブルースを聴き、同じ本を読み、同じ大学に進み、同じ名前のバンドを結成したとして、果たして同じ音は生まれただろうか。木村拓哉が三上寛であろうはずがなく、福山雅治が泉谷しげるであろうはずがない。名は体を表し、体は音を表す。そういう点で山口氏は、ヴィジュアル系である。

 おそらく、いな高確立で山口氏はモテなかっただろう。童貞喪失は遅かっただろう。モテないという地獄、しかしそれは神が(いや仏か)与えたもうた熟成期間。自分の樽チックな姿形に発酵か発狂のギリギリラインで耐えることを強いられ、いやがうえにも創作の礎を築く時期。女にモテるために「ロックンロールの研究」もせずに形だけのロックめいたものを演り、デートなど、コンパなどで気が散っていた者に、あの台風のような表現ができようはずがない。

 サンボマスターのロックは、よく「ストレート」だと言われる。ではストレートとはなにか。歌詞においては、実はそれほどストレートではない。大きくはあるが写実的ではなく、愛におけるディテールは粗い。ぶっちゃけて言えば、恋愛経験のなさの露呈である。「沈まねェ」が「沈まない」であれば、ZARDが歌いそうな凡庸、借り物感もある。

 なのに、なぜこれほどにまで我々に痛切リアルに伝わってくるのか。「新しき」と伝わるのか。それは身も蓋も無い言い方をすれば「その顔で歌っているから」だ。モテない者たちにとってのリアルとは、すべての屈折をクリアしきり、最後に残ったありていの言葉を、ありていのままぶつけること。もしかしたらモテていれば聴いていなかったかもしれないルーツミュージックも、全部なんのてらいも言い訳もなくぶつけること。その開きなおなりとも取れる「臆面もない」堂々ぶりに、僕も含む世の中の電車男にもなれない「夜汽車男」たちは共鳴したのだ。ご本人にたとえ「聴き方が間違っている」と言われようと、僕はそういう理由で『新しき日本語ロックの道と光』を愛好してやまないのである。

 ゆえに、ますますもって身勝手だが、大絶賛の嵐である『サンボマスターは君に語りかける』が僕には語りかけてこなかった。悪いアルバムではない。あろうはずがない。こちらこそ評判がいいのも唸づける。精神童貞の日々を甘露な轟音とともに叩きつけてきた前作と違い、このアルバムこそ山口氏にとってのファーストと呼ぶ人は多い。その存在を認められ『これで自由になったのだ』とばかりに、いよいよ自分たちの「音楽」を突きつけてきた。オルガンやホーンの音が入り、叫びがロックの「シャウト」になり、ディスコパターンも入り、コーラスもふんだん。前作よりいっそう華やかになり、新しきロックの道を威風堂々と大名行列する貫禄に漲っている。

 なのにその貫禄は、精巣にたまっていた腐ったスペルマを出しきったあとの晴れやかさに似て、同朋だと思いこんでいたのに置いていかれた寂しさを感じてしまう。なんだかこのまま、山口氏が槇原敬之になってしまいそうな悪寒がしたのだ。もしかして、モテだしたのだろうか。
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[60]2006年09月28日 18:42.
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2006 学研『テレビお笑いふ!』

T部長こと土屋敏男インタビュー


5年ぶり! 待望の松本人志新作コントは20分にも及ぶ
超大作。しかも動画配信という新たなメディアでの挑戦

松本人志の新作コントは
5年越しの大事業だった

――待ちに待った松本人志さんの新作コント『Zassa(ザッサー)』が配信がスタートしましたが、この企画が実現するまでに、どれくらいかかったのですか?

「5年くらいかな。5年くらい前に、『松本のやりたいコントは、もう地上波のテレビでは無理なんだろうな』と思ったんです。いまはもう深夜でも無理でしょう。松本が『こういうのがやりたい』と思えば思うほど、幅広い層を対象とした地上波のテレビとはかけ離れてゆく。彼には観る者を異世界に連れてゆく発想があるのに、それを表現する場所がない。笑いの天才がものすごく窮屈な想いをしている。これではいけないという気持ちがありましたね。そんな時期に、ちょうど動画配信を事業化する話が現実味を帯びはじめ、つまり“第2日本テレビ”の企画が持ち上がったんです。課金制で動画を配信するシステムならば、松本のコントが作れるのではないかと」

松本が最後まで拘った
「現場の空気」とは?

――松本さんご本人は、その企画に乗り気だったのでしょうか。

「最初は心配していましたね。まず地上波のテレビより制約が少ないという点には興味を抱いてくれたんです。『zassa』のように飛行機が墜落するコントは、地上波のテレビではやれないですからね。ただ、コントというものは“空気”なんです。現場では美術さんや技術さんなど、100人近い人たちが動く。その100人が乱れなくひとつの笑いに立ち向かう。そういう空気が大事なんです。『そんな空気が、作れますか?』って、松本はそれを心配していました。インターネットだから安っぽいものを作らされるんじゃないか、散漫な空気のなかでやらされるんじゃないか、そういう不安を彼はずっと抱えていました」

――そんな松本さんの不安に、土屋さんは見事にお応えになったと思います。あの飛行機のセットの凄さたるや目を見張りました。あのコントをお創りになるのに、いかほどの制作費がかかっているのですか?

「20分のコントで、ゴールデンタイムのバラエティ番組1本ぶんはかかってますね。まずコクピットに座らせてね。『どうだ! 地上波の上をいったろう? 地上波でもこんな飛行機、観たことないだろう?』って。あれで松本のテンションがガッ! とあがりました。もしあの飛行機が安っぽかったら、『なんや、やっぱし金ないんや』ってなってたと思うんです」

――現場では、松本さんが危惧していた“空気”は創れたのでしょうか。

「創れたと思いますよ。僕はプロデューサーなんて肩書きがついていますけど、インカムつけて走りまわってました。ほんっと楽しかったですね~。12時間、スタッフはメシを食うのも忘れて撮り続けました。美術さんと技術さんが『もっと、こうしたい』『そっちがそう来るなら、うちはこういう光をあてる』と張り合う感じになり、没頭して誰もメシ食いたいって言い出さなかった。松本がそれに気がついて、スタッフに食事を出すよう言ってきたほど。そんな張り詰めた空気が、松本はとても嬉しかったと言ってました」

自己否定、それが笑いの
トップランナーの宿命だ

――一本のコントに12時間も……。

「それは松本の“笑いのトップランナー”としての自覚なんですよ。単に笑わせるだけならもうこれで充分っていう状態でも、彼は自分を否定して、より面白くなるように考える。例えば、板尾が計器をカチャカチャいじるシーンがあったでしょう? それが原因で飛行機が落ちてるんじゃないかっていう。台本では、もう少しあそこを引っ張る形だったんですよ。でも松本が急に、『いや飛行機が落ちる原因は不明でいい。そこを強調するんじゃなく、板尾が買ってきたミカンのほうに話を移したい』と言い出し、変わっていったんです」

――そうだったんですか! 確かに計器の話を引きずるより、ずっと面白いです。

「でしょう? そうなんですよ。あと動物に指を噛まれるくだり、あそこも松本が当日に出したアイデアなんです」

――それは驚きです。あのシーン、声を出して笑ってしまいました。松本さんが急きょ変更したアイデアだったとは……。

「自分で考えたことを、自分で否定しなきゃならない。自分で否定しなきゃ、誰も否定してくれない。それが松本が背負っている宿命であり、松本の凄さなんですよね」

日本のみならず「世界の
お笑いオタク」に観せたい

――なるほど。インターネットテレビが新たな創造の場になるという気持ちを、より強くしました。今後はどのような展開をお考えですか?

「英語版、フランス語版、ドイツ語版などを作って、世界に向けて配信したいですね。世界中のお笑いオタクに、『すげえな日本!』『ファンタスティック・ジャパニーズコメディ!』って言わせないと。地上波でできないことをやるっていうのは、すなわち世界に向かうってことだと思うし、世界のお笑い好きたちに球を投げていかないと意味がないと思うんですよ。そういう妄想を抱いていないと生きていけないよ(笑)」

プロフィール

土屋敏男
1956年9月30日生まれ。第2日本テレビ日本テレビ事業本部VOD事業部長(商店会会長)。かつては『電波少年』『雷波少年』などで「T部長」として名を馳せた。ダウンタウン東京進出の世話人としてもお馴染み。
イイネ!返信
.
[61]2008年09月07日 11:38.
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 これは今年6月に発売された別冊宝島『TMN&小室哲哉 ポップス神話創世』に書いた原稿です。

 ……とはいえ、世に出てはいません。
 諸々の理由により大幅リライトを命じられ、書き直したものが掲載されています。
 というわけで、ここにボツ原稿をアップいたします。

 マル秘危険・警告禁止 マル秘危険・警告禁止

 小室哲哉は2001年から6年間、吉本興業に在籍した。そして吉本とのマネジメント契約が満了した時、マスコミはこぞって「ヒット曲が出ず、クビになった」と書きたてた。

 これには誤解がある。吉本在籍期間中、小室氏はアーティストのプロデュースをほとんどやっていない。ヒット曲を出す出さない以前に、ほとんど作っていないのである。「TKプロデュース!」が巷を騒がせたのは、氏が国連薬物乱用防止親善大使に任命され、いわゆる小室ファミリーのみならず浜崎あゆ="letter-spacing:0px;"/>
「英語版、フランス語版、ドイツ語版などを作って、世界に向けて配信したいですね。世界中のお笑いオタクに、『すげえな日本!』『ファンタスティック・ジャパニーズコメディ!』って言わせないと。地上波でできないことをやるっていうのは、すなわち世界に向かうってことだと思うし、世界のお笑い好きたちに球を投げていかないと意味がないと思うんですよ。そういう妄想を抱いていないと生きていけないよ(笑)」

プロフィール

土屋敏男
1956年9月30日生まれ。第2日本テレビ日本テレビ事業本部VOD事業部長(商店会会長)。かつては『電波少年』『雷波少年』などで「T部長」として名を馳せた。ダウンタウン東京進出の世話人としてもお馴染み。
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[61]2008年09月07日 11:38.
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 これは今年6月に発売された別冊宝島『TMN&小室哲哉 ポップス神話創世』に書いた原稿です。

 ……とはいえ、世に出てはいません。
 諸々の理由により大幅リライトを命じられ、書き直したものが掲載されています。
 というわけで、ここにボツ原稿をアップいたします。

 マル秘危険・警告禁止 マル秘危険・警告禁止

 小室哲哉は2001年から6年間、吉本興業に在籍した。そして吉本とのマネジメント契約が満了した時、マスコミはこぞって「ヒット曲が出ず、クビになった」と書きたてた。

 これには誤解がある。吉本在籍期間中、小室氏はアーティストのプロデュースをほとんどやっていない。ヒット曲を出す出さない以前に、ほとんど作っていないのである。「TKプロデュース!」が巷を騒がせたのは、氏が国連薬物乱用防止親善大使に任命され、いわゆる小室ファミリーのみならず浜崎あゆ="letter-spacing:0px;"/>「英語版、フランス語版、ドイツ語版などを作って、世界に向けて配信したいですね。世界中のお笑いオタクに、『すげえな日本!』『ファンタスティック・ジャパニーズコメディ!』って言わせないと。地上波でできないことをやるっていうのは、すなわち世界に向かうってことだと思うし、世界のお笑い好きたちに球を投げていかないと意味がないと思うんですよ。そういう妄想を抱いていないと生きていけないよ(笑)」

プロフィール

土屋敏男
1956年9月30日生まれ。第2日本テレビ日本テレビ事業本部VOD事業部長(商店会会長)。かつては『電波少年』『雷波少年』などで「T部長」として名を馳せた。ダウンタウン東京進出の世話人としてもお馴染み。
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[61]2008年09月07日 11:38.
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 これは今年6月に発売された別冊宝島『TMN&小室哲哉 ポップス神話創世』に書いた原稿です。

 ……とはいえ、世に出てはいません。
 諸々の理由により大幅リライトを命じられ、書き直したものが掲載されています。
 というわけで、ここにボツ原稿をアップいたします。

 マル秘危険・警告禁止 マル秘危険・警告禁止

 小室哲哉は2001年から6年間、吉本興業に在籍した。そして吉本とのマネジメント契約が満了した時、マスコミはこぞって「ヒット曲が出ず、クビになった」と書きたてた。

 これには誤解がある。吉本在籍期間中、小室氏はアーティストのプロデュースをほとんどやっていない。ヒット曲を出す出さない以前に、ほとんど作っていないのである。「TKプロデュース!」が巷を騒がせたのは、氏が国連薬物乱用防止親善大使に任命され、いわゆる小室ファミリーのみならず浜崎あゆ="letter-spacing:0px;"/>
プロフィール

土屋敏男
1956年9月30日生まれ。第2日本テレビ日本テレビ事業本部VOD事業部長(商店会会長)。かつては『電波少年』『雷波少年』などで「T部長」として名を馳せた。ダウンタウン東京進出の世話人としてもお馴染み。
イイネ!
 ではいったい、小室哲哉は吉本興業に入ってなにをしようとしていたのか。氏の「吉本在籍期」は、自身のアーティト史においてどのような意味を持っていたのか。数々の誤解と意外性と不運がトランスミックスされた、氏の「すべらない話」満載期をひもといてみたい。

 小室哲哉と吉本は、「factry ORUMOK」からの移籍以前にすでに密接な関 係があった。先ず、言わずと知れたH jungle with Tの『WOW WAR T ONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~』(‘95)。歌番組『HEY! HEY! HEY!』にて司会のダウンタウン浜田雅功がムチャ振りした「曲、作ってくれへんか?」のひと言が、210万枚を突破する大ヒットとなり、小室は「“ジャングル”で世界一の売り上げを記録したプロデューサー」として海外誌にも紹介された。まさに瓢箪からムーヴメント。以来、H jungleこと浜田とのコンビで3枚のシングルをリリースし ている。

 続いて『ASAYAN』の「コムロギャルソン」。ASAYANは吉本興業制作であり、「小室哲哉オーディション1999」から生まれた小林幸恵(現在は小樽で歌手活動)も吉本がプロモーションを担当した。なによりのちに小室氏にとってドル箱となる鈴木あみ(現亜美)を輩出した番組であり、吉本に対し恩義を感じてゆくのも自然なこと。

 2001年の5月1日、小室哲哉は吉本興業に電撃移籍する。小室氏は同日、Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚したこともあり、会見の席は 凄まじい数の報道陣に囲まれ、新聞は「W入籍」と報じた。この会見で小室氏は吉本移籍の理由を「インスピレーションというか、勘ですね」「吉本はエンターテインメントを凄く考えている会社で、日本はもちろんアジア進出も視野に入れていると聞いています。その中で、今後、僕がお手伝いできることも、手伝ってもらえることも多いんじゃないかと」と語った。そして「ただ、ピンハネが多いと聞くこともありますが……覚悟しています」と語り、取材陣を笑わせた。

 続く
.
[62]2008年09月07日 11:39.
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 小室哲哉の吉本興業移籍は衝撃であったが、芸人のなかには快く思わない者もいた。移籍会見があったまさに最中に「大なんば祭 ~なんばに、まかせなさい!~」をプロデュースしていた西川のりおは、話題を完全にさらわれる形となり、「なんで吉本に? さっぱり理解できまへんわ。小室さんを獲る吉本も吉本やわ。僕らこれまでコツコツやってきたのに、小室さんが来たら野党になってしまうわ」と嘆いた。また、以前KEIKO(現KCO)に「私の方がツッコミうまいわ」と陰口を叩かれ、globeによい印象を抱いていなかったナインティナインの矢部は「吉本では僕らの方が先輩なんやから、これからは敬語で話してもらわんと」とこぼした。

 実際往時、芸人が小室哲哉に対し脅威を感じるのも無理からぬ状況だった。なんば高島屋の前には歩行者をNGK(なんばグランド花月)へ誘導する大きな広告がある。本来これはお笑い芸人が案内役を担うのだが、移籍から2年間、小室氏が「みんなヨシモトへおいでヨ」と語りかけるものに変わった。縦9メートル、横8メートルに渡る巨大看板で、小室氏が関西ポーズをとるさまは異様以外の何物でもなく、これには関西人もド肝を抜かれ、新喜劇のようにひっくり返った。一時代を席巻したスーパープロデューサーがこんなポーズをいとわずやる(させる)ほどに、双方の信頼関係は篤かったのである。

 とはいえ吉本は、当然の事ながら、お笑いをやってほしくて小室哲哉を招いたわけではないe="letter-spacing:0px;"/>
 ではいったい、小室哲哉は吉本興業に入ってなにをしようとしていたのか。氏の「吉本在籍期」は、自身のアーティト史においてどのような意味を持っていたのか。数々の誤解と意外性と不運がトランスミックスされた、氏の「すべらない話」満載期をひもといてみたい。

 小室哲哉と吉本は、「factry ORUMOK」からの移籍以前にすでに密接な関 係があった。先ず、言わずと知れたH jungle with Tの『WOW WAR T ONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~』(‘95)。歌番組『HEY! HEY! HEY!』にて司会のダウンタウン浜田雅功がムチャ振りした「曲、作ってくれへんか?」のひと言が、210万枚を突破する大ヒットとなり、小室は「“ジャングル”で世界一の売り上げを記録したプロデューサー」として海外誌にも紹介された。まさに瓢箪からムーヴメント。以来、H jungleこと浜田とのコンビで3枚のシングルをリリースし ている。

 続いて『ASAYAN』の「コムロギャルソン」。ASAYANは吉本興業制作であり、「小室哲哉オーディション1999」から生まれた小林幸恵(現在は小樽で歌手活動)も吉本がプロモーションを担当した。なによりのちに小室氏にとってドル箱となる鈴木あみ(現亜美)を輩出した番組であり、吉本に対し恩義を感じてゆくのも自然なこと。

 2001年の5月1日、小室哲哉は吉本興業に電撃移籍する。小室氏は同日、Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚したこともあり、会見の席は 凄まじい数の報道陣に囲まれ、新聞は「W入籍」と報じた。この会見で小室氏は吉本移籍の理由を「インスピレーションというか、勘ですね」「吉本はエンターテインメントを凄く考えている会社で、日本はもちろんアジア進出も視野に入れていると聞いています。その中で、今後、僕がお手伝いできることも、手伝ってもらえることも多いんじゃないかと」と語った。そして「ただ、ピンハネが多いと聞くこともありますが……覚悟しています」と語り、取材陣を笑わせた。

 続く
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[62]2008年09月07日 11:39.
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 小室哲哉の吉本興業移籍は衝撃であったが、芸人のなかには快く思わない者もいた。移籍会見があったまさに最中に「大なんば祭 ~なんばに、まかせなさい!~」をプロデュースしていた西川のりおは、話題を完全にさらわれる形となり、「なんで吉本に? さっぱり理解できまへんわ。小室さんを獲る吉本も吉本やわ。僕らこれまでコツコツやってきたのに、小室さんが来たら野党になってしまうわ」と嘆いた。また、以前KEIKO(現KCO)に「私の方がツッコミうまいわ」と陰口を叩かれ、globeによい印象を抱いていなかったナインティナインの矢部は「吉本では僕らの方が先輩なんやから、これからは敬語で話してもらわんと」とこぼした。

 実際往時、芸人が小室哲哉に対し脅威を感じるのも無理からぬ状況だった。なんば高島屋の前には歩行者をNGK(なんばグランド花月)へ誘導する大きな広告がある。本来これはお笑い芸人が案内役を担うのだが、移籍から2年間、小室氏が「みんなヨシモトへおいでヨ」と語りかけるものに変わった。縦9メートル、横8メートルに渡る巨大看板で、小室氏が関西ポーズをとるさまは異様以外の何物でもなく、これには関西人もド肝を抜かれ、新喜劇のようにひっくり返った。一時代を席巻したスーパープロデューサーがこんなポーズをいとわずやる(させる)ほどに、双方の信頼関係は篤かったのである。

 とはいえ吉本は、当然の事ながら、お笑いをやってほしくて小室哲哉を招いたわけではないe="letter-spacing:0px;"/> ではいったい、小室哲哉は吉本興業に入ってなにをしようとしていたのか。氏の「吉本在籍期」は、自身のアーティト史においてどのような意味を持っていたのか。数々の誤解と意外性と不運がトランスミックスされた、氏の「すべらない話」満載期をひもといてみたい。

 小室哲哉と吉本は、「factry ORUMOK」からの移籍以前にすでに密接な関 係があった。先ず、言わずと知れたH jungle with Tの『WOW WAR T ONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~』(‘95)。歌番組『HEY! HEY! HEY!』にて司会のダウンタウン浜田雅功がムチャ振りした「曲、作ってくれへんか?」のひと言が、210万枚を突破する大ヒットとなり、小室は「“ジャングル”で世界一の売り上げを記録したプロデューサー」として海外誌にも紹介された。まさに瓢箪からムーヴメント。以来、H jungleこと浜田とのコンビで3枚のシングルをリリースし ている。

 続いて『ASAYAN』の「コムロギャルソン」。ASAYANは吉本興業制作であり、「小室哲哉オーディション1999」から生まれた小林幸恵(現在は小樽で歌手活動)も吉本がプロモーションを担当した。なによりのちに小室氏にとってドル箱となる鈴木あみ(現亜美)を輩出した番組であり、吉本に対し恩義を感じてゆくのも自然なこと。

 2001年の5月1日、小室哲哉は吉本興業に電撃移籍する。小室氏は同日、Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚したこともあり、会見の席は 凄まじい数の報道陣に囲まれ、新聞は「W入籍」と報じた。この会見で小室氏は吉本移籍の理由を「インスピレーションというか、勘ですね」「吉本はエンターテインメントを凄く考えている会社で、日本はもちろんアジア進出も視野に入れていると聞いています。その中で、今後、僕がお手伝いできることも、手伝ってもらえることも多いんじゃないかと」と語った。そして「ただ、ピンハネが多いと聞くこともありますが……覚悟しています」と語り、取材陣を笑わせた。

 続く
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[62]2008年09月07日 11:39.
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 小室哲哉の吉本興業移籍は衝撃であったが、芸人のなかには快く思わない者もいた。移籍会見があったまさに最中に「大なんば祭 ~なんばに、まかせなさい!~」をプロデュースしていた西川のりおは、話題を完全にさらわれる形となり、「なんで吉本に? さっぱり理解できまへんわ。小室さんを獲る吉本も吉本やわ。僕らこれまでコツコツやってきたのに、小室さんが来たら野党になってしまうわ」と嘆いた。また、以前KEIKO(現KCO)に「私の方がツッコミうまいわ」と陰口を叩かれ、globeによい印象を抱いていなかったナインティナインの矢部は「吉本では僕らの方が先輩なんやから、これからは敬語で話してもらわんと」とこぼした。

 実際往時、芸人が小室哲哉に対し脅威を感じるのも無理からぬ状況だった。なんば高島屋の前には歩行者をNGK(なんばグランド花月)へ誘導する大きな広告がある。本来これはお笑い芸人が案内役を担うのだが、移籍から2年間、小室氏が「みんなヨシモトへおいでヨ」と語りかけるものに変わった。縦9メートル、横8メートルに渡る巨大看板で、小室氏が関西ポーズをとるさまは異様以外の何物でもなく、これには関西人もド肝を抜かれ、新喜劇のようにひっくり返った。一時代を席巻したスーパープロデューサーがこんなポーズをいとわずやる(させる)ほどに、双方の信頼関係は篤かったのである。

 とはいえ吉本は、当然の事ながら、お笑いをやってほしくて小室哲哉を招いたわけではないe="letter-spacing:0px;"/>
 小室哲哉と吉本は、「factry ORUMOK」からの移籍以前にすでに密接な関 係があった。先ず、言わずと知れたH jungle with Tの『WOW WAR T ONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~』(‘95)。歌番組『HEY! HEY! HEY!』にて司会のダウンタウン浜田雅功がムチャ振りした「曲、作ってくれへんか?」のひと言が、210万枚を突破する大ヒットとなり、小室は「“ジャングル”で世界一の売り上げを記録したプロデューサー」として海外誌にも紹介された。まさに瓢箪からムーヴメント。以来、H jungleこと浜田とのコンビで3枚のシングルをリリースし ている。

 続いて『ASAYAN』の「コムロギャルソン」。ASAYANは吉本興業制作であり、「小室哲哉オーディション1999」から生まれた小林幸恵(現在は小樽で歌手活動)も吉本がプロモーションを担当した。なによりのちに小室氏にとってドル箱となる鈴木あみ(現亜美)を輩出した番組であり、吉本に対し恩義を感じてゆくのも自然なこと。

 2001年の5月1日、小室哲哉は吉本興業に電撃移籍する。小室氏は同日、Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚したこともあり、会見の席は 凄まじい数の報道陣に囲まれ、新聞は「W入籍」と報じた。この会見で小室氏は吉本移籍の理由を「インスピレーションというか、勘ですね」「吉本はエンターテインメントを凄く考えている会社で、日本はもちろんアジア進出も視野に入れていると聞いています。その中で、今後、僕がお手伝いできることも、手伝ってもらえることも多いんじゃないかと」と語った。そして「ただ、ピンハネが多いと聞くこともありますが……覚悟しています」と語り、取材陣を笑わせた。

 続く
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[62]2008年09月07日 11:39.
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 小室哲哉の吉本興業移籍は衝撃であったが、芸人のなかには快く思わない者もいた。移籍会見があったまさに最中に「大なんば祭 ~なんばに、まかせなさい!~」をプロデュースしていた西川のりおは、話題を完全にさらわれる形となり、「なんで吉本に? さっぱり理解できまへんわ。小室さんを獲る吉本も吉本やわ。僕らこれまでコツコツやってきたのに、小室さんが来たら野党になってしまうわ」と嘆いた。また、以前KEIKO(現KCO)に「私の方がツッコミうまいわ」と陰口を叩かれ、globeによい印象を抱いていなかったナインティナインの矢部は「吉本では僕らの方が先輩なんやから、これからは敬語で話してもらわんと」とこぼした。

 実際往時、芸人が小室哲哉に対し脅威を感じるのも無理からぬ状況だった。なんば高島屋の前には歩行者をNGK(なんばグランド花月)へ誘導する大きな広告がある。本来これはお笑い芸人が案内役を担うのだが、移籍から2年間、小室氏が「みんなヨシモトへおいでヨ」と語りかけるものに変わった。縦9メートル、横8メートルに渡る巨大看板で、小室氏が関西ポーズをとるさまは異様以外の何物でもなく、これには関西人もド肝を抜かれ、新喜劇のようにひっくり返った。一時代を席巻したスーパープロデューサーがこんなポーズをいとわずやる(させる)ほどに、双方の信頼関係は篤かったのである。

 とはいえ吉本は、当然の事ながら、お笑いをやってほしくて小室哲哉を招いたわけではないe="letter-spacing:0px;"/> 小室哲哉と吉本は、「factry ORUMOK」からの移籍以前にすでに密接な関 係があった。先ず、言わずと知れたH jungle with Tの『WOW WAR T ONIGHT ~時には起こせよムーヴメント~』(‘95)。歌番組『HEY! HEY! HEY!』にて司会のダウンタウン浜田雅功がムチャ振りした「曲、作ってくれへんか?」のひと言が、210万枚を突破する大ヒットとなり、小室は「“ジャングル”で世界一の売り上げを記録したプロデューサー」として海外誌にも紹介された。まさに瓢箪からムーヴメント。以来、H jungleこと浜田とのコンビで3枚のシングルをリリースし ている。

 続いて『ASAYAN』の「コムロギャルソン」。ASAYANは吉本興業制作であり、「小室哲哉オーディション1999」から生まれた小林幸恵(現在は小樽で歌手活動)も吉本がプロモーションを担当した。なによりのちに小室氏にとってドル箱となる鈴木あみ(現亜美)を輩出した番組であり、吉本に対し恩義を感じてゆくのも自然なこと。

 2001年の5月1日、小室哲哉は吉本興業に電撃移籍する。小室氏は同日、Kiss DestinationのASAMI(吉田麻美)と再婚したこともあり、会見の席は 凄まじい数の報道陣に囲まれ、新聞は「W入籍」と報じた。この会見で小室氏は吉本移籍の理由を「インスピレーションというか、勘ですね」「吉本はエンターテインメントを凄く考えている会社で、日本はもちろんアジア進出も視野に入れていると聞いています。その中で、今後、僕がお手伝いできることも、手伝ってもらえることも多いんじゃないかと」と語った。そして「ただ、ピンハネが多いと聞くこともありますが……覚悟しています」と語り、取材陣を笑わせた。

 続く
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[62]
 続く
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[63]2008年09月07日 11:41.
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 吉本興業の故・林裕章社長はかねてから中国~東南アジア進出を目論んでいた。しかしながら、中国、上海に事務所を置いたものの、自社ソフトである「吉本新喜劇」が検閲で引っ掛かり上演できず、苦い思いをした。「お笑いは国境を越えない」と悟り、「その点、CDは発売一週間後にもう上海、香港の店頭に並んでいる」と感じ入った林社長は、音楽事業に邁進する。経済紙のインタビューでは、小室哲哉との契約の理由を「アジア進出のため」と明言。小室哲哉のほかにテイ・トウワを獲得し、韓国でのライブを成功させている(顧みれば、小室哲哉、テイ・トウワ、明和電機、岡村靖幸、デーモン小暮が同時期に在籍していた吉本は、ある意味もっとも先鋭的な音楽事務所だったと言える)。小室氏移籍の同年8月にあった「創立89周年よしもと夏祭り」の会見で林社長は「13億人の人間がいる中国に何か仕掛けたい。来年は本格的に上海に進出したい」と発表。上海にディスコを持つロジャムとの提携は、お互いのメリットが見事にクロスしたものであった。

 しかし、クロスするということは、すなわち接点から離れるということでもある。吉本に入ってからの小室哲哉には次から次へと不運が、吉本的に言う「おいしい」悲劇が頻発する。小室氏が吉本と手がけた最初の企画が「GABALL(ガボール)」のストリーミング中継。GABALLLとはDJ DRAGON、映像作家の原田大三郎とのトランス テクノユニット。「国境越え」を目標とし、インターネット市場の開拓に興味津々だった林社長と小室氏、そしてソーテックが手を組んだ一大実験。しかし家庭でのブロードバンド環境がまだ整っていない尚早な時期でもあり、音質や画質の悪さも指摘され、このプランは継続されなかった。

 さらに吉本は小室哲哉に続き、活動休止中だった鈴木あみの獲得に乗り出すも(これは『めざましテレビ』などニュース番組でも大きく採りあげられた)頓挫。小室氏はASAMIとスピード離婚。慰謝料未払いが取り沙汰される。韓国で開催を予定していた黄砂対策チャリティライブは、現地での新型肺炎SARSや鳥インフルエンザの流行により中止。YOSHIKIが加入しアジア進出の先駆けとなるハズだった新生globe(globe extreme)の東京ドームライブも「イラク戦争」が理由(?)で中止。暴落 により大株主であったロジャム株の大半を売却。Jリーグ「大分トリニータ」のスーパーバイザーに就任するも、7000万円のスポンサー料滞納が指摘され、叩かれる。結局、吉本在籍中に残した主だった作品は、現夫人KEIKOが大ファンだったという大木こだま・ひびきの『チ』(ちなみに大木ひびきが歌うカップリング曲『ひびきの日々』は超名曲なのでぜひご一聴を)と、チュートリアルや麒麟ら若手芸人11組に即興で歌詞を書かせて歌わせるDVD企画『ガチコラ』、ひっそり再結成したTM NETWORKくらいし かなかった。

 続く

 続く
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[63]2008年09月07日 11:41.
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 吉本興業の故・林裕章社長はかねてから中国~東南アジア進出を目論んでいた。しかしながら、中国、上海に事務所を置いたものの、自社ソフトである「吉本新喜劇」が検閲で引っ掛かり上演できず、苦い思いをした。「お笑いは国境を越えない」と悟り、「その点、CDは発売一週間後にもう上海、香港の店頭に並んでいる」と感じ入った林社長は、音楽事業に邁進する。経済紙のインタビューでは、小室哲哉との契約の理由を「アジア進出のため」と明言。小室哲哉のほかにテイ・トウワを獲得し、韓国でのライブを成功させている(顧みれば、小室哲哉、テイ・トウワ、明和電機、岡村靖幸、デーモン小暮が同時期に在籍していた吉本は、ある意味もっとも先鋭的な音楽事務所だったと言える)。小室氏移籍の同年8月にあった「創立89周年よしもと夏祭り」の会見で林社長は「13億人の人間がいる中国に何か仕掛けたい。来年は本格的に上海に進出したい」と発表。上海にディスコを持つロジャムとの提携は、お互いのメリットが見事にクロスしたものであった。

 しかし、クロスするということは、すなわち接点から離れるということでもある。吉本に入ってからの小室哲哉には次から次へと不運が、吉本的に言う「おいしい」悲劇が頻発する。小室氏が吉本と手がけた最初の企画が「GABALL(ガボール)」のストリーミング中継。GABALLLとはDJ DRAGON、映像作家の原田大三郎とのトランス テクノユニット。「国境越え」を目標とし、インターネット市場の開拓に興味津々だった林社長と小室氏、そしてソーテックが手を組んだ一大実験。しかし家庭でのブロードバンド環境がまだ整っていない尚早な時期でもあり、音質や画質の悪さも指摘され、このプランは継続されなかった。

 さらに吉本は小室哲哉に続き、活動休止中だった鈴木あみの獲得に乗り出すも(これは『めざましテレビ』などニュース番組でも大きく採りあげられた)頓挫。小室氏はASAMIとスピード離婚。慰謝料未払いが取り沙汰される。韓国で開催を予定していた黄砂対策チャリティライブは、現地での新型肺炎SARSや鳥インフルエンザの流行により中止。YOSHIKIが加入しアジア進出の先駆けとなるハズだった新生globe(globe extreme)の東京ドームライブも「イラク戦争」が理由(?)で中止。暴落 により大株主であったロジャム株の大半を売却。Jリーグ「大分トリニータ」のスーパーバイザーに就任するも、7000万円のスポンサー料滞納が指摘され、叩かれる。結局、吉本在籍中に残した主だった作品は、現夫人KEIKOが大ファンだったという大木こだま・ひびきの『チ』(ちなみに大木ひびきが歌うカップリング曲『ひびきの日々』は超名曲なのでぜひご一聴を)と、チュートリアルや麒麟ら若手芸人11組に即興で歌詞を書かせて歌わせるDVD企画『ガチコラ』、ひっそり再結成したTM NETWORKくらいし かなかった。

 続く
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[63]2008年09月07日 11:41.
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 吉本興業の故・林裕章社長はかねてから中国~東南アジア進出を目論んでいた。しかしながら、中国、上海に事務所を置いたものの、自社ソフトである「吉本新喜劇」が検閲で引っ掛かり上演できず、苦い思いをした。「お笑いは国境を越えない」と悟り、「その点、CDは発売一週間後にもう上海、香港の店頭に並んでいる」と感じ入った林社長は、音楽事業に邁進する。経済紙のインタビューでは、小室哲哉との契約の理由を「アジア進出のため」と明言。小室哲哉のほかにテイ・トウワを獲得し、韓国でのライブを成功させている(顧みれば、小室哲哉、テイ・トウワ、明和電機、岡村靖幸、デーモン小暮が同時期に在籍していた吉本は、ある意味もっとも先鋭的な音楽事務所だったと言える)。小室氏移籍の同年8月にあった「創立89周年よしもと夏祭り」の会見で林社長は「13億人の人間がいる中国に何か仕掛けたい。来年は本格的に上海に進出したい」と発表。上海にディスコを持つロジャムとの提携は、お互いのメリットが見事にクロスしたものであった。

 しかし、クロスするということは、すなわち接点から離れるということでもある。吉本に入ってからの小室哲哉には次から次へと不運が、吉本的に言う「おいしい」悲劇が頻発する。小室氏が吉本と手がけた最初の企画が「GABALL(ガボール)」のストリーミング中継。GABALLLとはDJ DRAGON、映像作家の原田大三郎とのトランス テクノユニット。「国境越え」を目標とし、インターネット市場の開拓に興味津々だった林社長と小室氏、そしてソーテックが手を組んだ一大実験。しかし家庭でのブロードバンド環境がまだ整っていない尚早な時期でもあり、音質や画質の悪さも指摘され、このプランは継続されなかった。

 さらに吉本は小室哲哉に続き、活動休止中だった鈴木あみの獲得に乗り出すも(これは『めざましテレビ』などニュース番組でも大きく採りあげられた)頓挫。小室氏はASAMIとスピード離婚。慰謝料未払いが取り沙汰される。韓国で開催を予定していた黄砂対策チャリティライブは、現地での新型肺炎SARSや鳥インフルエンザの流行により中止。YOSHIKIが加入しアジア進出の先駆けとなるハズだった新生globe(globe extreme)の東京ドームライブも「イラク戦争」が理由(?)で中止。暴落 により大株主であったロジャム株の大半を売却。Jリーグ「大分トリニータ」のスーパーバイザーに就任するも、7000万円のスポンサー料滞納が指摘され、叩かれる。結局、吉本在籍中に残した主だった作品は、現夫人KEIKOが大ファンだったという大木こだま・ひびきの『チ』(ちなみに大木ひびきが歌うカップリング曲『ひびきの日々』は超名曲なのでぜひご一聴を)と、チュートリアルや麒麟ら若手芸人11組に即興で歌詞を書かせて歌わせるDVD企画『ガチコラ』、ひっそり再結成したTM NETWORKくらいし かなかった。

 続く
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[63]2008年09月07日 11:41.
 吉本興業の故・林裕章社長はかねてから中国~東南アジア進出を目論んでいた。しかしながら、中国、上海に事務所を置いたものの、自社ソフトである「吉本新喜劇」が検閲で引っ掛かり上演できず、苦い思いをした。「お笑いは国境を越えない」と悟り、「その点、CDは発売一週間後にもう上海、香港の店頭に並んでいる」と感じ入った林社長は、音楽事業に邁進する。経済紙のインタビューでは、小室哲哉との契約の理由を「アジア進出のため」と明言。小室哲哉のほかにテイ・トウワを獲得し、韓国でのライブを成功させている(顧みれば、小室哲哉、テイ・トウワ、明和電機、岡村靖幸、デーモン小暮が同時期に在籍していた吉本は、ある意味もっとも先鋭的な音楽事務所だったと言える)。小室氏移籍の同年8月にあった「創立89周年よしもと夏祭り」の会見で林社長は「13億人の人間がいる中国に何か仕掛けたい。来年は本格的に上海に進出したい」と発表。上海にディスコを持つロジャムとの提携は、お互いのメリットが見事にクロスしたものであった。

 しかし、クロスするということは、すなわち接点から離れるということでもある。吉本に入ってからの小室哲哉には次から次へと不運が、吉本的に言う「おいしい」悲劇が頻発する。小室氏が吉本と手がけた最初の企画が「GABALL(ガボール)」のストリーミング中継。GABALLLとはDJ DRAGON、映像作家の原田大三郎とのトランス テクノユニット。「国境越え」を目標とし、インターネット市場の開拓に興味津々だった林社長と小室氏、そしてソーテックが手を組んだ一大実験。しかし家庭でのブロードバンド環境がまだ整っていない尚早な時期でもあり、音質や画質の悪さも指摘され、このプランは継続されなかった。

 さらに吉本は小室哲哉に続き、活動休止中だった鈴木あみの獲得に乗り出すも(これは『めざましテレビ』などニュース番組でも大きく採りあげられた)頓挫。小室氏はASAMIとスピード離婚。慰謝料未払いが取り沙汰される。韓国で開催を予定していた黄砂対策チャリティライブは、現地での新型肺炎SARSや鳥インフルエンザの流行により中止。YOSHIKIが加入しアジア進出の先駆けとなるハズだった新生globe(globe extreme)の東京ドームライブも「イラク戦争」が理由(?)で中止。暴落 により大株主であったロジャム株の大半を売却。Jリーグ「大分トリニータ」のスーパーバイザーに就任するも、7000万円のスポンサー料滞納が指摘され、叩かれる。結局、吉本在籍中に残した主だった作品は、現夫人KEIKOが大ファンだったという大木こだま・ひびきの『チ』(ちなみに大木ひびきが歌うカップリング曲『ひびきの日々』は超名曲なのでぜひご一聴を)と、チュートリアルや麒麟ら若手芸人11組に即興で歌詞を書かせて歌わせるDVD企画『ガチコラ』、ひっそり再結成したTM NETWORKくらいし かなかった。

 続く
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[64]2008年09月07日 11:42.
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 大きなプロジェクトを企てては失敗する小室哲哉と吉本興業との関係は日増しに冷えてゆき、不協和音が囁かれた。おりしも世は空前のお笑いブーム。吉本は笑芸へと原点回帰すべく、なんばにあった大きな小室氏の広告も、いつしか笑福亭仁鶴へと変わった。そして小室氏が吉本を離籍する最大の要因となったのが、どんな悪況にあっても氏を擁護し続けた理解者、林社長の死である(2005)。小室氏が吉本にいた理由は林社長との友情にほかならず、後ろ盾を失った小室氏にとっても、また吉本側にしても、「小室哲哉が吉本にいる理由」はそこで消滅してしまった。

 では、小室哲哉の「ヨシモト期」が無駄な6年であったかと言えば、決してそうではない。ヒットメーカーとしての役割を終え(終えすぎだが)、次のステップへ進むための試行錯誤の時期だった。氏がこの時期吉本に、そしてメディアに残した功績は確かにある。果敢に取り組んだインターネット配信事業は、のちに番組配信ブログのCASTY、ネット配信を基本とした劇場「渋谷∞ホール」建設、ラフブロへと進化を遂げた。「5億円挙式」と騒がれたKEIKOとの再々婚披露宴で培ったノウハウは、その後の藤原紀香・陣内智則の披露宴放映制作に受け継がれた。なにより、本人が薬物乱用防止親善大使に選ばれながらも、身内(マーク・パンサーの妻)から薬物常用者を出してしまう「大オチ」をつけ、立派にひとりの吉本芸人として役目をまっとうしたのである。
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[65]2008年10月25日 00:52.
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「過去原稿」ではなく「ボツ原稿」です。
だんだんこのトピックも、ボツ原稿墓場みたいになってきました。



来月初旬発売の『テレビライフ』別冊で、キングオブコント2008の決勝メンバーに選ばれた「2700」(にせんななひゃく)にインタビューしました。

結成わずか半年の超新星(つまり超無名)コンビ。
まったく予備知識がないままのインタビューで、それだけに興味津々。

ただ、諸般の事情で本文の以下の部分がボツになってしまいました。

もちろん、リライト対応した別の原稿は載ります。
彼らを紹介するページはちゃんとあります。

本番をテレビでご覧になっていらっしゃった方には「なるほど、そうだったのか」という部分もあるやもしれません。

▼リード

「2700? 誰それ」。キングオブコント2008のファイナリストに選ばれた彼らの名は、本拠地の大阪ですら知る者はいなかった。謎に包まれた長身コンビ、その正体に迫る!

▼大見出し

テレビに出たのは、たった3回だけ
超無名コンビが雪辱を晴らした瞬間

▼本文

決勝メンバーに選ばれ
驚きのあまり、声が…

 いったい誰? 決勝進出メンバーに選ばれた彼らの名を聞いて、誰しもがそう思ったのではないだろうか。なんせそれまでテレビに出たのは、わずか3回。お笑いマニアのみならず、吉本興業の社員でさえ、彼らの名を知る者はきわめて少なかったのだ。
八十島「決勝に選ばれた時は、本当に驚きました。驚きすぎて、しばらくは私生活でもうまく喋ることができなくなりました。声が裏返るんですよ」
常道「僕はもう嬉しくて仕方なかった。早く決勝戦をやりたかった。怖さ? なかったです。それより決勝戦が終ってまた元の生活に戻るのが怖かった。それまで、舞台にもなかなか出させてもらえなかったから」

同期が次々とブレイク
焦りを感じていた日々

 八十島はNSC27期生。同期に藤崎マーケット、天竺鼠、鎌鼬、ビタミンSらがいる。仲間が続々とブレイクを果す姿を尻目に、彼は焦っていた。
八十島「同期はみんなすごく仲がいい。それだけにずっと劣等感を抱いていました。仲間が売れてゆくなか、俺だけなんの答も出せていないと。『KOC』はもちろん優勝したかったけれど、それより『なんとか仲間と肩を並べられた。これでやっと彼らと勝負できる』という安堵の気持ちが大きかったです」
常道「僕は八十島さんのひとつ下の27期。鎌鼬の濱家さんが26期と27期が仲よくなれるようバーベキュー大会を開いてくださったんです。そこで八十島さんと知りあえたし、決勝に残れて恩返しができたなと思いましたね」
八十島「常道と知り合って、『こいつ凄いな、おもしろいな』と思える部分は、まったくなかった(笑)。ただ、1000円渡すと部屋をきれいに掃除してくれるんです。彼からコンビを組もうと誘われた時、『やった! これでずっと部屋がきれいになる』と」
常道「もっとほかに理由あるやろ!」
 さて気になるのが、決勝での投票。番組では発表されなかったが、彼らが選んだのはバッファロー吾郎だ。
常道「真剣に審査しました。僕はバナナマンさん。ただ彼がバッファロー吾郎さんのコントに涙を流して笑っていて、それを見て『ここまで自分は笑っていたかな?』と考えたんです」
 そう、彼らはネタも審査も真摯に、2700%の力で対峙していたのだ。
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まったく予備知識がないままのインタビューで、それだけに興味津々。

ただ、諸般の事情で本文の以下の部分がボツになってしまいました。

もちろん、リライト対応した別の原稿は載ります。
彼らを紹介するページはちゃんとあります。

本番をテレビでご覧になっていらっしゃった方には「なるほど、そうだったのか」という部分もあるやもしれません。

▼リード

「2700? 誰それ」。キングオブコント2008のファイナリストに選ばれた彼らの名は、本拠地の大阪ですら知る者はいなかった。謎に包まれた長身コンビ、その正体に迫る!

▼大見出し

テレビに出たのは、たった3回だけ
超無名コンビが雪辱を晴らした瞬間

▼本文

決勝メンバーに選ばれ
驚きのあまり、声が…

 いったい誰? 決勝進出メンバーに選ばれた彼らの名を聞いて、誰しもがそう思ったのではないだろうか。なんせそれまでテレビに出たのは、わずか3回。お笑いマニアのみならず、吉本興業の社員でさえ、彼らの名を知る者はきわめて少なかったのだ。
八十島「決勝に選ばれた時は、本当に驚きました。驚きすぎて、しばらくは私生活でもうまく喋ることができなくなりました。声が裏返るんですよ」
常道「僕はもう嬉しくて仕方なかった。早く決勝戦をやりたかった。怖さ? なかったです。それより決勝戦が終ってまた元の生活に戻るのが怖かった。それまで、舞台にもなかなか出させてもらえなかったから」

同期が次々とブレイク
焦りを感じていた日々

 八十島はNSC27期生。同期に藤崎マーケット、天竺鼠、鎌鼬、ビタミンSらがいる。仲間が続々とブレイクを果す姿を尻目に、彼は焦っていた。
八十島「同期はみんなすごく仲がいい。それだけにずっと劣等感を抱いていました。仲間が売れてゆくなか、俺だけなんの答も出せていないと。『KOC』はもちろん優勝したかったけれど、それより『なんとか仲間と肩を並べられた。これでやっと彼らと勝負できる』という安堵の気持ちが大きかったです」
常道「僕は八十島さんのひとつ下の27期。鎌鼬の濱家さんが26期と27期が仲よくなれるようバーベキュー大会を開いてくださったんです。そこで八十島さんと知りあえたし、決勝に残れて恩返しができたなと思いましたね」
八十島「常道と知り合って、『こいつ凄いな、おもしろいな』と思える部分は、まったくなかった(笑)。ただ、1000円渡すと部屋をきれいに掃除してくれるんです。彼からコンビを組もうと誘われた時、『やった! これでずっと部屋がきれいになる』と」
常道「もっとほかに理由あるやろ!」
 さて気になるのが、決勝での投票。番組では発表されなかったが、彼らが選んだのはバッファロー吾郎だ。
常道「真剣に審査しました。僕はバナナマンさん。ただ彼がバッファロー吾郎さんのコントに涙を流して笑っていて、それを見て『ここまで自分は笑っていたかな?』と考えたんです」
 そう、彼らはネタも審査も真摯に、2700%の力で対峙していたのだ。
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ただ、諸般の事情で本文の以下の部分がボツになってしまいました。

もちろん、リライト対応した別の原稿は載ります。
彼らを紹介するページはちゃんとあります。

本番をテレビでご覧になっていらっしゃった方には「なるほど、そうだったのか」という部分もあるやもしれません。

▼リード

「2700? 誰それ」。キングオブコント2008のファイナリストに選ばれた彼らの名は、本拠地の大阪ですら知る者はいなかった。謎に包まれた長身コンビ、その正体に迫る!

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テレビに出たのは、たった3回だけ
超無名コンビが雪辱を晴らした瞬間

▼本文

決勝メンバーに選ばれ
驚きのあまり、声が…

 いったい誰? 決勝進出メンバーに選ばれた彼らの名を聞いて、誰しもがそう思ったのではないだろうか。なんせそれまでテレビに出たのは、わずか3回。お笑いマニアのみならず、吉本興業の社員でさえ、彼らの名を知る者はきわめて少なかったのだ。
八十島「決勝に選ばれた時は、本当に驚きました。驚きすぎて、しばらくは私生活でもうまく喋ることができなくなりました。声が裏返るんですよ」
常道「僕はもう嬉しくて仕方なかった。早く決勝戦をやりたかった。怖さ? なかったです。それより決勝戦が終ってまた元の生活に戻るのが怖かった。それまで、舞台にもなかなか出させてもらえなかったから」

同期が次々とブレイク
焦りを感じていた日々

 八十島はNSC27期生。同期に藤崎マーケット、天竺鼠、鎌鼬、ビタミンSらがいる。仲間が続々とブレイクを果す姿を尻目に、彼は焦っていた。
八十島「同期はみんなすごく仲がいい。それだけにずっと劣等感を抱いていました。仲間が売れてゆくなか、俺だけなんの答も出せていないと。『KOC』はもちろん優勝したかったけれど、それより『なんとか仲間と肩を並べられた。これでやっと彼らと勝負できる』という安堵の気持ちが大きかったです」
常道「僕は八十島さんのひとつ下の27期。鎌鼬の濱家さんが26期と27期が仲よくなれるようバーベキュー大会を開いてくださったんです。そこで八十島さんと知りあえたし、決勝に残れて恩返しができたなと思いましたね」
八十島「常道と知り合って、『こいつ凄いな、おもしろいな』と思える部分は、まったくなかった(笑)。ただ、1000円渡すと部屋をきれいに掃除してくれるんです。彼からコンビを組もうと誘われた時、『やった! これでずっと部屋がきれいになる』と」
常道「もっとほかに理由あるやろ!」
 さて気になるのが、決勝での投票。番組では発表されなかったが、彼らが選んだのはバッファロー吾郎だ。
常道「真剣に審査しました。僕はバナナマンさん。ただ彼がバッファロー吾郎さんのコントに涙を流して笑っていて、それを見て『ここまで自分は笑っていたかな?』と考えたんです」
 そう、彼らはネタも審査も真摯に、2700%の力で対峙していたのだ。
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もちろん、リライト対応した別の原稿は載ります。
彼らを紹介するページはちゃんとあります。

本番をテレビでご覧になっていらっしゃった方には「なるほど、そうだったのか」という部分もあるやもしれません。

▼リード

「2700? 誰それ」。キングオブコント2008のファイナリストに選ばれた彼らの名は、本拠地の大阪ですら知る者はいなかった。謎に包まれた長身コンビ、その正体に迫る!

▼大見出し

テレビに出たのは、たった3回だけ
超無名コンビが雪辱を晴らした瞬間

▼本文

決勝メンバーに選ばれ
驚きのあまり、声が…

 いったい誰? 決勝進出メンバーに選ばれた彼らの名を聞いて、誰しもがそう思ったのではないだろうか。なんせそれまでテレビに出たのは、わずか3回。お笑いマニアのみならず、吉本興業の社員でさえ、彼らの名を知る者はきわめて少なかったのだ。
八十島「決勝に選ばれた時は、本当に驚きました。驚きすぎて、しばらくは私生活でもうまく喋ることができなくなりました。声が裏返るんですよ」
常道「僕はもう嬉しくて仕方なかった。早く決勝戦をやりたかった。怖さ? なかったです。それより決勝戦が終ってまた元の生活に戻るのが怖かった。それまで、舞台にもなかなか出させてもらえなかったから」

同期が次々とブレイク
焦りを感じていた日々

 八十島はNSC27期生。同期に藤崎マーケット、天竺鼠、鎌鼬、ビタミンSらがいる。仲間が続々とブレイクを果す姿を尻目に、彼は焦っていた。
八十島「同期はみんなすごく仲がいい。それだけにずっと劣等感を抱いていました。仲間が売れてゆくなか、俺だけなんの答も出せていないと。『KOC』はもちろん優勝したかったけれど、それより『なんとか仲間と肩を並べられた。これでやっと彼らと勝負できる』という安堵の気持ちが大きかったです」
常道「僕は八十島さんのひとつ下の27期。鎌鼬の濱家さんが26期と27期が仲よくなれるようバーベキュー大会を開いてくださったんです。そこで八十島さんと知りあえたし、決勝に残れて恩返しができたなと思いましたね」
八十島「常道と知り合って、『こいつ凄いな、おもしろいな』と思える部分は、まったくなかった(笑)。ただ、1000円渡すと部屋をきれいに掃除してくれるんです。彼からコンビを組もうと誘われた時、『やった! これでずっと部屋がきれいになる』と」
常道「もっとほかに理由あるやろ!」
 さて気になるのが、決勝での投票。番組では発表されなかったが、彼らが選んだのはバッファロー吾郎だ。
常道「真剣に審査しました。僕はバナナマンさん。ただ彼がバッファロー吾郎さんのコントに涙を流して笑っていて、それを見て『ここまで自分は笑っていたかな?』と考えたんです」
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