2005.10 ダチョウ倶楽部 結成20周年インタビュー
いつもテレビのどこかにいて、いじられ、いじめられ、それなのにちっとも悲壮な空気にならず、和みの世界に連れていってくれる。それがダチョウ倶楽部。しかし3人の織りなすリラクゼーションなおもろさは、“お笑い第三世代”と呼ばれた宿命の星のもと、生き残りを賭け芸能界の波を泳ぎ抜いたからこそ醸し出されるもの。タフだから、優しいのだ。遂に結成20周年を迎えた彼らに、今日までの戦跡を振り返っていただこう。
「芸能人になりたい」と家出同然に上京
――以前から疑問に思っていたことを、まずお訊きします。肥後さんは沖縄出身ですよね? 肥後さんの幼少期にお笑いに目覚めるきっかけが沖縄にもあったのでしょうか。
肥後 今でこそガレッジセールとか沖縄出身の芸人がたくさんいるけど、当時はまったくいなかったですね。僕だけだったんじゃないかな。
上島 あと具志堅用高さんとかね。
肥後 そうそう、具志堅さんが唯一お笑いで、ってコラ!(笑)。東京や大阪なら寄席や劇場もたくさんあるけど沖縄にはなかったですね。テレビも2局しかなかった。ただ公開番組をよくやるんですよ。特に沖縄海洋博(75年)の年は『8時だヨ!全員集合』(TBS)が『海洋博だヨ!全員集合』に名前を変えてやったり。まだ志村けんさんじゃなく荒井注さんの頃かな。そういうのは全部観に行ってました。
寺門 リーダーは公開番組の追っかけだったんだよな。
――なんでもコント55号(萩本欽一・坂上二郎)についての研究をノートにたくさん記していたそうですね。
肥後 いやいや、研究ってほどじゃ。ビデオなんかないからネタを書き写してたんですよ。欽ちゃんが好きだったから。
――ネタを書き写すほどお笑いが好きだった少年は、確かに往時の沖縄では珍しかったでしょうね。方や上島さんと(寺門)ジモンさんはお笑いのメッカである関西の兵庫県ご出身ですが、お笑いはお好きでしたか?
上島 吉本新喜劇は好きだったけど、僕はお笑いより映画でしたね。外国の俳優が「何億のギャラを貰った」と雑誌に書いてあるのを見て、憧れてね。将来は俳優になりたいと思ってました。
寺門 こいつ、自分でスケジュール帳を買ってきて、“○月○日 撮影”とか書き込んでんの。映画のポスターにマジックで“友情出演:上島竜兵”って書いたり。おかしいよ。
上島 バカだったからね。空想人間。でも、まともだったら芸能界は諦めてたよ。
寺門 俺も芸能人になりたかっただけ。小学校の卒業アルバムに「芸能人になりたい」って書くほど。同級生に褒められるもの。「芸能人になる」って書いて、本当になったやつはお前だけだって。
――ジモンさんが芸能人に憧れたきっかけは、なんだったんですか?
寺門 俺も映画でしたね。『ベンハー』とかスペクタクル映画が好きで。あとから『お笑いウルトラクイズ』で凄いスペクタクルやってるんで、あながちハズれちゃいないんだけどね(笑)。それで映画俳優になりたくて、小学校の時、黒澤監督に手紙を出したの。
――黒澤監督って、まさかあの“世界のクロサワ”こと黒澤明監督ですか?
寺門 そうだよ。なんかの映画で落ち武者の役を募集してたの。“36歳前後の男性俳優募集”って。俺、小学生なのに上半身裸の写真を10枚くらい送ってさ。バカだよね。でもなんと黒澤監督から直筆の返事が届いてね! 「あなたは今回の募集の要項には合致していませんが、夢を持ち続けてください」って。もう感激でね。凄い世界だと思ったよ。
――そうして、それぞれ夢を抱いて上京するわけですが、親御さんの反対はありませんでしたか?
肥後 沖縄だから“芸人になる”って意味すら理解してもらえないですよ。両親も友人もすべて。「なに言ってるさ~」って。だからもう、半分家出ですね。脱北するような気持ちで。デザイナーになるって嘘をついてね。
寺門 うちも親父が銀行員で、親戚や先祖も学校の先生や医者とか堅い仕事ばっかり。だから、お母さん泣いてました。「この子はなにを言い出すんだ」と。ただ親父がね、「自分たちの考えが及ばない世界だし、芸能人になることを許すわけじゃないけれど、一切援助なしでやっていくんなら何も言わない」と。それで早稲田大学受験のために親から貰った金でテアトルエコーって養成所に通ったの。忘れもしない。30万円だよ! 大金だよ。
――じゃぁ、勘当同然で上京されたんですね。上島さんは?
上島 うちは親から「東京に行くなら資格つけていけ」って言われて簿記の専門学校に通ってね。それからバイトで金貯めて上京して、大ファンだった西田敏行さんのいる青年座に入ったの。でも親が病気で倒れちゃって。半年で辞めて神戸に帰ったんです。
――あ、一度ご実家に戻られてるんですね。
上島 ただ俳優への夢が捨てきれなくてね。また青年座を受けたんですよ。試験が“バケツを持ったまま犬に追いかけられる”っていうパントマイム。それで「わっ、犬だ! 助けてくれ~」とかやったんですよ。そしたら大爆笑でね。あ、こりゃ受かると思ったんですよ。あとでわかったんだけど、パントマイムって声を出しちゃいけなかったんだね(笑)。それで案の定落ちて、寺門くんのいるテアトルエコーに入ったんです。
肥後 そのパントマイム、観てみたかったな~。
渡辺正行の号令で集められた3人
――皆さんはそれからどのようにしてお笑い芸人への道を進まれたのですか?
肥後 僕はうまくデザイン事務所に潜り込めたんだけど、やっぱり芸人になりたいから好きになれないんですよ仕事が。それで当時、萩本欽一さんが『欽ちゃんのドーンとやってみよう!』(フジテレビ)って番組で素人をイジッて笑いを取ってたんですよ。それを観て「俺も素人だからイジッてくれるんじゃないかな」と思って、自宅に押しかけていったんです。
――え! いきなり萩本さんのご自宅にですか?
肥後 そしたら運よく欽ちゃんがいてね。和室の奥にドーンと。もう嬉しくなっちゃって、「あ、ナマ欽ちゃんだ! 弟子にしてくださ~い」って横にちょこんと座ったの。そしたら欽ちゃんが、『キミ、それ、違う』と(笑)。
――確かにちょっと失礼かも(笑)。
肥後 「キミね、ふすまを開けた時からここに来るまでに人生が懸かってるんだよ」と。そっから延々説教ですよ。そして「君は才能があると思うよ。ウチに来るより、他のところに行きなさい。そのほうがいいよ」と。才能があるって言われて嬉しくなっちゃって。でもあとでよく考えたら、ていよく断られてただけなんだよね(笑)。
寺門 あとで恨まれないように。
肥後 そうそう。欽ちゃんマジック。それで渋谷の道頓堀劇場っていうストリップ小屋に行ったんですよ。「芸人になりたいんですけど」「いいよ~」って。欽ちゃんもビートたけしさんもストリップの幕間コント出身じゃないですか。僕もそういう昭和の芸人さんみたいなことがやりたかったんだね。当時、劇場には中村ゆうじもいたね。
寺門 僕はテアトルエコーで、こう言われたの。「君は正直言って、芝居の世界では残らない。そのかわりガタイがいいから大道具をやらないか?」って。それでもう“寺門”って刺繍がしてある黒いトレーナーができてるんだよ。「このトレーナーが君を待ってる!」って(笑)。ふざけんじゃないよと思ってね。それで当時、コント赤信号や野沢直子さんらテアトルエコー出身の芸人がいたから、自分もお笑いをやろうと思って赤信号の渡辺正行さんのところに何十回も電話した。
――いきなり電話したんですか。
寺門 そうだよ。辛いよ~。だって渡辺さんは俺のこと知らないんだから。電話に出ても「誰お前? なんの用? 今忙しいから」って切られちゃう。だから電話は朝かけるんだよ。渡辺さん、朝しかいないから。そしたら「……なんだよもう」って。そりゃそうだよ、寝てるんだもの。でもそうやってしつこく電話してたら何十回目かに会ってくれることになって。竜ちゃんを誘ってネタ見せに行ったの。
上島 正直、俺はやる気なかったね。お笑いを自分がやれるとも思ってなかったし。
寺門 でも俺は絶対に竜ちゃんは才能があると見込んでた。それでネタを観てもらったんだけど、渡辺さん、目にはサングラス、耳にはウオークマンはめてんだよ。
――見てもいないし聞いてもいないじゃないですか。
寺門 見る前からダメだってわかったんだろうね。それでネタが終わったあと、「はい、わかった。あと10年かかる」って。そして「ストリップ劇場に行って修業しろ」と。
肥後 渡辺さんたち赤信号もそうしてたから。
寺門 でも俺は「イヤです」って答えたの。ストリップは生理的に受けつけない。そしたら渡辺さんが煙草のハイライトを指さして、「これは何に見える? ショートホープだろ?」って言うんだよ。「いえ、これはハイライトです」「バカヤロウ! この世界は先輩がショートホープって言ったらショートホープなんだよ!」って。ストリップから出発しないと芸人にはなれないって事を煙草に置き換えて説明してくれたんだよ。今考えれば、それが渡辺さんの優しさ。でも当時の俺には理解できなかった。
――もしかして、そこで芸人になることを思い止まらされたのですか?
寺門 それが違うんだよ。渡辺さんが優しい人でさ、俺たちのことを気にかけてくれてたんだね。「ストリップ劇場に出入りしている若い芸人たちを集めてパフォーマンス集団を作りたいから、お前らもそいつらと会ってみないか?」って声をかけてくれてね。
肥後 れがダチョウ倶楽部の前身、“キムチクラブ”ですね。一世風靡セピアが流行ってたから、あれのお笑い版をというコンセプトだったと思います。20人くらいいたかな。南部虎弾さん(現:電撃ネットワーク)や俳優の近藤芳正もいて。
――ということは、ダチョウ倶楽部は渡辺正行さんの号令の元に集められたんですか。
肥後 そうです。そこで僕はふたりに初めて会ったんですよ。ふたりが否定したストリップ劇場の側から(笑)。驚いたよ。ふたりは演劇青年でしょう? みんなでネタ作ろうって言ってんのに、いきなりジャージ着てマラソンしたり腹筋運動しだしたり。
寺門 「あえいうえおあお~」とか発声練習したり(笑)。でもリーダーだって酷かったよ。毛玉だらけのネズミ色のジャージ着て。廃人かと思ったもの(笑)。
売れない芸人がダチョウ倶楽部として残った
――その20人から選抜されてダチョウ倶楽部になったんですか?
上島 逆だよ。カスだけ残った(笑)。
寺門 売れてる人はみんな他の仕事に行っちゃうでしょう。仕事のない4人(含む南部虎弾)だけが残ったんだよ。
――肥後さんは、その頃からリーダーだったんですか?
肥後 いや、最初はそれぞれが別の分野で活躍してるってことがポリシーで、特にリーダーを設けてはいなかったんです。ただ取材のたびに「リーダーはいないです。それはこれこれこういう理由があって……」って説明するのがめんどくさくなっちゃって。なら身長が一番高い僕がリーダーってことに。ドリフターズも玉川カルテットもそうだから、ま、それでいいかって。年齢で言えば南部さんがひとまわり上だったし、今のメンバーなら竜ちゃんが一番年上(44歳)だしね。
上島 でも僕、リーダーできないから(笑)。
寺門 南部さんがリーダーだったこともあったんですよ。3日間だけ。
――僕は4人時代のダチョウ倶楽部のことを、よく憶えてるんです。『ザ・テレビ演芸』(テレビ朝日)や『冗談画報』(フジテレビ)で観て衝撃を受けました。ド派手な衣装でダンスをしながらネタをやって、凄く新しかった。PARCOのポスターにもなったり、オシャレな人たちだと思いました。“お笑い第三世代”の波に乗って、めっちゃカッコよかったです。
肥後 いやいやいやいやいやいや!
寺門 俺たちオシャレじゃないよ! モテた憶えないもんな。テレビに出てもさ。「今日のゲストはダウンタウンです」「ギャー!」「ウッチャンナンチャンです!」「ギャー!」「B21スペシャルです」「ギャー!」「ちびっ子ギャングです」「ギャー!」「ダチョウ倶楽部です」「…………」(笑)。ちょっと間があって、クスクス笑いが起きる。
上島 確かにね、4人時代には一瞬ポーンといったんです。それで南部さんが辞めて3人になって、ポーンとさがって(笑)。
肥後 早かったね~。人気が落ちるの。
『お笑いウルトラクイズ』で人気再沸騰
――ダチョウ倶楽部と電撃ネットワークに袂を分かちてから、言いにくいですが傍目にも人気が落ちていたように感じました。そして人気が再沸騰したのが『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(日本テレビ)じゃないかと思うんですが。
肥後 今じゃ絶対テレビでできないですよね。
上島 だってスタントマンが危険だからって拒否したことを芸人がやってたんだから。
寺門 前日は必ずみんな、部屋を片付けて、靴を揃えて、生ゴミを全部捨ててからロケに行ってたんだよ。
――それはまた、なぜですか?
寺門 だって、生きて帰れるかどうか、わかんないじゃん。
――ひえ~!
肥後 熱海でロケして、そのまま熱海の病院に入院して一週間以上帰ってこれない芸人、いっぱいいましたからね。
――確かにバスに芸人を閉じ込め、海に吊して上げ下げするとか、恐ろしい企画満載でしたね。
上島 溺れないよう、ずっとラッシャー板前にしがみついてました(笑)。スタッフからとにかく「常に人数を確認してくれ」って言われてたんです。海に溺れて流されてるやつがいないかどうか。そして数えてみたら9人しかいない。「9人しかいない! 9人しかいない!」って大騒ぎになっちゃって。あとで考えたら、自分を数え忘れてた(笑)。
――ワハハハ! 肥後さんは頭が燃えたこともありましたね。
肥後 燃えましたね~。リュックサック爆弾が破裂して、僕と竜ちゃんの髪が燃えました。
寺門 あんときゃ悔しかった。俺は運動神経があるから、火の粉を除けれたんですよ。でもリーダーと竜ちゃんは髪が燃えて抜けてる。だから竜ちゃんの抜けた髪を掴んで「俺も抜けた~!」って(笑)。
――そんな極限状態のなかで、ダチョウ倶楽部はたくさんの流行語を生みだしましたよね。「聞いてないよ~」や「これが俺の芸風だ!」などなど。
上島 モーターボートが爆発して海に落ちて、上がってきたら僕が全裸になってて。「これが俺の芸風だ!」は、そんときに言ったのかな。アソコにモザイクが入っててね。たけしさんが、「小さすぎて笑えないよバカ!」って(笑)。
寺門 テレビの規制が厳しくなってきて、「ケツは出すな」ってお達しがあったんだよ。そしたら竜ちゃんと井出らっきょさんと春一番が3人で「これからどうしようか、俺たちの人生」って悩んでんの。その絵が面白くてね。そんなこと真剣に悩むなって(笑)。
――でも、あの番組で“リアクションの王者”と賛賞されましたよね。
寺門 簡単にリアクションって言うけど、自分たちのコント作りで培ってきたものを応用したんだよ。「聞いてないよ~」にしたって、本当に聞いてないならリアクションなんてできない。あそこに爆弾が埋まってて、どんなふうに破裂して、そういう確認作業を一個一個丁寧にやる。30分くらい綿密に。コント作りと同じ。それで本番で「聞いてないよ~」って言うからスタッフが笑うんだよ。「あんなに説明したのに!」って。
肥後 最初はね、スタッフを笑わせたかったんですよ。それが世間に広まっていって。
寺門 だからあれはダチョウ倶楽部のコントなんだよ。リアクションという名のコント。
上島 そういうところを、たけしさんがちゃんと見ていて評価してくれたんでしょうね。たけしさんが週刊文春に「いまダチョウ倶楽部が面白い」って書いてくださって。あれがなかったら僕たち、生き残ってないですよ。だから番組って言うより、人だよね。凄い人に引っ張ってきてもらったんだよ僕ら。
偶然から生まれたモノマネが大ヒット
――人といえば、モノマネ番組でも、ご本人を前にしておやりになられたこともありましたよね。お笑いウルトラクイズのほかに、モノマネもまたダチョウ倶楽部の転機ではかなったかと思うのですが。
肥後 そうですね。テレビ東京のモノマネ番組でウルトラマンの真似をやってたんですよ。それを観たフジテレビが「うちでも、ぜひ」って。言わばヘッドハンティング(笑)。
寺門 お子さんが観て喜ぶものが欲しかったんでしょう。怪獣ショーみたいなもんだわ。
肥後 ウルトラマンのキャンデーズとか、モノマネなんだかよくわかんない(笑)。でも『ものまね王座決定戦』で一年半以上ウルトラマンを引っ張って、「もう飽きたな」って言われたんですよ。それで中学時代からやってた名古屋章さんの真似をしたんです。
――名古屋章さんというセレクトが、またシヴイですね。しかも中学時代から。
寺門 これはもうリーダーの貯蓄だよ。芸の貯金だよ。
肥後 それで、まぁ、どんどんネタがマニアックになっていって。森本レオさんをやろうってなったとき、メイクさんから「髪型どうします?」って訊かれたんです。そこまで考えてなかったから悩んじゃって。髪の毛を掻き毟ったの。そして鏡を見たら、「あ、森本レオだ!」(笑)。
――あのちょっと髪が小汚い感じは、偶然の産物だったんですか!
寺門 それよりもっと凄い偶然があったんだから。その日の審査員が、なんと森本レオさん!
肥後 あれは驚いたね~。
寺門 新しいモノマネの夜明けだよ。それまでモノマネといえば歌だったんだから。リーダーは森本レオさんのモノマネで人気が出て、車を買いましたからね。
肥後 言わなくていいよ、そんなこと(笑)。
上島 でも、僕らのモノマネは特殊メイクですから。モノマネじゃない。だって声が似てないんだもの。SFXみたいなもんだわ。
肥後 橋田寿賀子さんとか、まさに特殊メイクだよね。
寺門 ある意味、ビジュアル系だよ俺たち(笑)。
来る仕事にすべて応じた結果が……
――そうしてダチョウ倶楽部の人気はさらに上昇し、『つかみはOK!』(TBS)や『名門! パープリン大学日本校』(テレビ東京)などゴールデンタイムの冠番組を2本も同時に持たれ、24時間テレビではマラソンランナー(95年)にも選ばれましたよね。ダチョウ倶楽部の黄金期と呼べるのでは。
寺門 マラソンはSMAPとダチョウ倶楽部、どっちにするかって話だったんだから。
肥後 あれはSMAPが断ったんだよ(笑)。
――そんな時期に有頂天になったり天狗になったりはしなかったんですか?
上島 ならないならない。来た仕事をやるので精一杯。
肥後 目先目先でやってたからね。
寺門 だって『つかみはOK!』の裏番組にも出てたからね俺たち。しかもこの日に視聴率が良くないとヤバイって時に。とにかく各局「ダチョウ倶楽部が欲しい、ダチョウ倶楽部が欲しい」って思ってて、それに全部応えてた。裏番組に出たことをTBSがさすがに怒って、ワンクールで打ち切りになった。でも当時は何が正しいことなのか考えられなかったし、今もあの時どうすることが正しかったかなんて、わからない。ただ言えるのは、俺はこのふたりには才能がある、このふたりがなんとかなるようにってずっと考えてやってきたよ。俺はただの人間。このふたりに出会ってなかったら、芸能人にはなれなかったんだから。
肥後 ダチョウ倶楽部をやってなかったら、たぶんお前、どっかの病院に入院してんだろうな(笑)。
上島竜兵の酒ぐせの悪さに遂に説教
――お話を伺っていますと、お3人さんの結束の固さや信頼の篤さに圧倒されるし、惚れ惚れとしてしまうんです。よくこれだけ個性が違う人間が永くやれてるなと。
寺門 健康番組に出るとさ、お医者さんが驚くもの。「デブとノッポと筋肉質、よくこれだけ違ったサンプルが揃った」って(笑)。
――リーダーには3人を束ねる秘訣があるのでしょうか。
肥後 ないない。なんにもまとめてないですよ。ていうか、相手にしてない(笑)。怒ったって話を聞かない人たちだし、怒るのもうっとうしい(笑)。
――例えば、上島さんがお酒がお好きなので、飲み過ぎを注意したとか。
肥後 あ~、昔あったね! バナナパワーってショーパブで演ってたとき、竜ちゃんが酒を飲みすぎてベロベロになっちゃって、セリフはぜんぜん憶えてないし、ケツ出して暴れてるしで。ネタを固める大事な時期だったから、そんときはさすがに説教したね。
上島 バナナパワーって、楽屋袖がないんです。だから出番をカウンターの中で待つんだけど、やることないから客がボトルキープした酒を飲んじゃうんですよ。
肥後 昔は太田プロの稽古場でも竜ちゃんが飲んだワンカップの空き瓶が山積み。「神聖な稽古場で酒なんか飲むな!」って怒られてね。
上島 しょうがないからチューハイを飲むようにして(笑)。だってリーダーと寺門くんがネタのことで討論してても、ついていけないんだよ。聞いてても何がなんだか、頭がもたないんです。酒飲まないと座ってられないんだよ。本番の時でも、段取りがあるとわかんなくなる。こう言われたら、ああ言うみたいな。頭ガーッとなっちゃって。それでワンカップ2本くらい開けちゃう。普通のサラリーマンだったら、とっくにクビでしょうね。
寺門 ふたりとも酒飲みでしょう。俺、酒飲まないから、もう臭くて臭くて。「ヤーッ!」ってやるじゃない。ふたりが吐いた息で酔っ払うから俺(笑)。まぁでも、このリーダーがいるから成り立ってるんだよ。「ん? いいんじゃない? いいんじゃない?」って心が広いから。リーダーってさ、車を買う時でも、この3人が乗れる車を選ぶんだよね。
肥後 俺は本当は小っちゃい車が欲しいんだよ。でもお前らが「これじゃ俺たちが乗れない」って言うからさ。
肥後の助言から生まれた「豆しぼりくん」
――優しいですね~。上島さんの「豆絞りくん」も、肥後さんからのアドバイスがあったとお聞きしたのですが、本当ですか?
上島 豆しぼりくんはね、最初マネージャーから「ダウンタウンのガキの使いやあらへんで(日本テレビ)から出演依頼が来てるんですが」って言われたの。「ハイテンション・ザ・ベストテン」って企画で。他に誰が出るのか訊いたら、雨上がり決死隊とかそうそうたるメンバー。もう、ふたつ返事でOK。でもあとで、3人だったらなんとかなるけど、ひとりで出てどうしようかって悩んじゃってね。それで前日にリーダーに相談したの。
肥後 頬っかむりに褌で、やるしかないよなぁ、って。
上島 それでリーダーが、「みんな大騒ぎするだけだろうから、竜ちゃんは最後に泣いた方がいいよ」って言ってくれて。
――あ、最後に豆しぼりくんが泣くアイデアは肥後さんがお考えになったんですか! 最後に豆しぼりくんがポロリと涙を流すところは、笑いを越えて感動しましたよ。
肥後 そこは竜ちゃんの俳優になりたかった頃の心をくすぐったんです(笑)。「テンションって、いろいろあるだろ? 叫ぶテンションもあれば、泣くテンションの上がり方もあるはずだよ」って。そしたら竜ちゃんが「そうか!」って涙ぐんじゃって。内心「バカだなぁ、こいつ」と思ってましたよ(笑)。
上島 それにあれは浜田さんに救われたね。最後に「豆しぼりくん、さよ~なら~」って言うんだけど、「じゃぁ、お前は誰やねん!」って(笑)。うまく拾ってもらえて。
――よく考えたらシュールですよね。豆しぼりくんだと思ってずっと見てたら、違う人だったという衝撃の結末。
上島 そういう拾ってくれる人がいたら成立するんだけど、もう最近どこでも「豆しぼりくん、やって」って言われるから困っちゃって。温泉番組で豆しぼりくんをやったって普通でしょ?(笑)。24時間テレビでやらされた時は、さすがにみんなヒいてましたよ。
――でもなんだか、お3人さんの関係が羨ましいです。これまで20年、解散の危機はなかったんでしょうか。
肥後 解散? ないない。必要ないもの、解散なんて。めんどくさいし。
寺門 毎日仕事精一杯だから、考えたこともないよ解散なんて。それにひとりひとりの仕事もあるから。
肥後 でも一回解散してみるのも面白いかもね。そしてすぐ再結成コンサートをやって儲けるっての、どう?
寺門 そんなの誰が観に来るんだよバカヤロ(笑)。
――でも再結成コンサートとは言わないまでも、せっかく20周年なのですから、なにかイベントを催されてみてはいかがでしょう。
肥後 いや、ぜんぜん考えてないです。でも20年間の集大成に、これまで竜ちゃんがやったバンジージャンプとか収録したDVDなんか出すのも面白そうだね。竜ちゃんにもう一回やってもらって。
上島 もうやりたくないわ!