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November 29, 2015

「日本文化はハイコンテクスト」には実証的根拠がない

以前にこういう記事を書いた。

大学院に入ったら「日本人の民族性」の話はとりあえず疑うべき - こにしき(言葉、日本社会、教育)

学術的な議論日本人論・日本文化論を安易密輸入してしまうのは、教科教育学に共通する深刻な問題点の一つだと思うが、そもそも「学術的に正しくない」ことだけが問題ではない。日本人論は倫理的政治的にも問題を含んでおり、アカデミアの住人じゃないから大目に見ましょうという話にはならないはずである。いずれにせよ批判を続けていかなくてはならない。

先日の英語教育フォーラムでも話したことだけれど、「各民族文化にどのような特徴があるのか?」という問いは、もちろん大きな意義があるが――いや意義があるからこそ――、きわめて壮大な問いであり、きちんと研究しようとするのなら莫大なコストがかかる。大雑把に考えても数千万円〜数十億円規模の調査ではじめて実証できる問いであって、一介の研究者が手に負える代物ではない。

ましてや学生卒論修論でこんな問いを「実証」しようとするならば、指導教官は全力で止めるべきだろう。

これは学者でも同じである。どれだけ偉い学者が言っていようが関係ない。私たちは偉いから学者を信用するのではなく、信用されるような根拠を出してくれる学者を結果的に「偉いなあ」と思うだけの話。

たとえば、エドワードホールの「日本語コミュニケーションはハイコンテクスト」云々という話がある。英語教育関係の文献で、以下の様な図を見たことがある人も多いと思う。

ハイコンテクスト 
  ↑日本
  |・・・
  |アラブ
  |・・・
  |アメリカ
  |・・・
  ↓ドイツ語圏スイス
ローコンテクスト 

ハイコンテクストとは「察しの文化」とか「以心伝心」みたいな話をイメージしてもらえばわかりやすい。日本人は会話に伴う種々の状況(コンテクスト)をいちいち明示せず、暗黙的に共有することを好むという話である。これと反対が、ローコンテクスト文化におけるコミュニケーションである。たとえば、ドイツ語話者(とくにドイツ語圏スイス人)は何事も言語で明示することが重視され、「以心伝心」などに価値を置かないという。


実はこの理論原典を読めばわかると思うが、ホールは信頼に足る実証的根拠を示していない。

実際、その後の追試で概ね否定されてしまった。

反証した研究はネット上で簡単に見つかる(もちろん、又聞きの又聞きで「再生産」している記事はその何十倍も見つかるが)。

たとえば、Google Scholar で「hall "contexting model" criticism」で検索した結果が以下。たくさんの文献がヒットした。もっとも、キーワードにヒットしただけなので、中にはホールの枠組みに乗っかるだけの研究もあるが、トップに上がってきているものの多くが批判的な研究である。


たとえば、Cardon (2008) という研究がある*1


ホールの高コンテクスト/低コンテクストという文化類型真に受けた検討対象にした実証研究が今までに多数行われてきた。それらをメタアナリシスしたところ、もともとのホールの主張はとてもじゃないけど支持できないということが明らかになった、という論文。(なおメタアナリシスとは、簡単にいえば、統計学的に洗練された方法に基づく先行研究レビュー手法のことである)。


常識的に考えて、各国・各民族のコミュニケーション上の特性を、代表性にきちんと配慮しつつ実証的に検討することは並大抵のことではないはずだ。知人の●●人を思い浮かべて、その人のコミュニケーションスタイルを論じるような「お手軽文化比較」ならまだしも。

*1:Cardon, P. W. (2008). A Critique of Hall's Contexting Model A Meta-Analysis of Literature on Intercultural Business and Technical Communication. Journal of Business and Technical Communication, 22(4), 399-428.

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