世の中、バカが多くて疲れません?『高慢と偏見』
今は昔、桃井かおりが、つぶやいた。
気だるく吐き棄てる口調に、ムッとしたことを覚えている。このCMにクレームが殺到し、「バカ」が「お利口さん」に差し替えられたという。「まるで自分のことを馬鹿にされたようで不愉快だ」という苦情が主だったらしい。
だが、人はプライドの奴隷だ。差し替えられても意味は変わらないところに、そして差し替えられたら鎮火したところに、ユーモアが効いている。この可笑しさに、長いこと分からなかった。本当に嗤うべきは、反応した自分自身なのだということに、長いあいだ気づけなかった。
ジェイン・オースティン『高慢と偏見』は、さながら馬鹿の見本市だ。超々々めんどくさい男、嫌味と自慢のマウンティング大会、度し難いツンデレ、殺意を伴う自己中など、人の愚かしさをこれでもかと見せてくれる。馬鹿をバカにすることは愉しい。イソターネットはそういう輩の発見器であり、拡大鏡であり、集光器なのだが、うっかり笑うと見つかってしまう。人間、何が一番腹を立てるかというと、ホントのことを言われることほど怒り狂うものはないからね。
だがご安心あれ、本書に登場する非実在青少年なら安全だ。主人公のエリザベスや、その父親のベネット氏など、お利口さんが、ちゃんと指差してくれるから、安全に、完全に高みの見物で、思う存分笑いのめすことができる。金だけはあったり、気位だけは高かったりする、正真正銘のバカの皮を剥いで嗤うことほど愉快なことはない。おまけに英国の小説だけあって、隙あらばうまいこと言ってやれとどのページも諧謔と名言に満ちており、電車で笑いが止まらなくなってえらく困った。
しかし、中盤あたりで裏返る。どんどん明かされる"意外な真相"は、実は意外でもなんでもなく、お利口さんたちの偏見がなせる業だったりする。同時に、お利口さんも愛すべき愚か者であることが見えてくる。人は誰も笑いの網から逃れられない。エリザベスの独白「私が盲目になったのは恋のためではなく、虚栄心のためなのだ」が刺さる刺さる。
だが、人は偏見の奴隷だ。自分が馬鹿にしていたものが、単なる思い込みにまみれた評価にすぎなかったり、神視点の読者のプライドを守らんがために固執していることに気づかされる。この辺りのエリザベスの変化が激しく面白い。本書に隠れたメッセージがあるならば、「人は愚かだが、人は変われる」やね。そして次第に、わたし自身の愚かしさがジワジワくるようになる。最初の考えを大事にするあまり、その偏見を正当化してくれる言葉を求めて探し回っているから。これはイソターネッツでいつもやってること、バカを嗤う大馬鹿とは、実はわたしなのだ。
ここからはジェットコースター、自分が頂上にいるのに気づいたときにはもう遅い。あっという間に、すごい勢いで、次から次へと驚かされる。前半の伏線が後半できれいに巻き取られていく様は、よくできた推理小説のようだし、心情の機微を絶妙に(≒巧妙に)見せたり隠したりする手技は、ラブコメのお手本そのもの。
桃井かおり「バカが多くて疲れません?」の返歌は、エリザベスの父がラストに吐く。曰く「われわれが何のために生きているのかね? 隣人に笑われたり、逆に彼らを笑ったり、それが人生じゃないのかね?」このセリフをこの父に言わせる、すったもんだのさんざんを、舐めてきたから分かる、刺さる。いつだって可笑しいほど誰もが誰か笑い笑われて生きるんやね。
男女のすれ違いから生まれるおかしみと情熱を、小気味よく捌いて心地よく魅せてくれるうちに、気づいたら終わっていた。このラブコメの正統派感は ─── そうだな、『めぞん一刻』だな。話もキャラもぜんぜん違うけれど、200年と地球半分を超えて、同じ涙と笑いとヤキモキを保証する。
固いタイトルは詐欺だ、読まずに死んだらもったいない。
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