こんにちは、田中です。
今日は、17世紀に起こった近代科学革命に始まる、自然科学と、それ以前の自然研究の違いと共通点について、ちょっと整理しておこうと思います。
近代の自然科学とそれ以前の自然研究の共通点
17世紀以降の近代の自然科学が、それ以前の古代ギリシャとかでの自然研究で共通している点は、「自然現象を説明する」という目的です。
自然現象をよく観察することによって、「このように自然を解釈すれば、自然を説明できる」ことを目指している、という点は、近代の自然科学とそれ以前の自然研究で共通していることです。
自然科学の源流は、紀元前6世紀に、イオニア地方のミレトスで始まった自然哲学です。
例えば、ミレトスという場所にいたタレスという人は、万物の根源は水だ、と考えて、神と自然現象を分離しました。
自然現象を説明しようとしたのです。
自然現象をよく観察することによって自然を解釈し、自然を説明する。
この目的は共通しています。
では次に、近代の自然科学とそれ以前の自然研究の違いについて整理してみます。
近代の自然科学とそれ以前の自然研究の違い
近代の自然科学の特徴は、「数値で表現できるデータの間の関係性を確立する」ことです。
17世紀に起きた近代科学革命は、自然現象に対する問いの立て方についての革命です。
ガリレオ・ガリレイは、「実験データの間の関係性を確立する」という姿勢に転換しています。
それが近代の自然科学とそれ以前の自然研究の違いです。
なぜなら、近代以前では、「現象の本質を追求する」というアリストテレスのような姿勢で、自然現象を研究しているからです。
アリストテレスは、自然現象を、目的という観点から考える傾向があります。
しかし、ガリレオは、自然の目的とかそういうことではなく、実験データの間の関係性を確立する、という方向に変えたのです。
岸根順一郎さんが言うには、これは、質から量への転換ともいえるし、
また、対象から方法へと転換したとも言えるそうです。
つまり、近代の自然科学は、関係を法則化した、というのが特徴です。
関係を法則化したガリレオとニュートン
例えば、ガリレオは、「物体の落下距離が落下時間の2乗に比例する」という関係を発見していますよね。
この発見は、時間と距離がどういう関係であるかを法則化しています。
決しては、なぜ運動が起こるのかとか、運動の目的を考えているわけではありません。
また、ニュートンは力と加速度の関係を法則にしていますよね。
彼は「物体に力が作用すると加速度が生じる」という関係を見つけました。
決して、力の起源とか目的を考えてはいないですよね。
ニュートンは、問いにする対象を限定して、さらに「力」と「運動」という2つの基本要素に注目しました。
そして、力と運動の関係を、記述することに成功しました。
19世紀の物理学者のキルヒホッフは、次のように言っています。
「力学は運動を記述する学問であって、説明する学問ではない。」キルヒホッフ
自然科学は、データの比較をして、関係を調べることが重要だということですよね。
それゆえ、近代科学の研究対象は、数値化できるものに限定されますよね。
つまり、測ることができるものしか、研究の対象にはできない、ということです。
ガリレオも次のように言っています。
「測ることができるすべてのものを測れ。測ることができないものは、測ることができるようにしろ。」ガリレオ(1)
それゆえ、次のように言うことができますよね。
自然科学の世界では、「知る」こととは測ることである。
自然の現象を数で表現できるようにして、そのデータの関係性を調べること、これがポイントとなります。
実験のデータをグラフに表現して、解析することは、関数の概念を使って数学的に調べることですよね。
岸根順一郎さんが言うには、量の関係を記述するために、数学という言語を使うのだそうです。
自然現象の質を調べるんじゃなくて、量を記述するために、数学を使う。
ガリレオは次のようにも言っています。
「自然という書物は、数学という言語で書かれている」ガリレオ
現実の自然現象を、数学との連関で捉える、という発想が、近代の自然科学の大きな特徴であるようですね。
これに対して、アリストテレスは逆の立場をとっています。
アリストテレスは、数学は現実の自然現象とはつながらない、と考えていました。
ガリレオとは全く前提が違いますよね。
数学が自然現象とつながるかどうか、という前提の違いが、近代科学とそれ以前の研究の大きな違いと言えそうです。
実験と数学の関係については、数学者のポアンカレが次のように言っています。
「全ての法則は実験から引き出される。しかし、この法則を記述するのには特別な言語を必要とする。日常の言語はあまりに貧弱であり、それに、このように微妙でこのように豊富で、しかもこのように精密な関係を表現するためには、あまりに曖昧すぎる。これが、すなわち、物理学者が数学なしに済ませることができない1つの理由であって、数学は物理学者が話すことができる唯一の言語を物理学者に提供する。」ポアンカレ『科学の価値』(2)
ポアンカレが言うには、私たちが日常で使っている言語は、あまりに曖昧で、正確さに欠けるのです。
日常で使う言葉が非常に曖昧であることは間違いありません。
数学者のゴットロープ・フレーゲも同じことを言っています。
ポアンカレは次のようにも言っています。
「よく作られた言語は、どうでもいいようなものではない。話を物理学に限定するなら、熱という言葉を発明した無名の人は、多くの世代を誤りに落とし入れてしまった。熱という名詞で表現したばかりに、ただそれだけの理由によって、熱はまるで物質であるかのように取り扱われて、また、不滅のものだ、と信じられた。」ポアンカレ『科学の価値』(2)
このポアンカレの発言は、非常に鋭い洞察です。
「熱」という名前を使ったことによって、何か対象が存在するかのように、何か実体があるかのように、考えてしまうのです。
「熱」という曖昧な名詞が、人を間違いへと導いてしまうのです。
ここに、言語の罠がありますよね。
何か名前を付けることによって、その名前の指示対象が存在するかのように考えてしまいます。
名前というものは、私たちを間違いに導くものなのかもしれません。
話がちょっとずれましたけど、
そういうわけで、近代の自然科学とそれ以前の自然研究の、共通点と違いについて整理しました。
まとめ
・自然研究の目的は、自然現象を説明すること。
・近代の自然科学は、実験データの間の関係を記述する。
・数値で測ることができないものは、近代の自然科学の研究対象ではない。
・近代の自然科学は、自然現象を数で表現し、数学という言語を使う。
・日常の言語は曖昧すぎる。
注
(1)I Gordonand and S Sorkin, The Armchair Science Reader(New York 1959)
(2)ポアンカレ『科学の価値』
参考文献
岸根順一郎、大森聡一『自然科学はじめの一歩』、一般財団法人 放送大学教育振興会、2015年
ポアンカレ『科学の価値』