はじめに
みなさん、はじめまして。 黒澤はゆまと申します。
2年半ほど前に、『劉邦の宦官』という作品でデビューした、いわゆる歴史小説家です。
『劉邦の宦官』は、前漢はじめの古代中国を舞台に、皇帝と宦官、少年同士の悲恋を描いた小説でしたが、今回、cakesの軒を借りて連載するテーマも「闘う男と少年愛」。歴史のなかの美少年を追って、日本に、中国に、ローマに、イスラムに、時空を超えて世界中飛び回ろうと思います。
あっ、一応ヘテロで、これまで好きになった人はすべて女性です。もちろん、それは幸福なことでも、不幸なことでもありませんが。
さて、振り返ってみると、自分が少年愛というテーマに、歴史と並んで取りつかれるようになったのは、少年時代のコンプレックスが原因のように思います。
今でも小さいのですが、昔はもっと小さくて、小学校1年から高校3年まで、背の高い順で並ぶと必ず1番前。小学校はともかく、中高の男子なんて、猿か犬みたいなもんですからね。肉体的に小さくて弱いというのは決定的。中学は結構荒れてたし、大きくて強い同級生のげんこつに、いつもおびえていました。
ただ、私はこすいところもあって、こちらのメンツは守って、対等の友人関係を結びつつ、何かあったら守ってくれる、そういう人を猿山のなかから探し出すのがうまかった。少し前にはやった漫画のカメレオンみたいなやつですが、それで、幸いシビアないじめにはあいませんでした。
しかし、こうした「庇護されている」というポジションにいると、時々守ってくれる人たちに妖しいときめきを覚えるものなんですね。
もしくは、守られている自分自身にうっとりする。真実は、単に小さくて弱くておまけに醜かっただけなんですが、思春期の手に負えない自意識というのは、自分を支えるために、それを転倒して豪奢な嘘の衣装を着せてしまう。「自分は小さくてかわいいから守ってもらえるんだ」とか。
そんな守ってくれる友人の1人だった不良が、タフな喧嘩のあと、たわむれて私の真っ白なYシャツで血まみれの顔を拭ったときのドキドキ。
私の場合、そのドキドキは、本格的な同性愛につながるドキドキには結局ならなかったのですが、これからお話する闘う男と少年との間にあったドキドキとは、ひょっとしたら一脈通じるところがあったのかもしれません。
猛将・武田信玄のラブレター
武田信玄というと、「戦国最強の武将は?」という話題になれば、その候補に必ずあがる人物です。
今でいう山梨県、長野県、静岡県、岐阜県、群馬県にまたがる広大な版図を築き、信長を恐れはばからせ、家康を脱糞しながら逃げ惑わせた男。上杉謙信との5度にわたる川中島合戦の名勝負も有名ですね。
政戦両方に見事な才腕を見せたのみならず、文芸にも秀で、残した詩歌と絵画は殿様の余技の域をはるかに超えています。
筆不精な人だったんですが、有名武将だけに残した文書は多くて、約1500点。そのほとんどが公的ないわゆるビジネス文書で、キャラクターをうかがえる私信は少なかったりします。その数少ない私信のひとつに、ラブレターがあると言えば、みな興味をそそられるでしょう。まして、その相手がまだ20歳にも届かぬ美少年だとしたら。
その少年の名は、春日源助。
あまり身分の高い家の出ではないのですが、愛らしい切り髪に、目の縁いっぱいにみなぎる黒い瞳、白い歯並みをこぼしていたずらっぽく笑う風情が何とも艶で、当時、25歳の信玄は首ったけになりました。
恋文の内容ですが、要は猛アタック中の源助から、弥七郎という別の少年との浮気を疑われて、信玄は必死で釈明しているのですね。この時、源助は腹を立てて、登校ならぬ登城拒否をしていたそうです。
信玄には悪いですが、以下に全文を紹介します。
一、弥七郎に度々言い寄ったがお腹が痛いと言われ、思うようになりませんでした。嘘じゃないです。
一、弥七郎を伽に寝させたことはありません。以前にもなかったです。ましてや昼夜続けてなんて。特に今夜なんてもっての外のことです。
一、あなたと深い仲になりたいと、いろいろ手を尽くしているのに、かえってお疑いになります。もう、どうしたらよいのか分かりません。
わたしの言うことに、嘘があったら当国の一二三大明神、富士、白山、特に八幡大菩薩、諏訪上下大明神の罰を受けるでしょう。本来なら牛王宝印を押した起請紙に書くべきところですが、庚申待ちで人が多いので白紙に書いておき、明日、重ねて書いて差し上げます。
(天文十五年)
七月五日 晴信(花押)
(春日) 源助殿
「言い寄ったことは確かだけど、最後までやらなかったので、潔白です」という言い訳が、はたして言い訳として成り立っているのかは疑問ですが、第3条の「あなたと深い仲になりたいと、いろいろ手を尽くしているのに、かえってお疑いになります。もう、どうしたらよいのか分かりません」なんかは、信玄の素直なもの苦しい気持ちが伝わってきてよいですね。
弁明のつたなさや、たあいなく「どうしたらよいかわからない」と弱音を吐いてしまうあたり、信長や家康に恫喝と韜晦、嘲笑の限りを尽くした文を書き、震え上がらせた人間と同一人物とは思えません。
面白いのは、文面からわかる通り、信玄が年下、しかも家来筋の相手に、ずいぶんへりくだった手紙を送っていることです。大名と小姓というと、時代劇の悪代官と町娘のように、相手がどう思おうが、無理無体に手ごめにしてしまうという印象があるのですが、その関係は案外フラットだったようです。
少年たちにしろ、お腹が痛いから今日は嫌と言ったり、腹を立てて家に引きこもったりと、かなり自由奔放にふるまっています。
信玄は正室三条夫人のほかに多くの側室を抱え、子供もたくさん作っていますから、女性も好きだったのは間違いないのですが、そっち方面には人間的な温もりを感じさせるエピソードは、あまり残っていません。有名な諏訪御料人にしても、勝頼を産ませたあとは、諏訪に置き捨てにして、25歳と若くして死ぬまでほったらかしにしています。
現代の感覚で言う「恋愛」の感情を信玄がいだいた本当の相手は、少年の方だったのかもしれません。(信玄と少年たちとの交情については、今月22日に刊行された拙作『九度山秘録:信玄、昌幸、そして稚児』で詳しく描いています。)
かつて少年愛は、日本に限らず、世界的に盛んだったわけですが、戦国日本のそれは特にまばゆい輝きを放っているように思います。こうした年長の男性と少年との間の恋愛は、江戸時代になってから衆道と呼ばれるようになりました。では、この特殊な男同士の関係、衆道はどのような事情から、誕生したものなのでしょうか?
衆道誕生の事情
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