今回は男社会で苦労している男の人たちのことを書きます。
今日一日だけでいい
リボンを解いて
男の子にさせといてね
朝まで一緒ね
だけどchance いつかchance
二人danceする時には
ふいに女にもどるの
「男の子になりたい」は1987年の歌で酒井法子のデビュー曲。男の子になって何をしたいのか。
星のハイウェイ バイク飛ばして海へ
アイツのあとをつけていく
世界中を自由に旅したい
バラを一輪飾るスーツで最後の日をキメルの
女の子には見せない素顔を見たいの
要するに、「女の子はそんなことしちゃいけません」といわれることを、「男の子だぜ」とすましてやってみたい。そして女扱いされずにアイツと語らいたい。
男性になりたいのではない。「女の子」扱い、「女らしく」から自由になりたい。そういう歌。
これは女性だけでなく男性にもある気持ちなんじゃないかな。性自認は男性で、これからも男として生きて生きたいけれど、「女の子になりたい」男の子。「男の子」扱い、「男らしく」から自由になりたい男の子っているじゃん。
童貞でなにが悪いのか
童貞であることが物笑いの種になる理由がわたしにはいまひとつよくわからなかった。結婚するまで童貞を守るというのはマザーテレサもおすすめの立派なことだと思っていたからだ。でもあるとき「ゲゲゲの女房」を見て、雷に打たれたようにその理由が理解できた。
昭和のはじめはセックスは男性主導であるべき理由があったのか。
安全な避妊方法がなく、性病が蔓延していた時代に未婚女性が安全に性を謳歌する道はなかった。また家長制度のなかにあって夫は妻の上司のような存在で、処女の妻をリードしなければならない立場にいた。このような時代、男性が結婚前に性交渉のやり方をしっていることは重要だった。
それならもういまは大丈夫じゃん。女性も男性と同じくらい性知識をえることができるし、100%ではないけれど、比較的安全な避妊、性病予防の方法がある。男性は女性の上司ではない。なんだー、そうかー!と思ってその感動をしたためた。
しかしわたしは間違っていた。男性がリードすべきという社会的な圧力は過去のものではなく、男社会の家訓のひとつだったのだ。
「男社会」という家
男社会とは代々続く旧家のようなものだと思う。男性はこの家の第一子として扱われる。特権もあるが責任も重い。いずれは家を継ぐのだからと先代からあれこれ託される。上手く出来なければ容赦なく激が飛ばされる。「それでも男か」。
いっぽう女性はこの家では第二子の立場にいる。家督はなし。いずれ跡取りが面倒を見てくれるから、上の言うことはしっかり聞きなさい。上を立てて支えなさい。かわいがってもらいなさい。おまえは出来ない子、「女の子なんだから」。
「これは不公平ではないか」と思う第二子たちがいた。ふざけんな。こんな家飛び出してやる。どうせろくな財産もねえしな。ということで、出て行った女性たちはフェミニズムに目覚めた。そしてじわじわと「女らしさ」の押し付けに断固抵抗する道を歩み始めた。
第二子の反乱に家長は激怒した。そして第一子によりいっそう期待がかかった。おまえはこの家にふさわしい人間にならなければダメだ。おまえが男らしくなくなったら、おまえは家の人間として見限る。女だっておまえを見下す。おまえが立派な男なら女もおまえを認める。女たちは男らしくない男が大嫌いなんだ。俺は女に愛された。それは俺が男らしかったからだ。
第一子はこれまでお年玉も多めにもらい、第二子にゆるされない学問を受けさせてもらい、同じ仕事をしても第二子より多めの給与を受け取っていた。いずれこの家を継ぐんだからな、と家長はいった。裏切るなよ。
しかしここに無血革命がおきる。草食系男子である。
草食系男子はいつから侮蔑語になったのか
草食系男子たちは家長にまっこうから楯突くようなことはしなかった。面従背腹、涼しい顔で「女をモノにしてこそ男」という家訓に逆らった。「そんな男はモテない」「女もいない男は男として認められない」は彼らにとって効かない脅迫だった。また草食系とはことなるが、ゲイ男性も同様にこの家訓には従えないと家から出て行った。
家長は家に残った子らの前で反逆児たちを罵った。罵りの言葉にはいつも女が出てくる。女に認められない男は家長が認めないからだ。「あいつらは女も抱けないなさけない男だ。女だって笑ってる」。*2
親の手玉にとられる第一子たちは誇りと不満、特権意識と劣等感を持つ。男社会に従うものたち間には「女を抱いてこそ一人前の男」という不文律がある。合理性があろうがなかろうが童貞は不名誉なのだ。
そう考えたら恋愛工学にあれだけの人が群がる理由がわかった気がした。あのセオリーに従えば不名誉な汚名をそそぐことができる。童貞でなくなったあとは「経験人数の多い男」として自分を認めることができる。それは男社会ではちょっとしたステイタスなのだ。
女の子になりたい男の子
「ばーか、ばーか!ふざけんな」と出て行った第二子たちは声を上げ続けており、比較的すぐに仲間をみつけられる。でも男性はメンズリブという言葉すら知らないことが多い。男装する女性とくらべて背徳感と罪悪感をもって女装し、みつかれば社会生活が脅かされることさえある。
これはきつそうだ。男の子もたいへんだ。そう思ったエマ・ワトソンが男らしさからの開放をうたったが、家長たちはこれにも激怒し、騙されるなと叫んだ。
「俺たちは女を得た。それは俺たちが男らしかったからだ。この女だってそうだ」「女の話を信用するな」と言い募った。
男らしさから自由になるとは必ずしも女装してしなを作るということではない。男の子だって人間だ。泣きたいこともあるし、酒を飲みたくない日もある。外で働くより家で家事をやって子育てがしたい人もいる。猫や人形を愛でたい。奢って欲しい。きれいになりたい。ドレスも着たい、かわいいね、エロいね、とちやほやされたい。デートでエスコートされる側になり、セックスで攻められる側にまわってみたい。男に抱かれたい人、誰ともセックスしたくない人、友達として女と向き合いたい人もいる。ところがこれらはみな「男らしくない」。
家にとどまった名誉男性と家長の寵愛をうけている女性たちは第一子に「男らしさ」を見せてとせまる。
家を出た女たちと関係を結べば「尻に敷かれている」「あべこべだ」「恐妻家だ」と非難される。
だから男の子は表立って女の子になれない。おふざけで、息抜きで、こっそりとやるしかない。
「女の子になりたい」と思う男性の願いが当たり前のこととしてかなういいなと思う。男にしか認められなかったことを女性が勝ち得ているように、女にしか認められないことを男性も勝ち得ていけるように願っている。
そうしてもっと相互に役割を分担して助け合っていけたらいいと思う。