そのような中、歴史を専攻する大学教授らが「国定教科書執筆拒否」を相次いで表明している。これも大学ごとの団体行動によって離脱者を出さないという意図が感じられる。知識人はそもそも個人として自由な活動が保証されなければならないはずだ。そのためもし執筆の依頼があった場合、自分の考えあるいは信念に基づいてこれを受け入れるか否かは個人の自由であり、集団が一つの意見を表明して個人を拘束する必要も権利もない。大学教授らの集団行動は、知識人社会の自由で多様な議論を最初から封印する恐れがあると言わざるを得ない。
教科書国定化は法律の制定を必要とするものではないため、政府が教科書の一本化を最後まで押し通した場合、これを阻止する方法はない。しかし国民が国定化に賛成あるいは反対の意思表明をする機会が最初から閉ざされているわけではない。まず執筆者が公表されれば、それが本当に適切かどうかが議論されるだろう。また国民の多くが国定化に反対しているにもかかわらず、政府と与党がこれを押し通せば、来年4月の国会議員選挙で審判を受けるはずだ。あるいは来年末に国定教科書の素案が公表されれば、国民はその内容を見た上で意見を表明することもできるだろう。さらに計画通り2017年に国定教科書が配布されたとしても、その年の末に行われる大統領選挙で政権が交代すれば、その教科書もどうなるか分からない。
国定化に賛成あるいは反対のいずれの立場にあっても、大韓民国が苦難の中で成就した誇り高い歴史は誰も否定できないはずだ。この歴史を若者たちに正しく伝え、国の将来を支える新たな国民として育てることこそ、歴史教育の本来の目標だ。この目標を実現するには政治家や学者、教育者が先頭に立って歴史教育をイデオロギー対立から救い出さねばならない。国定か検定かの対立にとらわれることなく、正しい歴史教育をいかに行うかをまずは頭を突き合わせて議論してほしい。