動物関係の活動に古くからある批判が、
「勝手に動物の思いを代弁している」「擬人化しておせっかいをしている」
というようなものです。
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確かに、一部の「ペット愛好家」には、そのような傾向が見られなくもないですが、
この誤解はだいぶ解けてきたことと思います。
また、日本のSNS等では、海外に多い「特にアクションや活動をしないが、ベジやヴィーガンを志す人」
も、増えてきました。
●
で
「パターナリズム」という語があります。20世紀以降など、割と新しく使われている言葉です。
「パターナリズム」とは、「父親的温情主義」などとも訳され、
<強い立場にあるものが、弱い立場にあるものに対して、
本人の意志に反しても、本人のためになるよう(利益となるよう)、
行動に介入・干渉すること>です。
要するにこれは、「おせっかい」の面があるわけですが、社会ではよく見られます。
・子供が嫌っても、栄養のあるものを食べさせる
・急病・重症患者に、説明が不十分でも、適切な治療を施す
・火災等に気づいていない人を、力づくで強制的に避難させる
こうした類のことは、したこともされたことも、結構有るでしょう。
・各種決定を、政治家がとりあえず行う
・子どもを教育する仕組み(学校など)を作る
なども、大きく見ればパターナリズム性があります。
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この「パターナリズム」と対照的に取り扱われるのが「自己決定権」です。
上の例で言えば、たとえ「子どもが何を食べるか選ぶ自由」とか、
「医療を選択する・拒否する自由」「火災でも逃げない自由」などになります。
こうした、やや変わった事例だと、自己決定権をいつでも必ず第一に考えるのが良い、
とはならないのじゃないか?と気付きます。
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例えば「私は火災で死にたい」という願望を持つ人が居ないとは限りませんが、
通常は、「そうではないだろう」と予測して、人は行動します(火災を知ったら避難をさせる)。
一方で、空いた電車でどの席に座るかとか、駅の改札口のどのレーンを通るかとか、
「割とどうでもよいようなこと(その範囲で何を選んでも本人・他者に害がない)」こそ、
自由であるのが好ましく、自己決定したい事柄でしょう。
もし、街でそれらを指示されたとしたら、憤慨するか奇異に思う人がほとんどでしょう。
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やや単純化した見方をすると、世間は「おせっかい」と「放置」のバランスで成り立っているともいえます。
その辺を少し分かりやすく・カタく言葉で説明すると「パターナリズム」と「自己決定権」になるのです。
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動物が対象となる行動でも、「おそらく動物は、痛いことを感じたくないだろう」とか、
「狭いところに閉じ込められているよりは、広い場所が好きなのだろう」だとか、
種類・個体・状況ごとに、判断ができます。
このように「他種の目線になってみること」は、
人間には、ある程度ですが、ある程度の確からしさを持ってできます。
猫のしっぽを間違えて踏んだ場合、猫は痛そうなしぐさをします。
その事から→「猫はしっぽを踏まれたがっている」とかの判断は、ちょっと有り得ないことですね。
イカやタコの気分になるとなれば、これは少し想像が難しい、不可能な感じもしますが、
やはり「足を取られたい」とか「身体を切られたい」とかは、”感じないはずだ”、と想像はできます。
少なくとも逆ではありませんね。
※何かを分からないからといって、「無」とか「逆」に考えるのは非常に勝手です。
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ただ、「あなたが動物に痛みや苦しみを与えないのはいいが、
ならば、野生の生き物も、他動物に食べられたりするのは苦痛ではないのか」といった反論があります。
これは、的を射ています。
私の場合では、人間が動物に侵害的になるのをなるべく減らすのがいいと思い、
状況によってはパターナリズム性を帯びるのもアリだと考えます。
一方で、
動物間の問題には干渉しないほうが良いのではないか(自己決定権を重視)になります。
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動物関係の問題で、
「おせっかい」とか、「過干渉」などと言われたり、自分で悩んだりという人は、
この「パターナリズムと自己決定権」の問題が人間社会にもあると考えれば、
少し考えがまとまったり、気が楽になったり、改めて何か気づいたりするんではないでしょうか。
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