日本語を韓国語に翻訳する時、「思い」をどうすべきか、いつも迷います。
例えば、「いつも貴方を思っています」という文章の場合、直訳して「언제나(いつも) 당신을(貴方を) 생각하고 있습니다(思っています)」としても、その意味はピンときません。
「いつも貴方を愛しています」としたほうが、自然な韓国語表現になります。
「この作品には、私の思いがこもっているよ」という文章も同じです。直訳しても、ピンときません。
「この作品には、私の心がこもっているよ」としないと、意味はちゃんと伝わりません。
言い換えると、日本語では「思う」が「愛」や「心」とほぼ同じ意味を持っているけど、韓国語の「思う」という言葉には、「愛」や「心」という意味が含まれていません。
もうちょっと詳しく書けば、日本語の「思う」は、韓国語で言う「へアリダ」の意味を含めています。
ヘアリダには大まかに二つの意味があります。
一つは、気をつけて一つ一つ数えること。例えば「(夜空の)星を数える」。もう一つは、「推し量る」の意味です。例えば、「相手のことも推し量ってやるべきだ」。
昔からこうだったのか、それとも民の暮らしの中で言葉の意味や使い方が変わったのか、それまではわかりません。
ただ、今の韓国語「思う」には、日本語にはある「推し量る」の意味が無くなっていることは、間違いありません。
しかし、ひとつ、「昔にはそういう意味もあったのでは?」という推測は出来ます。それは、韓国語で「愛」を意味する「サラン」という言葉の語源からです。
定説は無く、いろんな説がありますが、その中に「思量(サリャン)」説があります。
ここでいう「思」は「センガッカダ(思う)」の意味で、「量」が「ヘアリダ(推し量る)」の意味となります。
もしこの説が本当なら、韓国語の愛も、思うから生まれた言葉であると言えましょう。
「思う」は、「愛する」の親だったのです。
本ブログでは今まで、韓国の「愛国」について色んなことを書いてきました。
日本を憎むこと。
大きな国旗を掲げ、自己正当化という名の愛国を誇る集団のこと。
国旗を持たず、現システムの全否定を愛国だと主張する集団のこと。
彼らの言う国への愛には、決定的に欠けているものがあります。
推し量ること。
私が国を推し量ること。国が国民を推し量ること。
その関係から「愛」も生まれることでしょう。
しかし、彼らは自分のことしか考えていません。
「自分のことしか考えていない」
だから嘘をつきます。
異なる主張は認められるべきでしょう。しかし、その主張に嘘があってはいけません。
嘘は主張ではありません。
大きな太極旗を本社ビルに掲げる財閥の人たちはノブリス・オブリージュから逃げまくっています。彼らの「推し量る」は自分自身にしか向かいません。
国旗を持たずに愛国を叫ぶ人たちは、愛を叫びながら急激なシステムの崩壊を主張します。少数の意見を認めろと言いつつ、自分たちは別の意見を認めません。民主主義で選ばれた結果である現体制において、自分たちは「負けた側」だから何の責任も負わなくていいと思っています。
それは全て意見でも主張でもありません。ただの嘘です。
だから韓国には、「配慮」がありません。
配慮は、自分以外を推し量ることです。
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