甥が保育園に通っていたあいだ、妹にかわって甥を迎えにいっていたことがある。
甥はかわいらしい顔をしており、齢3歳からバレンタインにはチョコレートをもらう人気者だったが人見知りだった。伯母にもなかなか懐かなかったが、会話ができるようになってからようやく打ち解けてきた。
甥のちいさな手を引いて保育園から妹の家まで歩いて帰る。甥は道々いつもママと帰るときはどんなことをしているのかをおしゃべりする。
「帰り道にお花屋さんがある」「お花屋さんのおじさんとはよく話をする。なかよしなんだよ」「ママはピンクがすきで、薔薇がすき」
そうか、そうか。かわいいやつめ。
「じゃあ今日はお花屋さんに寄って帰ろうね。ピンクの薔薇が売っていたら買ってあげる。ママにお土産にしよう」というと、甥はちょっと興奮気味にうなづいた。
花屋の店先に50がらみのおやじが立っていた。
「こんにちは」
「はい、こんにちは」
「おじさん、いたね。よかったね甥太郎」
甥太郎はだまって恥ずかしそうにうなづく。
「いつも甥がお世話になっているそうで、ありがとうございます」
「え?いやいや、どうも」
「こちらの花屋さんで母親に薔薇を買ってやりたいというので」
「ああ、そうですか。僕、えらいねえ」
「ピンクがいい」
「そうか、ピンクねえ・・・」
1本だけということで甥は考えたすえ、ピンクのスプレー薔薇を選んだ。
「甥太郎、これでいい? それじゃこれ、お願いします」
「はい。ああ、僕はそこの保育園の子かな?」
「はい?」
「じゃあ甥太郎くんを知ってる?」
え?
「僕と同じ年くらいの甥太郎くんていう子がいてね、母子家庭なんですよ」
おやじは気の毒そうに顔をしかめて声を落としてみせた。
「ときどきここの店にお母さんと来てね。やっぱり父親がいないから、男の人が恋しいんだねえ。私も店の合間にいろいろ話をしてやるんですよ。かわいそうだから」
わたしは血の気が一気に引くような、脳天に逆流するような思いがした。おやじは甥太郎本人を目の前にして、自分が母子家庭に寛大な人間なのだとわたしに語りだしたのだった。
「いつでもおいでってね、いってやってるの。あんな小さいのにねえ。かわいそうに」
おやじはドヤ顔で共感と褒め言葉を待っていた。おやじは甥太郎の顔を覚えていなかった。妹は通りをいく人が振り返るような美人で、妹に声をかけたがる男は多い。おやじは甥の手を引く相手がかわったとたん甥が誰だかわからなくなったのだった。そしてどこの誰だかわからない保育園の保護者にむかって甥太郎が母子家庭の子だと吹聴しているのだった。
「ああ、ラッピングはいいです。はい、これで」
わたしは甥がおやじの偽善ぶりに気づかないでいてくれることを心から祈った。そして急いで店を後にした。甥は呆然としたように黙って店を出た。
手を繋ぎ、反対の手で薔薇を握り締めた甥太郎は「おじさん、甥太郎のことおぼえてなかったね」とぽつんといった。どこまで理解できたかわからないけれど、おやじがいつもと様子が違うことはよくわかったらしかった。
気の毒な何かによくしてあげている自分に感動している人間の薄っぺらさと残酷さについて思うとき、このときのことを思い出す。そういう人は相手を自分と対等な人間だと思っていない。「かわいそうななにか」としてしか覚えていない。だから属性で人をくくり、属性ごとに親切にすべき人、そうする必要のない人と分けて考える。
「あしながおじさん」の一節に「貧しい人は私たちが慈善を行うために神が用意してくださったのだと、今日シスターがいいました。私はそれに納得できません。それでは貧しい人は私達の満足のための家畜のようなものではないですか」というくだりがあった。もっともだと思う。自分がその立場にいたらどうだろうと想像力をめぐらすことと、相手を自分とは違う動物かなにかのように考え、「立派な市民としてそのような相手にはどう接するべきか」とマナーを覚えるように知識を収集するのとでは、当然対応が違ってくる。
人を差別するとは人を罵ったり、悪辣なことをやってのけることばかりではない。属性を知ったとたんに態度をかえて、相手をわかった気になるのは危ない。それが親切心から出たものだとしても、現実に即した対応かどうか、よくよく気をつけないといけない。