岩手への帰省は、シルバーウィークと重なり交通と宿泊の手配に難儀したが何とか目処がついた。
だが、出発の二日前になって母が慌てたように電話をしてきた。
Sさんからの手紙に、岩手で一緒に「あん」を観たいと書いてあったらしい。
そして、母は「Sさんと一緒に観るから、おめさんは誰かと観てきて頂戴」と言うのであった。
誰かと観てと今更言われても、東京ではもう殆どの劇場での上映が終わってしまった。
それに、岩手で観る「あん」に合わせてスケジュールを調整したのに…
「あん」を観ないのであれば、帰省を先延ばしにしたかった。もう少ししたら東北の紅葉も見頃になるのだ。
けれども中学時代の友人達と夜遊びをする約束をしていたし、やっと予約が取れた宿や新幹線をキャンセルするのも面倒だった。
それに、私と観るよりもSさんと観に行った方が良いに決まっている。
Sさんは母よりも若いとはいえ高齢で、長旅をする元気があるうちにもう一度、三陸の海を見に行きたいと願っているのだ。
青春時代を過ごした地で、息子が原作者である映画を旧友と一緒に観る…
こんな誇らしい幸せが、他にあるのだろうか。実現したらその思い出は、Sさんと母にとって一生の宝物になるのだろう。
だから私は、映画はひとりで観ると母に言った。
空いた1日は三陸鉄道に乗って、のんびりと海岸線を眺めながら久慈まで行こうか?
それとも、修学旅行で行くはずだった平泉にでも行ってみようかしら?
JRの人が勧めてくれた三連休パスという切符を買っていたので、上手く使えば東北のどこにでも行けるのだった。
「行くぜ東北♪」と自分を励ましながら、体調を整える。
帰省するという、他の人にとっては何でもない事が私には苦行である。
結婚するまでは人並みに、盆と正月に帰省した。その度に「こんな家には二度と帰らない」と泣きながら東京に戻ってきた。
子育てと仕事が忙しいと誤魔化して十数年、帰省しない年が続いた。
帰らなければ帰らないで済んでいた。田舎の友人達とはすっかり疎遠になったままだし、母とは電話で話せばいい。
このまま一生、田舎になんか帰らなくてもいい。
そう思っていたところに、あの大震災が起きた。
津波に襲われる故郷の町を、私はTVにかじり付いて観ていた。
自転車で毎日通った通学路も、叔父や叔母の家も津波は破壊した。大好きだった祖母の家も浸水した。
有り得ない場所まで流されてきた漁船と車と建造物。
津波に呑み込まれた大勢の犠牲者…
当時不安定だった私の精神は、その現実を受け入れられずに崩壊するのかと思われたがそうではなかった。
1日1日を噛みしめるように生きているうちに、以前よりも強くいられる自分がいた。
そして、捨てていたと思い込んでいた故郷は、捨てようとしても捨てられないものだという事に気付いたのだった。
震災の年から私は、年に一度は帰ろうと決めて帰省している。
そして、もう先が長くない筈の親との確執も、お互いが生きているうちに何とかしようと試みたが失敗した。
今はもう、どうでも良くなっている。
復興は遅すぎるけれども少しずつ、ゆっくりと変わっていく故郷の風景。あのように変わってはくれないのだ。私の家は。
80過ぎの母はずっとこの地に住んでいるから、沢山の友人知人がいる。その中で、Sさんは私が物心ついてからずっと聞かされていた名前だ。
Sさんは関西に住むお金持ちの奥様で、とても優雅に良い暮らしをしている。そんなイメージを私は抱いていた。それに引き替えうちの母は、東北の片田舎で働き詰めに働いて、苦労が服を着ているようなものであった。
そんな二人がどうして友人でいられるのか、とても不思議だった。
母から聞いた昔話では、母は、高等女学校を中退していた。
祖母は養豚と肉屋で生計を立てていた。豚の餌にする残飯を貰うため、母と祖母はリヤカーを曳いて町中の家々を歩いて回った。
それを女学校の友達に見られるのが何よりも嫌だったという話を、何十回も聞かされていた。
だからSさんは女学校時代の友人、という訳ではなさそうなのだ。
Sさんにとっては、母は大勢いる友達の中のひとりであったのかも知れない。でも母はSさんの事を唯一無二の親友だと思っていた。
母の心の奥深い悩み苦しみも全て、Sさんにだけは打ち明けていたと思う。
Sさんから手紙が届くと母はとても嬉しそうにして、時折その内容を私に話した。
それは、私達の暮らしからは想像も出来ない、夢のような都会のお話だった。
「Sさんはいいがねぇ。お金持ちで。幸せな暮らしでいいがねぇ。」
と、母はいつも嬉しそうであった。
ところがある日、Sさんからの手紙を読んだ母がわなわなとしていた。
何かの行き違いがあって書かれた手紙の内容に怒っているのだった。
「これを読んでみて」と渡された手紙に、私は母と一緒になって怒った。
そして母に同情した。ここでは触れないがその内容が母を、そして田舎を侮辱されたと感じたからだった。
「こんな酷い事を書く人とはもう、文通も止めてしまえばいいよ。」
私がまだ10代の頃だっただろうか。そんな風に激しく母に言ったのだと思う。
田舎者で貧乏臭い母ではあるが、その頃は母の商売も順調で、そのお陰で私達は人並み以上の暮らしが出来ていた。お金持ちの奥様だか何だか知らないが、見下されてまで付き合う事はないのだ。
それ以来何年も文通が途絶えていたらしいが、いつからか母がまたSさんの話をするようになった。
Sさんとは絶交したのでは無かったのかと聞くと、いつまでも拘っていても仕方ないからと、どちらからともなく復活したのだそうだ。
私も大人になって、よくよく考えてみれば本当に誰が悪いのでもない。ボタンの掛け違いのような話だった。
お金絡みの事であったから、母がキチンと証明出来る控えを取っておかなかったのがいけなかったのだ。
兎に角、旧い友情が復活したのは喜ばしい事であった。
その後Sさんは阪神・淡路大震災で被災した。母は、距離が遠すぎて駆けつける事も出来ないと心痛していた。
その16年後に、東日本大震災が起きた。
Sさんは自宅と、若い頃の思い出の故郷の両方が被災するという数奇な運命に見舞われたのだった。