http://anond.hatelabo.jp/20150923114800
違いは色々あるが、アニーメーションに限らず映像作品は場合流れの中で安定する様に絵コンテを切る。この理由は静止させて中割までのコマを連続で追うとより分かりやすい。例えば先日、http://cgtracking.net/archives/37751 のデモムービーを見たが、全編にわたって静止してかっちり静止画像として嵌る「コマ」は存在しなかった。これはアメコミにしても漫画にしてもバンドデシネにしても嵌らない。つまりコンテ時点で紙媒体のコマと見せ方が違う。アニメの場合俯瞰映像で二者を映してテーブルごと会談しているような写し方でも違和感はないが、これを漫画でやってしまうと相当冷静なコマ割りとなって心理効果はかなり突き放した目線になる。ところがアニメの場合ここに慌てたりする声を吹き込んだり、リアクションを取らせることでシュールな笑いをとったりすることもできる(※引きの絵が冷静な心理効果を生む点はアニメも漫画も同様)。見せられる効果の種類が全く違う。
実は他の映像作品とアニメにはコンテとテンポ(カット)そのものに違いがある。例えばアニメで「だからどうすんのよー!」とカメラに向かって顔を突き出し気味に訴えるシーン、後に横から移して対面の男とともに両者が固まるシーンがあったとして、デフォルメの効いたリアクションが不可能な実写作品の場合、もっと早く切らないと間延びした素人作品のような気持ち悪い映像になってしまう。そしてそもそもハリウッドの場合こういうシーンの切り方はしない。なぜなら彼らはカメラの目線を円柱に捉えるからだ。
ハリウッド映画をよく観察していると、その映し方が円を形成するように映しだされている事がわかる。例えば日本未公開で恐縮だが、「JOE (2013)」のカットは分かりやすく、対面した二人の円周上にしかカメラが配置されていない。これはいわゆるイマジナリーラインの問題を内包しているが、それにしても極端な真円カメラワークを意識している。会話する二人の円柱また、日本で例えるなら邦画よりも日本の15秒CMに近いテンポを保っており、切り替えの際も何かの余韻を残すことより歯切れの良さを重視している(マトリックス等)。この余韻の感覚は日米の感性の違いではあるものの、一応我が国にも余韻を残さない歯切れの良さだけを目指した映画が存在する。大林宣彦監督の『青春デンデケデケデケ』だ。当該映画は15秒CM的な連続コマを次々カットインすることによってドラマを進行させる手法を用いており、コマの終わりの殆どに日本映画が見せる湿度がない。ただしこれは例外中の例外である。
因みに会話における「なめる」構図が多用される背景には、こうした円柱の考え方が延長線上にある。
漫画にも実は流れが存在する。この辺りは佐藤秀峰先生などの教示を見るとより分かりやすいが、コマの連続性はセリフに対して右から左、下から上へ、という基本中の基本を徹底することで担保される側面がある。これは単純に目線の問題であるため日米違っても基本は一緒だ。最初に読むべきセリフが下の方に配置されていれば誰でも誤読する(※ただし漫画のルールを皆が知っているというバイアスはあるだろう)。アニメのように動きで連続性を作らないので、コマは決まりきった画角で描かれるが、その訴えかけは上記二者に比べて派手であり、短いページ数内で極端な煽り構図や俯瞰構図が繰り返される特徴がある。某所でこの話を語ったところ「動きで見せられないから仕方がないのでは」という意見が上がり、なるほど尤もな意見であると感じた。ただしこうした小手先以外に漫画の画としての面白さは別にある。それは映像作品のような円柱やイマジナリーラインの意識を全くしなくても通用する、ということだ(※某氏がイマジナリーライン超えした漫画家を徹底的に叩いていたが、氏の指導力はともかくこれには賛同できない)。登場人物の動きがコンテのように繋がっていなくても話の連続性だけでコマが成立するのも漫画の特徴である。むしろイマジナリーラインを大胆に超えて演出したほうが動きのダイナミズムが表現できることもある。
漫画の面白さは他にもある。松本大洋先生の『鉄コン筋クリート』は非常に分かりやすい。原作において非常に大友作品(及び寺田克也)からの影響を多大に感じる方だが、それもあってかコマの動きがコンテのように連続している。コンテの様に連続していてカットが明確であり、木村がショコラにヤクザだと偉ぶるシーンも映画のような切り方をしている。しかし鉄コン=映像的かといえば少し事情が違う。一番分かり易いのがクロの事務所突撃シーンであり、事務所に突撃したクロが部下の頭を割り(P162)、木村が殴りつけるまでのカットは映画版との決定的な差異がある。
映画版では大胆にコンテが変えられているという点もあるが、木村が殴るまでの間はより短縮されており実写映像のカットに寄せているのである。こうした映画版の明示によりむしろ漫画版における見得きりにも似たカット演出そのものが、実は非常に漫画的であったことが判明するのである。
見得きりの代表格といえばイラストである。実はイラストは上記全てと比べても最も動きが少なく、ポーズも画角もかなり決まりきっている。この話はイラストだけではなく絵画にまで及ぶ。なぜなら止まった絵で全てを表現することを要求されるからである。その絵は止まっていながらにして動いていなければならない。特に絵画においてはそうである。絵画は止まった空間の中で蠢くダイナミズムや静的空間に没入させる手段であり、その意識からして映像作品とは真反対に舵を切らざる得ない。
一方でイラストの場合中のキャラクターが生きている事以外に画角に嵌まり、かつキャラが何から何をしようとしているのか(川洋作品などは分かりやすい)、意図は何かを無声で伝えなければならない。これはオタ系イラストが漫画と映像の中間層にいるためである。
イラストと絵画における共通項はなにかといえば、カメラの画角に通じている。画角の切り方、見せ方、モチーフの置き方などはそのままカメラ技術が流用できるし、場合によってはパン(アップ)による被写界深度をわざわざ描いている人までいる(mujiha等)。つまりオタ系イラストは浮世絵や絵画に起源を持ちながらも今日の漫画的止め絵の美学を継承しつつ、写真的な切り方をする文化的橋渡しを担っている側面がある。それ故漫画的な連続性の中に必ず見得きりを混入させてしまい、多くのイラストレーターが描く漫画には漫画的文法よりイラスト的な見栄えが発生して流れが断ち切れてしまう。
なお、同じカットでも女性誌等に見られる雑誌カット絵の場合、文面の比重とカットの方向性があっているか、目線を引いて文面に誘導できるか、主役ではなく脇役に徹しているかという面が重視されるのであり、DTPやレイアウトの側面が強くなる。しかし一方では再び総合力で絵を見る漫画に近い感覚が呼び起こされてくるのである。
小説におけるテンポとは文章のテンポであり、カットとは段落である。しかし小説のテンポは一般的に言って遅く、早く切り過ぎるのは駄文であり忌むべきこととする通説がある。
このことは小説が情景描写、人物描写、心理描写等を踏まえつつシーン展開することに深い関わりがある。後述のテンポも相当度影響している。小節の区切りが程よい長さでなければならないという尺にも起因している。しかしそれ故に小説にはある種の動的でありながらも静的である不可思議な感覚が伴う。これは小説世界の一瞬の中に永続する動きが存在する写真やイラストにも似て、そうでありながらも映画のような表現すら可能であることによる。とはいえ小説のアクションに映画のアクションを流用させようとするとどうしてもテンポが遅延してしまうため、冲方丁などは独特な文体を生み出した。そうでもしないかぎり文章は基本丁寧さを要求するのである。何より丁寧ではない文章は情景と文体のテンポを欠いてしてしまう。ここに小説の可能性と限界がある。映像が個々人の中で切り替わる点でもカットという概念を鈍らせている要因であるし、カメラワークをいちいち盛り込んで三人称を徹底してしまうと人物から遠くなってしまうのも小説の特徴である。
この文体のテンポ問題という拘束を受け続ける小説と違い、脚本などにおけるト書きの場合映像を想起させながらテンポを崩さず進めることができるが、表現が貧弱すぎて映像による補完がなければそれ一個では映像表現としては足りないものでもある。
・・・どうして違和感があるんだろうか。 近年、デジタル作画化が進んだ結果、やたらトーンを使って 画面が黒くなるというなぞの風潮があるのもそうだけど、 コマワリのテンポ感...
http://anond.hatelabo.jp/20150923114800 アニメ場合 違いは色々あるが、アニーメーションに限らず映像作品は場合流れの中で安定する様に絵コンテを切る。この理由は静止させて中割までのコマを...