侵害するのが親愛の証、のように思っている人は、たぶん世の中にけっこういて、そして私自身もそう思っているところがあって、知らず知らずのうちに侵害し、侵害され、鈍感に笑っていることが多々あるんだろうなあと思う。
例えば、知り合いのカップルの一人は、相手を「バカ」とか「こんなやつ」とか、そういうふうに罵る。罵るけれど顔は笑っていて、べつに嫌っているわけではなさそうだし、とても幸せそうだ。それどころか「相手をこんなふうに扱えるなんて自分と相手は特別な関係なんだよ」という雰囲気がガンガン出ている。
そして私はそれを見て、私もこういうふうなところがあるな、と思った。夫の体に無遠慮に触れたり、他の人の前で下げる発言をすることでのろけたり、そういうことって、普段はあまり意識していないから記憶も曖昧だけど、ほぼ確実にやらかしている。それは少し前から薄々感じてはいて、ちょっとずつ矯正はしているのだけど、ふとした瞬間に、やっぱりそういうクセが出てしまう。
よくないなーとは思っているのだけど、心に根付いた「侵害するのが親愛の証」という価値観は、完全に払拭することはできていない。
実際「親しい仲なんだからいいじゃないか」という考えも、私のなかに存在している。そんなふうに振る舞えないなんて、結婚している意味がないじゃないか、と。
でもその考えはどこかおかしい、ということも自覚している。結婚は相手を所有することではない。決して「自分のもの」ではないのだから、相手の体に無遠慮に触れたり、自分のもののように乱雑に扱っていいはずがない。けれど、私は心のどこかで「結婚したということは自分のものになったということで、つまり自分の好きにしてよいものだ」というふうに考えているところがある。我ながら恐ろしいと思う。
私が夫を侵害するように、夫も私を侵害してくることがある。
私がはっきりと「嫌だ」と言えば手を引っ込めてくれるし、謝ってもくれるのだけど、たびたび繰り返し侵害(無遠慮に触れてきたり、ふざけて理不尽なルールを提示してきたり)することがある。たぶん夫も同じように、それが親愛の証だと思っているのだと想像する。
危険を感じない範囲内でふざけあって、じゃれるように侵害し合うのは、楽しいことなのかもしれない。実際、わりと楽しかったりもする。でも、と私は立ち止まって考える。それってけっこう、危ないことなんじゃないか。
なんというか、精神的に未熟である、というフレーズが頭のなかに浮かぶ。互いの同意のもと未熟な遊びであることを理解しながら行うぶんには、無害かもしれないけれど、その自覚なく、無邪気に親愛を示すための行動であると信じてしまうのは、弊害が多そうだなと感じる。
おそらく、自他の境界線にかかわる重要な感覚であるのだと思う。
侵害することで楽しさを感じるのは、境界線があやふやになることで一体感を得られるからではないか。それは、健全な対人関係であるとは言えないのだろうと思う。成熟した関係とは、言いがたい。
成熟した関係とは、私の想像では「自分と他者の間に境界線を引いて、各々自己が確立されていて、礼儀と親しみが両立した心地良い対人関係」というものだが、これが適切かどうかは自信がない。でもとりあえず今は、それを目指していこうと思っている。途中で間違っていたことが分かれば、軌道修正すればいいだけだ。
親愛とは、相手を尊重することで表現されるものだ、という言葉が頭に思い浮かぶ。実際、そうなんだろうと思う。
侵害することで表現されるのは、親愛ではなく所有のしるしだ。そういうものから、私は手を引きたい。私を人を所有し人から所有されるのではなく、対等に親しく愛情を持って付き合っていきたいと、そう考える。