一章 象徴的な一文
彼女の文章は、多声的である。「私はこう思うんだよね」「でもこういう意見もあるよね」と、多様な意見を示す複数の声や意識が、それぞれの独自性を保ったまま互いにぶつかり合い、しだいに総合的な世界を形作る。
文章は広くゆるやかにすべり出し、この調子でじわじわと話が押し広げられていくのだろうと、読者が見通しをつけたところで、突然、象徴的な一文が書き込まれ、凄まじい一声的な世界が、勢いよく離陸していく。
それは、文章全体を規定しえる、爽やかな関係言辞となっていて、文章のど真ん中にズドンと投げ込むと、もやもやが晴れて、手ごたえのあるものが出てくるような、一文になっている。
多声的に作られた文章はいきなり一声的になり、黙るわけにはいかないように展開する。何かをぐいと捕まえた時限に、なおも深く関わろうとするため、あふれ出る詩語の奔流が凄まじいが、よく力を統一して書きこなす。
前半の多様性から、後半の単独性への一撃の転換。
この特権的な瞬間が、突然、本当に突然訪れる。
『キリギリスのバイオリン』という記事がある。
「もっといい職場に移ったらいいのに」という忠告を読者から受ける。
もっといい職場でお金を稼ぐべきか、このまま稼ぎのないまま暮らすべきか、という対立する選択肢を、丹念に照らし合わせていく中で、突然、「なにものにもなりたくない」と潔癖に突き返す。
労働して獲得したお金で、何かを所有する。
おいしい食べ物を食べて、きらびやかな服を買う。
そのような活動の基底には、自己の確実性を拡大するという原理があり、彼女の言い方でいうと、何者かになりたい、という原理があると主張する。
つまり、「所有物の多さか/余暇の多さか」という対立を解消できない労働の動機問題を、「何者かになりたい/何者にもなりたくない」という、人格決定の問題として解釈しなおして見せたのだ。
これを機に文章の調子は、劇的に転調していく。
この一文は、貧しい労働者の抱える問題意識と関わっており、その性質を、次章の「代弁性-強圧的制度への反抗-」で後述したい。
『ぜんぜんオシャレじゃない夜遊び』という記事がある。
二人がラスト、「そういうとこ、仲間。」の一行で一つに繋がる瞬間、実に清新な心地が生じる。
ここまでおさえておさえて、客観的に書いた忍耐によって、この一行に抑揚の効果が集中しているからである。
裏返ってしまう気持ちの動きまで、残るくまなく表す、歌調の正しさは、終始一貫しており、三章一項の「純粋性-平易な表現-」で、その性質を論じたい。
『自分の言葉力』という記事がある。
「誰も教えてくれないと嘆いているが、それは誰かに教えてもらうのを待っているだけだ」という弱者への批判を、彼女は真正面から受けとめて、こう言い返す。
「教えてもらうのを待ってるだけ、っていうのは、教えてもらいたいことがあるのはわかってる、ってことだと思う。自分が「わかってない」ってことをわかってるってことだと思う」
このあたりはごたついていて、いつもみたいな鮮明な一文というわけにはいかないが、コメントを自分の言葉で言い換えて、捉え返す太刀筋が正確であり、相手の論理に内在しながら反駁する姿勢は、粘り強い思考力を示している。
認識論から始めないと気がすまない哲学者のように、共通の事実構造の前提に遡り、より確実な公理を設定しようとする。この理性について、三章二項の「純粋性-哲学-」で後述する。
以下では、彼女の二つの主題を特定した後、その主題を表現するときの平易な表現法と、視点の哲学性について説明し、この四つの美点がある悲劇的運命に帰結すると論じる。
二章一項 代弁性-強圧的制度への反抗-
彼女が叫ぶとして、誰が、その声に耳を傾けるだろう。貧富の序列の内で。
彼女は『私のいる世界』という記事で、突如、はてなブログの表面に登場する。
高校時代に所属していた、深刻な閉ざされた区域での出来事が描写され、広く話題になった。
レイプやセフレが当たり前の特殊区域で、肥満体型の男が学内でハーレムを形成し、同じクラスの友人がその輪に入る。教師や保護者の監督機能が十分に発揮されず、たのむべき何者もないことを思い、外部との隔絶をさとる。
まるでゼラチン状の膜をとおして世界を見るかのように、外の世界が全然見えない皮膚感覚を読者に伝えた。
一行目では『ここは退屈迎えに来て』という本が、紹介されている。この本は、地方都市という器の中で人間のスケールが小さくなっていく筋立てであり、その内容と、タイトル自体が、すでに没落の感情を予告している。
私はこの一行を見たとき、心に一撃を受けた。横になって読んでたのに、身体を起こしたくらい、身体全体が緊張してきたのを覚えてる。下に目を移して、読み進めても、どこか普通ではないと感じた。
その冒頭の数行からしての強烈な悲劇的予感は、「その世界にいるから」という象徴的な一文に至り、決定的になる。
この記事は、冒頭の一行が、いわば警鐘のように文章全体を予告し、彼女の歴史を展開させ、ついには悲劇の確信に至るという構造をとっており、その論理的な骨格自体のもたらす物語性にも支えられ、痛切さを直接感じ取ることを助けている。
彼女自身は、自分の経験したこと、心に溜まってくるものを、ただ自然に、書き表しただけであったが、結果として、1日40万のアクセスを得ることになり、無口で、代弁者をもたない者たちを、期せずして代弁することになった。
また、少数の読者から浴びせられる非難は、激烈な反射をあげて、彼女の運命の悲劇性をかえって壮大にした。
これ以降、社会の抑圧に直面する、か弱い個人の経験を支持するという主題が、彼女の系譜の中でさらに深く、痛切に追及されていくことになる。
強圧的な構造におかれているからこそ、やっかいなものを相手取ることができる。
税制度、セフレの店長、音楽、ガソリン代、体罰、職場のカルト、人権概念等、立体的な描法で、貧苦の熾烈なイメージを与える。
貧しさを生きて呼吸し、苦しみ、うめきをあげている人間を、彼女は精確に見てきた。ただ見ているということでさえ、どんなに難しいだろう。ましてや彼女は莫大な受難者である。
結局のところ、こういう身近な、そして切実な問題に激しい怒りを感じて書いてくれるのは、彼女しかいない。いくらその思想がつたなくて、手法が劣等だとしても、彼らの悲しみを伝えることができた。余りの空しさ、余りの寂静、余りの慟哭。惨苦に満ちた者たちの、たとえようのない感情の、最も美しい表現となった。それだけに、対岸にいる者にとっても、国家の主題と運命を読み取ることができる。
二章二項 代弁性-暗い性の肯定-
彼女の主題に、厳密な定義を与えることには慎重にならなければならない。
繰り返し、文章に現れる回数が多いものだけを取り上げたい。
それは、暗い性の肯定である。
彼女は妻のある男性と不倫しており、同時期に二人の男性と性的関係をもっている。
それをすると不幸になると一般的に言われているような性的関係を肯定する。
『正しいえっち』という記事がある。
不倫関係にあることについて、以前から大勢の読者からコメントが寄せられており、それに反発するようにして、自己の性的価値観を一挙に表明する記事である。
「たかがセックスに、なんでいろいろつけるの?」という言葉は反市民的な虚無感の宣言となり、通俗的な道徳観念を無効にする。
セックスから簡単に意味を取り去る態度は、執拗な非難を受けることになった。
「快楽に身を任せると不幸になる」「セックスをアイテム化している」「やり直せる」。
間違っている、と人々がそれを破壊することに合意していることのうちに、生々しい彼女の性があり、自由があった。
どのような批判を受けようとも、彼女はそれをそのまま受け入れることのできる、広々とした文脈をつくろうとしていた。
その態度は一貫している。
三章 純粋性
純粋、という言葉を、ブログを読んでいるあいだじゅう思っていた。
感情においても、方法においても、理性においても、彼女は純粋であり、それは、「詩」、「平易な表現」、「哲学」の3つの形態に結実している。
ここではとくに、「平易な表現」と「哲学」について論じる。
三章一項 純粋性-平易な表現-
『私が三番目に寝た男は哲学者じゃなかったし』という記事の中で、彼女はこう言っている。
「「僕」のペニスはレーゾン・デートゥル、とかってことを理解しよーとすると、私の頭のなかに春樹のおじさんのペニスの形したゆるキャラがにょきにょき出てきて、それに顔が描かれてあって、そのゆるペニが春樹のおじさんの存在理由を語りだそーとするの。そんなイメージがいちいち頭に浮かぶから、私は小説読みながら、頭の中で同時上映の映画見てるみたいになる。」
普段我々が意味理解をするときには、想像心象は、必ずしも、結像機構に写像されるわけではない。
しかし彼女の場合、いわばたらいの水面に景色が統括されるかのように、必ずそこに引き絞られて一つの像が映し出される。
つまり、見たり、触ったりできる物理的存在に映し変えることができるような、簡単な事象でなければ、世界を理解できない。
複雑で形のとれない概念や、解釈の余地の広すぎる希薄な意味は理解できないため、そのような存在を指呼する、あいまいな魔術的言辞は使用されない。
例えば、やばい、まぢきもい、などの薄い形容詞が使用されない。
寂漠の、激越な、などの大げさなだけで中身のない形容詞もない。
消極的自由、階級闘争、などの概念的な専門用語もない。
その結果、簡単な名詞と動詞の比重が重くなる。
名詞は、具体的である。空間の局所的な一点を指し示し、その指し示されるものの輪郭を限定し個物を現す。現わされた個物は、動詞に運動を与えられる。
個物が動いている、という現象そのものが、装飾なしに、直接読者に明け渡される。
その結果、客観的な文体だという印象が生じる。
とくに、貧困や苦しみが主題になった場合、その壮絶な経験について、装飾を厳しく抑え、客観的に表現することは、感情爆発の激甚の効果が得られる。
例えば『私のいる世界』のような、凄惨な非日常を描写する場合、自分が一歩引いて、客観的に現実直写することで、かえって出来事だけが浮き出る。読者は生の素材を、そのまま受け取る。主題の深刻さに比べて、簡素で味気ない表現には、その背後に何かひた隠しにしている、労苦が察せられるが、彼女はいつになっても冷静であり、感情の挙止が一向に伝達してこない。読者の情動は解消されず、居ても立ってもいられない気持ちを読者の中に喚び起こす。最終行にて、「どこかでパイプ繋げて。」と、ようやく仄見える感情に、読者は万感の感情をそこに読み込む。溜め込んだ感情が一撃で対象化され、高揚作用が生じる。急所で力が盛り上り、感情を節約していながら段違いの出来栄えになる。
すぐれた詩に接したときのような感動をうけるのは、このように感情を無視する平易な文体のせいである。弱者から見える世界は、簡単な名詞や動詞に解体されながら、いわば物質的に描写される。世界を解体するという純粋化機能への専心は、複雑なものをときほぐし、世界をシンプルに見ることを可能にする。解体過程はもはや抑えられず量的に進行し、バラバラの要素に原子化していく無限の解体過程に導かれる。解体された世界は論理になり、ついには命題がそぎ落とされるとき、ある質的な転化が起こる。哲学の到来である。
三章二項 純粋性-哲学-
無感情のふちから、一個の感情が燦然とこぼれ落ちた直後、並はずれた哲学の確立へと、また大きく、劇的にはね上がっていく。
手触りのある事物に密着して、感性的に見るかと思えば、今度は急激にはね上がり、理性的に俯瞰するという、この感性的知覚意識と理性的思考意識との無限の往復運動が、彼女の文章に起伏を与えている。
シンプルな日常用語で、身辺の小さなことを描写して、それが日常の思考領域にとどまらず、異質な発想にまで継続する力量は、思考の振れ幅において甚大であり、題材の大きさに引けをとらず、文章に大柄な体格を与えた。
『キリギリスのバイオリン』『自分の言葉力』『不親切な風の道しるべ』『職場のカルト』がその典型である。
『職場のカルト』では、コンビニのバイトメンバーのあいだの共通了解の形成過程で、一人の女性が、教祖のように、弱者をまとめあげていく様子が観察される。
ここで注目されるべきは、教祖という頻繁に使われるオーソドックスなメタファーを使いながら、むしろその周囲に存在する個別の者たちの行動原理にこそ光をあてて、狂信への自発性を促されている弱者達の弱さ、崇拝している教祖すら裏切る強さを、見抜いている点である。別の思想体系との二重写しに力を借りて、思いもよらないところに光がさしていく。
『キリギリスのバイオリン』は、より哲学を感じる。
冒頭に述べたように、まず読者の提示した「もっといい職場で、お金を稼ぐべきである」という命題に対して、その対立項を厳しく区別した上で、全力をあげて互いを対立させながら、矛盾する命題同士がどうしても並存する状態を作り出す。その結果、「今やってることは、その先のなにかに繋げる工程である」という前提に、相手が立っていると発見する。再びこれに対して対立項を立てた後、今度は対立項自身の前提である「なにものにもならなくていい」という命題が出る。
多数の規定を持っているもののある側面に激しい光をあてて、対立項を徹底的に自己と違うものと措定してこれに対面し、その中でもより本質的な抽象的規定を取り出すという分析の手続きは、哲学といえる。
もちろん、学問としての哲学領域で要求される固有の問題の取り扱い方をしているというわけではないが、抽象作用を通して、まだ名前のついていない考え方や存在を見つけ出すことに成功している。
生活者がうまく言語化できなかった事柄を、専門用語や既成の概念を使わずに、自分の頭をよく使用して、論理化する美しさがある。
それは簡明でわかりやすい一方で、学問としての哲学やその他の厳密な知識の系列に依拠しないために、大胆な方法をとることがある。
つまり、対立する対象を無限包容して、これを一つの概念の中に平和に共存させるという思想的雑居性を抽象作用に用いる方法である。これによって、対象の価値的な整序が行われずに、むしろ外から、対象の背後に隠された不正な動機や意図を暴露して、体制批判にまで滑走させようとする虚偽意識論に膨張する。
そこでも二項対立は存在するが、内在的な価値の対立から新たな概念を見出すというよりも、政治的な権力の構図としての二分的図式の鮮烈なイメージに叩き込むというやり方で、問題の所在を特定する。
『3%諦める生活』という記事がある。
「なにか悪いことしましたか?って、政府に言いたくなるよね。」と、消費税増税について、明確な宛先を見出す。
『自分の切り売り』という記事がある。
「いろんな条件下で、人権の一部が他者の暴力で侵害されること、「仕方ない現実」みたいに受け止める考え方って、自分がその暴力のこぶしの真下に立ってる意識はないから、なんだと思う」と、人権概念の価値的な序列の議論を潔癖に拒否して、人権間の調整作業が支配者によって歪められていると暴露する。
諦めや無力のただなかから、その嘆きが痛切であればあるだけ、確固たる対極として、実在するもののごとくに呼びかけずにいられないものが、ここでいう「政府」であり「支配者」であるといえよう。
しかし、社会の複雑化により、明確な対立項を見出すことは困難である。
とくに彼女の心に映るようなクリアな彫像で捉えることは、ほとんど無理だろう。
それでもなおかつ、彼女の切迫した感情は、それを実在のものであるかのように呼びかけずにはいられないのである。
宛先を特定しようと感情は高まり、最後には哲学の論理性にぶつかってくる。
哲学の論理の寄せ付けないさみしさに、行き場を失った感情は、一つの残影を落とす。
それは、「だよね」という語尾である。
彼女の文章には、この語尾が異常に多いことに気づくだろう。
彼女は、見えるものだけ書く。
わかりきったことを当たり前に書いているだけという風に、「だよねー」と主張する。何につけても彼女の感情のままおとなしくついてゆくことを要求され、彼女が悲嘆にくれればこちらも、彼女が喜べばこちらも、という調子でなければ読み進められず、読者に自由が与えられていない。
貧困問題や暗い性のような、論争的な主題についても、当たり前なことを書いているという風情で、二分的図式で歌い上げられる。
彼女の言葉に敗北はない。語られる言葉についていけなくなった読者は、文章の数にともって増大した。しだいに激しい十字砲火を浴びせられることになり、莫大な才能にもかかわらず、遠くへ追いやられていった。そして、『私のいる世界』から一年後、はてなブログを去ることになった。
ここにきて愕然とする。
美点を生かそうとするあまり、凄まじい非難を浴びせられる運命に帰結したとわかる。