シロクマ先生渾身のエントリを読んだ。共感するところもあるが、氏というよりもはてなのダブルスタンダード具合が気になった。
子育てをコスパで判断する人というのは、政治哲学上の立場で言えばリバタリアンである。
人生には、経済的合理性(コストとベネフィット)だけで判断できない事柄がある。
子育てはまさにその1つだろう。
子育てをコストとベネフィットの観点でコスパが悪いと否定するのは、それを上回るベネフィットがあると増田が判断しているからだ。
そのベネフィットとは、特定の欲望の充足以外にはない。シロクマ氏の指摘するとおりである。
この増田の考え方がNGなのは、「子育てのベネフィットが予め可視化されていないからという理由で子育てを行わないこと」ではない。
増田がNGなのは「子育てをするのは望ましいこと」という倫理観を自明の前提として受け入れていないことだ。
なぜなら、「子育てのベネフィットを事前に可視化すること」は不可能だからだ。だからこそ、「核家族が望ましい」「法律婚が望ましい」「子育てをしたほうが望ましい」といった価値観群が倫理的でありうる。
このような倫理観がない社会はサスティナブル(継続可能)ではない。
このように、社会にとっての最低限の守るべきマナーや倫理を法律ではなく、「共通善」として定義しようというのが、コミュニタリアンの考え方である。
一方、増田のように、コスト(金銭的・時間的)とベネフィットだけに着目して、価値判断をする考え方をリバタリアンという。
リバタリアンは「自己決定権」の最大化をよりどころとする。
それはそれで、近代以降の人間性(個人の人格)を尊重する観念を最大限拡張しようという考え方であり、哲学的に否定されているわけではない。
リバタリアンはおかしいとなぜ私が思うのかというと、自己決定権の最大化のためには倫理を考慮外に置くところである。
例えば、リバタリアンは臓器売買や代理出産を(法の支配と正当な商取引のもとで行われる限り)肯定する。
臓器を売った人(代理出産の役務を提供した人)は自分でその決断をしたはずであり、また、その代価を受け取ったはずだからだ。
この場合の増田も同じことであり、子育てをしないという自己決定権を行使する自由は誰にでもあるはずだ、また、その理由をコスパに求める自由も当然にあるはずだ、と考える。
そこには、持続可能な社会はどうあるべきかという共通善のような考え方はない。
近代以降の観念からすれば、子育てをしない自由というのは、当然にあるのである。
それが強制される社会は、人権のない社会である。
しかしながら、その自由がありつつも、何が望ましいかという倫理=共通善はそれとは別に持つべきだと、コミュニタリアンは考えるのである。
ここで、マイケル・サンデルが不道徳な市場主義の例として挙げている事例をリストアップしてみる。
- 読書をした生徒に褒美として現金を渡す。
- 医者の予約を転売する。
- チャリティ公演の待ち行列に並ぶのを代行する商売
- 中国の一人っ子政策下でわざと罰金を払って出産許可を金を出して買う。
- 自治体の命名権や子供の命名権を売りに出す。
ここまで書くとおわかりいただけたかもしれないが、はてなでは、しばしばリバタリアン的な意見がスターを集める。
コミュニタリアン的な意見が叩かれるといってもよい。
キラキラネーム、墓が維持できない問題、家事分担の話題、恋愛のミスマッチの話題、草食系の原因について、マイルドヤンキー、文化資本の格差…etc…
直近では以下のエントリとか。
しかし、はてなーが基本的に嫌っている四文字の女性ブロガー氏などは、典型的なリバタリアンである。
いまだにはてな村の好悪の基準がわからない…。
これからの「正義」の話をしよう (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
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