ソウルから京釜高速道路を走ると、ほどなくして右側に板橋新都市の団地型マンションが見えてくるが、そこに樹齢500年を超えるケヤキの木がある。かつて嶺南大路(慶尚道につながる街道)の板橋酒幕村(宿場町に相当)や市場を見守ってきた木だ。360年前、ここを通過した際に詩を詠んだ朝鮮王朝の官吏がいた。「東氷庫の漢江の渡し場で、船は何度遅れたことだろうか。板橋のわらぶき屋根の酒幕(宿屋を兼ねた居酒屋)が連なる道は前からよく知っている」この詩を詠んだのは、王の命令を受け日本に向かった朝鮮通信使、ナム・ヨンイクだ。昌徳宮で王から清心丸(丸薬の一種)、虎の毛皮、油を含ませた紙、扇子を授かり、崇礼門(南大門)を出発してから2日後のことだった。
朝鮮通信使は、朝鮮王朝の国王が1607年から1811年まで、日本の将軍の元に派遣した外交使節だ。主な任務は、王の国書を日本の将軍に届けることだったが、それだけにとどまらなかった。文人や画家、楽士、医師、大道芸人などがメンバーに含まれ、文化使節団としての役割も果たした。漢陽(現・ソウル)から竜仁、忠州、尚州、大邱、清道、密陽を経て釜山に至る嶺南大路は、当時の朝鮮で最も重要な道路だった。慶尚道と忠清道を結ぶ聞慶セジェ、泥棒の被害が多いため8人一緒でないと越えるのが難しいと言われた慶尚北道清道郡の八助嶺、慶尚南道密陽市と梁山市を隔てる洛東江沿いのがけを通り過ぎる「チャクウォンチャンド」など、かつての嶺南大路沿いの各地に、今でも朝鮮通信使の足跡が残っている。
日本に渡り、京都を過ぎると東海道に入った。幕府が置かれている江戸と天皇が住む京都を結ぶ東海道は、昔から日本の国道1号線とされてきた。19世紀の日本の画家・安藤広重は、東海道のあちこちにある53カ所の宿場町を描いた浮世絵で世界に名をはせた。東海道の14番目の宿場町・吉原の街道沿いにある松の木は、現在でもそのまま残っている。
朝鮮通信使は200年間に12回派遣された。日本人たちはその風変わりな行列を一目見ようと、未明から通りに出て場所取りをした。抑えた場所を高値で売りつける人もいた。日本の知識人たちは、朝鮮通信使と詩文をやりとりすることを、またとない栄誉だと考えた。ある人は通信使が1篇の詩を書くと、翌日に屏風を持ってきて、落款を押してほしいと求めた。自分の文章を集めた文集を持ってきて、評価を求めた人もいた。
来月、韓日両国大学生たちが、ソウルから東京まで自転車で走り抜ける「21世紀のユース朝鮮通信使」の旅に出る。行く先々で歴史や学術セミナー、韓流イベントなどが行われるという。朝鮮通信使は、真心を尽くし、信頼に基づいて交流しようとする『誠信交隣』の精神がつくり出した、韓日外交の歴史でも光り輝く出来事だった。両国の若者たちが、朝鮮通信使のたどった道を二つの車輪で一緒に走り抜けることで、行き詰った韓日関係の改善をもたらすきっかけになれ派と思う。