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米収容所で3千人以上死亡 沖縄戦、悲劇は保護下でも/太平洋戦争最大の収容で


 沖縄本島北部の辺野古の米軍管理下の収容所=1945年7月(米軍撮影・沖縄県公文書館所蔵)
 1945年の米軍上陸後の沖縄で、少なくとも3千人以上の民間人が米軍管理の収容所内で死亡していたことが、沖縄県の全市町村を対象に共同通信が行った調査で5日までに分かった。


  収容所で多くの死者が出たことは知られていたが、県は「文書がなく収容所での死者数は不明」としている。死因はマラリア、飢餓などで、米軍保護下においても沖縄戦の悲劇が続いたことを示している。


 米軍は占領した地域から順に軍政を敷いて民間人を16地区の収容所に入れた。最大時に収容者は約30万人に達し、米軍の運営能力を超えていた可能性もある。死者数はさらに多いとみる研究者もいる。


 県内41市町村のうち収容所での当該自治体出身者の死者数を名簿や自治体史で把握していたのは8市村。南城市1923人、豊見城市485人、読谷村200人などで計3028人だった。


 この数字と部分的に重複する可能性はあるが、出身自治体別に集計されていない収容所単位の埋葬者名簿などでは、宜野座村1029人、名護市842人などの死者数記録がある。


 米軍は45年4月に本島に上陸。日本軍の組織的戦闘の終結は6月下旬、沖縄の守備軍が正式に降伏調印したのは9月7日だったが、米海軍の文書にはその9月に収容所の状況が「危機的」になったとの記述がある。


 体験者によると、食事の配給が「1日おにぎり1個」の収容所もあり、居住環境も劣悪だったという。
 沖縄県の「新沖縄県史編集委員会」会長の 吉浜忍 沖縄国際大教授は「収容所についての市町村史の記録などはあるが、研究が十分進んでいるとはいえない。実際の死者はもっと多いという感触はある。死者数の検証は、沖縄戦のもう一つの側面を考える足がかりになる」と話している。(黒川美加)





◎ 米軍文書も「危機的状況」 太平洋戦争最大の収容で 
 
 日本本土占領の際、連合国軍は日本政府を通じた間接統治をしたが、沖縄では軍政を敷き、直接統治した。ニミッツ太平洋艦隊司令官の布告で沖縄の施政権は奪われ、離島など一部を除き、民間人は原則として収容所に送られた。


 収容は民間人保護にも貢献したが、食料や医療が収容者に十分行き届かなかったことは米側文書にも記されている。


 米海軍による1945年4月から46年7月までの「軍政活動報告」には「(45年)9月には食料事情が危機的状況に陥った」との記述がある。米陸軍の史料「琉球列島の軍政」も「軍事が民事に優先された」と総括している。





 沖縄本島に上陸した米軍に拘束され、道路脇に座り込み、日本軍攻撃に向かう米軍を見つめる住民=1945年4月(ACME)
 米軍は44年にサイパン島を占領後、同様に民間人を収容したが、その数は約1万4千人。最大時約30万人に至った沖縄での収容は米軍にとって太平洋戦争中最大の「敵国人管理」だった。


 物量を誇った米軍にも30万人の「生存確保」には予想を上回る困難があったのか。あるいは、当初から収容所の犠牲は想定の上で、本土攻撃用の飛行場建設など現在に至る「基地の島」づくりを優先させたのか。


 米軍の収容所運営の実態については未解明な部分も多い。収容者数について米軍は詳細な記録を残しているが、収容所での死者数を明確に示す米軍の記録は見つかっていない。自治体がまとめた証言集には、収容所内で米兵によるレイプが横行したとの証言もある。(石山永一郎、黒川美加)


◎ おにぎり1個に長蛇の列 マラリアや飢えで連日死者 


 「収容所」はただの草地、配給はおにぎり1個―。沖縄戦を生き延びた人々を待っていたのは、なお続く過酷な現実だった。


 現在の沖縄県名護市には久志地区などに民間人収容所が置かれ、約10万人が暮らした。


 1945年6月ごろ、 上間宗男さん(84)=本部町=が米軍トラックに乗せられて着いた先は収容所とは名ばかりの「何もない草地だった」。場所は現在の米海兵隊基地キャンプ・シュワブ内。「テントは2、3日後に届いた。マラリアで毎日のように死者が出た」


  赤嶺冴子 さん(81)=豊見城市=は「1日1個だけ配られるおにぎりのために炎天下、長蛇の列に並んだ」と話す。衛生状態もひどく「小さい子はいつも下痢をしていた」。





 沖縄本島下原(現うるま市)の収容所で配給用の食料を受け取る民間人=1945年5月(米軍撮影・沖縄県公文書館所蔵)
 元名護市職員の 宮里健一郎さん(74)は「死者数が多すぎて、久志の収容所内の墓地では複数の遺体を一つの穴に埋葬していた」と話す。沖縄戦当時4歳。自身の記憶はかすかだが、収容体験者の証言を集めて伝える活動を続けている。


 ◎ 遺骨の収集や調査必要 

 沖縄出身で作家の目取真俊氏の話 民間人も収容所に入れられたことは、沖縄と他府県との「戦後」体験の大きな違いの出発点でもある。米軍上陸時、沖縄には約40万人の民間人がいた。米軍にとっても住民対策は重要な課題だった。その視点から民衆の証言や前線にいた米兵、日本兵の話をつなげていけば、公的な記録には表れない沖縄戦の様相が見えてくる。


 現在の米海兵隊基地キャンプ・シュワブ内にも「大浦崎収容所」があった。多くの人が亡くなったとされるが詳細は不明のままだ。埋葬された遺骨の収集とともに、資料や証言の収集と検証、基地内を含めた調査が必要だ。


 ◎ 可能な限りの検証を 

 桜沢誠 ・立命館大専門研究員(沖縄戦後史)の話 戦後70年が経過し、収容所の全容把握は極めて困難だが、史料の発掘や体験者からの聞き取りなどによる可能な限りの検証が必要だ。そもそも沖縄戦全体の戦没者数が正確に把握されておらず、戸籍などが焼失したため一般住民の死者数も不明のままだ。市町村レベルの丁寧な聞き取り調査で日本軍の行為が明らかになってきた一方で、米軍の行為の検証が遅れている側面も否めない。地上戦を経て住民収容がどのように行われたのかという研究も急がれる。


 ◎ 沖縄戦と住民収容 
 

 沖縄戦と住民収容 米軍は1945年3月26日に慶良間諸島、4月1日に沖縄本島に上陸、日本軍との間で地上戦が始まった。戦闘は多くの民間人を巻き込み、沖縄県民の約4人に1人が死亡、日米双方の犠牲者は20万人以上に達した。日本軍の組織的戦闘は6月下旬の牛島満陸軍司令官の自決で終わり、日本の終戦後の9月7日に沖縄守備軍は正式に降伏調印した。
 米軍は投降した日本兵は屋嘉(金武町)に集め、民間人は県内16地区の収容所に送った。県民の収容所からの解放が始まるのは45年10月以降。少なくとも46年6月まで民間人収容所は県内に残っていた。


 ◎ 調査の方法 

 7月中旬から沖縄県内の全41市町村にファクスで質問票を送付し、8月20日までに全自治体から回答を得た。回答集計後、さらに自治体担当者を直接取材し、死者数に重複がないかなどを精査。確実な数字だけを積み上げた。

(共同通信)

2015/09/06 17:00

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