2015年09月09日(水)
■概念分析の結果責任
「パクリである/パクリではない」という素朴な直観(「一般ピープル」の「ぱっと見」の印象)を微に入り細をうがって概念分析の手法で解剖して、人間の思考とはおおむねこういうものなのだ、という風になし崩しで肯定してしまおうとする。
……というような事態が「分析美学」なるスローガンのもとで行われがちなことに、本当にそれでいいのか、という懸念が表明され続ける、ということが、ここ10年くらい続いてきたように思うのだが、
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takayukifukatsu/20150907-00049112/
この記事で何が「よくわかる」かというと、素朴な直観の概念分析では届かない領域がある、ということがよくわかる。
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「あのとき日銀がああいう態度に凝り固まらなければ、ゼロ年代が違った風に推移して、「失われた年月」が20年にも及ぶことはなかったであろう」
という風な論法を採用する経済学者さんの一派があるわけだけれど、
そういう論法に便乗するとしたら、
素朴な直観の概念分析によるパクリ擁護論は、著作権、著者の権利と複製権、をめぐる複雑な歴史とその先で生じている現在の(主として音楽に関する)諸問題に効果的に介入することに明らかに失敗したゼロ年代半ば頃の段階で、失敗を率直に認めて路線を修正もしくは転換するべきであったと総括していいように思う。
(当時、「美学者」を名乗る論客にも音楽著作権関係の様々なお座敷がかかっていたが、おおむねグダグダだったことを想起せよ、あの奇妙な騒ぎは検証されてしかるべきだ。)
人間は誰しも失敗することがある。
でも、敢えて変な言い方をすると、失敗に成功する場合と、失敗に失敗する場合がある。「パクリ論」がその後10年こじれ続けたのは、あのとき失敗に失敗した余波が幾分かはあるんじゃないか。
学問は自由をベースにしているが、政治(現実への介入)は結果責任だ。
「若くして偉くなった人には、それがわからんのです」