ある日、フランスで指導教員であったE. ブリアン氏に、これから少し、行政組織の委員会的な仕事に関わるという話をした。2010年頃から、自分はちょこちょこ色々な仕事をしてるので、いつ、どの話をしたのかは思い出せない。
覚えているのはブリアン氏がその時、EHESSの改革に深く関わり、仕事が終わったタイミングで体調を崩され、休養を余儀なくされた後だったことだ。だからその体験を踏まえてされた話をしてくださり、それがとても印象に残っている。
覚え間違いもあるかも知れないが、こういう趣旨のことをおっしゃった。
行きなさい。それは是非見てきなさい。国家という、とてつもなく重たい装置の手応えというものは、近づいてみるとよりよく見えてくるものだから。きっといい経験になる。
そしてコンドルセに言及された。 18世紀の私たちの知っているあの時代の場合、それを動かすこと、ルイ14世が「困難な王の仕事」と呼んだ作業、その一端を、たとえばコンドルセは政治改革に携わった30代の時に垣間見ることが出来た。それは、知らないうちに出来上がり積み重なっている奇怪な仕組みを苦労して理解して、些末なことについて果てしない交渉が積み重ねていくことが要求される、とにかく骨の折れる仕事だ。
しかも、今決めたことは絶対に、すぐに効果を発揮することはない。たいてい20年くらいはかかってしまう。今、20年後のために頑張らなければならず、それは周りの人に理解されない。効果が出た頃は、そのために働いた人のことを皆が忘れている。
時代も場所も全く違うが、国家の営みに触れることは、コンドルセとあの時代のことを理解することにも、きっとどこかで役立つ。
だいたい、そんな話だったと思う。
コンドルセ(1743−1794)は数学者でありながら、三十代の初め頃、1774年から76年にかけて財務総監テュルゴーの財政改革において、実質のアドバイザーの一人としてとして関わった。最初は無給で、途中から造幣局長官の肩書きを得て、助言し続けた。
当時、コンドルセのような立場で行政に関わるのは異例であった。数学者である彼は行政官になるのにふさわしい経歴を歩んでいなかったからだ。
しかも科学アカデミーという観点から見ると、彼はようやく発言権を持つ正会員になった位の時期である。若造でしかない。そして背景にはヴォルテールの意図を汲んだダランベールが控えていた。科学アカデミーの関係者からすると、派閥政治の駒と映ったはずだ。
事実、コンドルセは改革に関わっていた時期に同アカデミーの終身書記をめざしたところ(既にその前から老齢のフシー終身書記の補佐役にはなっていた)、同僚から反対意見が出たり、終身書記として彼の書く文書にアカデミーの同僚が内部検閲を要求する主張をしたりといった事件が起きた。コンドルセがアカデミーの紀要を通じて政治プロパガンダを行うことを警戒したのだろう。
しかし改革が失敗に終わると、コンドルセは満場一致で終身書記に選出される。
科学アカデミー関係者は、コンドルセの行動の政治性を理解し牽制しながらも、その脅威がなくなった途端、彼の能力に対する評価を的確に行ったのである。
この経緯について初めて知ったとき、当時の私はまだ何も知らない若者だったので、「科学者なのに政治に関わったから嫌われて、全体的にアカデミーに居づらくなった」という流れにならないのが不思議だった。仮にも20世紀の民主主義国家に生まれたというのに、私には、政治と感情の境目も、政治と学術の違いもわかっていなかったのだ。
その後、1780年代に入ると、コンドルセは、あくまでアカデミーの関係者としてであるが、再びかなり活発に行政と科学の間を取り持つべく動き回っている。パリの運河建設計画案や病院移転案の審査に科学アカデミーの学者が関与するべきだとの書簡を行政官に送り、社会数学についての自著を宮内大臣に贈呈している。
その一方で、夜はサロンやフリーメイソンの会合に出席し、政治や社会について語り合い、革命期が近づくと匿名での政治風刺文書執筆を活発化させた。ここからは、革命期のジロンド派代議士、自由と平等の擁護者、公教育論の思想家としての姿とつながっていく。
コンドルセという人物の、理想主義的思想家のようでいて、裏で色々画策する戦略家のような一面を、やはり昔の私はとらえがたく感じていた。また、科学アカデミーで重要な役職にある人が、匿名で政治風刺をするのも不思議に感じていた。彼は組織によほど不満を持っていたのだろうか、と考えもした。20代の私の感覚だと、不満を持つアウトローか体制派か、しかイメージがなかったのだ。
だが、今ならよくわかる。彼は、彼の同時代人と同様、政治と、それを踏まえた上での知的な影響力の行使について、非常によくわかっていた。制度の中での立ち居振る舞い、非公式な場所での自由な執筆、二つの存在様態を非常に巧みに使い分けていたのだ。
学術と行政、非公式の政治言説世界、そして革命期の政治活動と、複数のレイヤーにまたがって影響力を行使した。そして最終的には、革命後のフランス市民と一九世紀の官僚の双方が納得し、イデオロギーとして祭り上げることが可能となる社会思想を作り上げてしまった。
他の啓蒙期の思想家にしても、コンドルセほど官僚的な感覚を身につけたわけではない人も多いが、書簡の交換や王侯君主との社交など、やはり大変巧みに権力とつながりを持っていた人物は少なくない。欧州の知性の歴史というのは、当事者達のそのような政治性と共に理解されねばならないだろう。
このような把握が前より容易になったということ、それは少なくとも、ついこの間終わりを告げた自分の三十代がもたらした、一つの大きな成果であったと思っている。