ヒトラーは1933年の政権発足後、わずか半年の間に、「合法的に」議会政治を解体し、ナチ党の一党独裁体制を作り上げた(→詳しくは前回参照)。しかし、この時点でまだヒトラーは「首相」でしかない。最終回は、ヴァイマル憲法にも規定のない絶対的指導者「総統」の座につくまでの動きを追う(*石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』より「第四章 ナチ体制の確立」を特別公開)
4 民意の転換
社会のナチ化
ヒトラー政権が発足すると、その影響は社会の各分野に現れ、やがて社会全体を大きく変容させた。本書ではこの過程を社会のナチ化と呼ぶが、それは、法と民意を車の両輪として進展したといえるだろう。
ここでいう法とは、ヒンデンブルクが、実際にはヒトラーの意図にそって憲法に基づいて公布してきた一連の大統領緊急令と、授権法を手にしたヒトラー政府が国会に代わって制定するおびただしい数の法律・政令のことだ。
一方、ヒトラーに対する民意は、彼が政権に就いた1933年1月の時点では割れていた。
直前の国会選挙で三分の二の票がナチ党以外の政党に投じられていたように、国民の大半はヒトラーにドイツの未来を委ねようとはしていなかった。だが実際にヒトラーが首相となって国民の団結と統一を訴え、復興に向けて力強く歩み出す姿勢を見せると、民意は動き始める。これまでナチ党を支持してきた者は、いっそう熱狂的になり、残りの三分の二の国民の間には期待を込めて、ヒトラーに賭けてみようという気運が広がりだした。
反対派の先頭に立つべき左翼の政治指導者はみな逮捕されるか、大統領緊急令を根拠に全国各地に設けられた強制収容所に押し込められた。白昼、突撃隊に襲われて辱めを受け、市中を引き回しにされ、収容所に長期拘留される者も少なくなかった。政府はこうした措置を合法的な再教育と主張して異論を封じ込めた。新聞メディアは強制収容所を「新しい矯正施設」と好意的に報道した。
国家的な人権侵害に憤りを覚え、被害者救済に走る市民や弁護士の動きもあるにはあった。
だが33年3月には、大統領緊急令に基づいてもっぱら「政治犯」だけを裁き、控訴は認められない「特別法廷」が設置された。そのような法廷の存在は、彼らの活動を萎縮させることになった。
保守陣営・市民層が期待していたマルクス主義の撲滅は断行された。しかし同時に、それまで憲法で保障されていた、国民が自由に安心して暮らすための最低限の基本的権利、すなわち人身の自由、住居の不可侵、信書の秘密、意見表明の自由、集会の自由、結社の自由などの権利も損なわれてしまった。これに国民が抗議の声を上げなかったことが、独裁体制へ道を拓くことにつながった。
なぜその途中の過程で、人びとは反発しなかったのだろうか。
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